2021年11月14日 主日朝礼拝説教「ガラスの城」

https://www.youtube.com/watch?v=Us9C_aFkHAQ=1s

創世記37:1~11 ヨハネ黙示録21:9~18
 
「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」(創世記37:4)

「都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。」(ヨハネ黙示録21:18)

説教者 山本裕司 牧師

 私が神学生の時、旧約学を教えて下さった左近淑先生は、ヨセフ物語の講解冒頭をこう印象深く書き始めておれます。「ガラスの城、家族が壊れる、一軒の家庭の平和が突然崩れる。それは些細なことからも崩れます。神を信じる家庭にもそれは起こります」と。
 
 この「ガラスの城」という言葉を聞くと、ルネ・クレマン監督による1950年のフランス映画の名作を思い出します。時代を代表した俳優ミシェル・モルガンとジャン・マレー、その天下の美女美男による恋愛物語です。互いに激しく引かれ合う二人ですが、しかし既に二人ともパートナーがいます。それを捨てなければ一緒になることは出来ない、そういう境遇にありました。夫や婚約者を捨てること、それは倫理的に許されません。だから二人は必死で別れようとする。その激しい葛藤の末、女つまりミシェルは彼ジャンを振り切って去ろうとしますが、パリ駅で列車に乗り遅れるという偶然も重なって、感情の虜になった二人は思わず思いを遂げてしまう。美しい二人です。それは映画を観る者を陶酔させて余りあるシーンとなりますが、彼らがふと立ち上がった時、下に落ちていた「ガラスの城」のミニチュアを踏みつける、ぞっとするようなシーンが現れるのです。砕かれたガラスによって二人とも裸足の足を切って血を流す。それはうっとりしていた観客の目を覚まさせるのに十分でした。二人の美しさはそうやって肯定されない。捨てられたそれぞれのパートナーの涙と怒りが描かれます。それはどれほど二人の愛が美しくても、それは脆くて、血を呼ぶ「ガラスの城」に過ぎないと描かれるのです。

 「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった」(創世記37:3)。依怙贔屓です。17歳に成長したヨセフは美しい母ラケルと瓜二つの美少年となりました。ヤコブにとって文字通り亡き妻の忘れ形見でした。この前ここで読んだように、ラケルにはもう一人の子ベニヤミンが与えられましたが、ラケルはその時の難産のために死にました。そのためヤコブがベニヤミンを見る時、その目はどこか悲しげであったのではないでしょうか。その他の息子たち、つまり無理矢理義父ラバンに押し付けられた、もう一人の妻レアや側女が産んだ子たちはヤコブにとって、はっきり言えばどうでも良かった。それはいけないとさすがに父ヤコブも思ったに違いありません。しかしヤコブは八百万の神々ではなく、唯一の神のみを愛する人間として選ばれた存在でした。その「唯一の主への信仰」は、世界でただ一人、このヤコブによってこの世で保持され伝道されていくのです。そのような彼の愛におけるひたむきな魂もまた「光と影」であったのです。光とは今言った「唯一神信仰」のことです。影とは依怙贔屓の罪のことです。彼はその一途さの故に唯一の人しか愛せないのです。彼が神と並ぶほどの情熱を注いだラケル、その妻が残してくれたヨセフこそヤコブにとっての「独り子」だったのです。そのために、約束の地カナンにおける神の民イスラエル、その原初の家は文字通り脆く危険なガラスの城でしかありませんでした。

 先ほどもう一箇所朗読した、終末の日を描くヨハネ黙示録に出現する、天から降って来る新しい都エルサレム、そこに「城門」について書かれてありました。「都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった」(21:12)。ヤコブの息子12人の名(創世記35:23~26)が、やがてイスラエルにおいてほぼそのまま部族名となりました。黙示録はその名が刻まれた神の国の門を描きます。その都はガラスのように美しく透き通った輝ける城でした。それでいて神の城は堅い純金で作られているのです。イスラエルの12人の息子の名がその城門に刻まれる終末の勝利の日を迎えるまでに、未だ余りにも大きな試練を神の民は長い歴史において経験していかねばならないのです。

 イスラエル/ヤコブはヨセフに「裾の長い晴れ着を作ってやった」(創世記37:3)、これは礼服です。聖書では他に、ダビデ王の娘タマルが着る「飾り付きの上着」(サムエル下13:18)と訳されて出て来ます。それは兄たちの服、今で言えばジーンズのような労働着ではありません。羊飼いであり農民でもあった兄たちはそれを着て肉体労働に明け暮れていました。その中でヨセフだけは父の寵愛を文字通り一身にまとっていたのです。注解者は「裾の長い晴れ着」を着ることは、明らかに身分差を示していると指摘しています。

 『ヨセフとその兄弟』の中でトーマス・マンは、ヤコブはヨセフが11番目の息子であるにもかわらず、彼に長子権と祝福を授けようとしていた、そうはっきり書きます。ヤコブ自身の人生の反復がそこに現れるのです。彼もまた母リベカの偏愛を受け、その入れ知恵によって兄エサウを出し抜き長子権と祝福を奪った人間でした。兄弟の順番が逆転することはもう自分で経験済みだったのです。本当の長男はレアの産んだルベンです。しかし彼は「父の側女ビルハのところへ入って寝た。このことはイスラエルの耳にも入った」(35:22)という愚かなことをしてしまいました。それを「告げ口」(37:2b)したのはヨセフだったのではないでしょうか。ヤコブはルベンを怒りながらも、それを口実に最愛のラケルの子に自分の全てを受け継がせる、その言い分が立ったことを密かに喜んでいたのではないかと推測さえされるのです。その偏愛がどれほど恐ろしい結果を招くか。ヤコブのラケルへの一途な愛、その情熱が「ガラスの城」を粉々に破壊しようとしているのです。かくして人は愛という名のもとに最も大きな罪を犯す、そういう存在なのです。

 ヨセフは「兄たちのことを父に告げ口した」(37:2b)と書かれてあるように、既に彼は長子のような監督の役割を意地悪く果たそうとしていたのです。兄たちの憎しみは「ますます」(37:5、37:8)増幅されていくばかりです。「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」(37:4)。「穏やかに」というこの原文は「シャーローム」です。イスラエルの挨拶の言葉にもなりました。そうであればこの家には互いに「シャーローム」(平和)と交わし合う挨拶がない、平和なき家がここに建ったと暗示されているのです。

 それだけでも済みません。ヨセフは夢を見る者でした。「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」(37:7)。ラケルの子こそ跡取りとしたい、そのヤコブの願望はそのままヨセフの野心でもありました。彼は遙かに年下であるにもかかわらず、兄たちの上に立つ王となりたいという、その深層心理が夢として表れたのです。もう一つの夢はこうでした。「太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです」(37:9)。「日」は父、「月」は母を表します。またヨセフを入れて12の「星」は「黄道帯」(こうどうたい)を形成します。黄道とは空の太陽の通り道のことです。一年かけて太陽が12組の星座の間を移動していく、その道を黄道と呼びます。太陽の通り道を12の星座が守っている。そうやって宇宙全体の平和・シャーロームが保たれているという理解が昔からありました。それをヤコブ家に当てはめれば、この一家、太陽と月である両親と星座である12人の息子(黄道12星座と数がぴったり合っていたのです)、この者たちが天球の14の天体のように、それぞれが自分の分をわきまえてその位置を秩序正しく守っていれば、家はシャーロームの円満を得ることが出来るのです。ところがヨセフの夢はその調和した宇宙を崩します。つまり夢の中でヨセフの星がこの「円」から離れて一人拝礼を受ける高みに上る。そのため本来統合されるべきヤコブ家の円満に亀裂が生じてしまうのです。

 自分がそのような家庭崩壊をもたらす存在とは無邪気なヨセフは気付いていません。しかしその夢を打ち明けられたヤコブは、さすがにその危険を敏感に感じ取ります。「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか」(37:10b)、そう叱りました。既にひびが入っているヤコブ家のシャーロームが、さらにこの2つの夢の打撃で粉々に砕け散ろうとしているのです。

 当時ヤコブ一家は先祖の墓があるヘブロンに住んでいました。しかし家計の中心を担うレアの息子たちはシケムの草原で父の羊を飼っています(37:12b)。その遠い草原で何週間も労働着を汗みどろにして働いた末、5~6日の行程を経てヘブロンにやっと帰った兄たちの前に、涼しい顔の晴れ着の美少年が出迎え、自分の見た夢の話を得意になってする。父の手前殴りつけることも出来ない。溜まりに溜まった怒りのマグマは噴出寸前です。ヤコブもその危険を直感して叱ったと先に指摘しましたが、それでいてヤコブは何故か息子たちとは違う思いをも抱いたとも記されています。「兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた」(37:11)。確かにこのヨセフの夢は、ただ人間的レベルではとんでもない傲慢というだけです。しかし夢は単にヨセフが王になりたいという深層心理からだけ表れたのでは実はなかったのです。そこには神様の遠い将来を見据えたご計画が暗示されていたのです。この御心においてどのような意味があるのか、それをヤコブはこの後死に至るまで思い巡らすことになるのです。彼はそうやってマンの書いたラケルの遺言「あなたは、神さまはどういうお方なのか深く考え、それを究めなくてはならないのよ」その願いを生涯を賭して果たそうとする、彼はそういう人間でした。

 人間の混乱の中に、見えざる神の摂理が隠されているかもしれない。それはヤコブ自身にも思い当たることがありました。彼もまた若い時、自分の家の家庭崩壊を引き起こしたのです。しかしそこからヤコブの唯一の神を求める巡礼が始まります。そこに神の人間の罪をも用いる奇しき恵みのご計画がありました。それを経験してきたヤコブはヨセフが夢を打ち明けた時、はっと何かを感じたのではないでしょうか。物語を先取りすると、やがてヨセフは兄たちから虐待を受け、エジプトに奴隷として売られてしまいます。そうやってヨセフは約束の地カナンから消える。父ヤコブの嘆きは余りにも深かった。しかしこれもまた神の遠大な計画、もう砕かれない家を目指す摂理の一部だったのです。その不思議な導きによってヨセフはエジプトで王ファラオに仕える高官へと出世を遂げます。やがてカナン地方が飢饉となった時、エジプトに頼ってやって来たヤコブ家を備蓄穀物の放出をもってヨセフは救うのです。その時兄たちは、それがヨセフとは知らずにエジプトの高官の前に跪きました。それはまさに「兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」(37:7)、「太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏している」(37:9)この夢の実現であったのです。

 しかしその夢とはヨセフ自身も兄たちも全く予想していなかった意味がありました。あの夢はヨセフがイスラエル家の主(あるじ)になって、益々我が儘放題に支配するという意味ではありませんでした。数十年後に来るカナン地方の飢餓地獄からイスラエルを救うための神の深謀遠慮であった。またそれ以上に大切なことは、そのことによってヨセフもヤコブも兄たちも等しく唯一の神ヤハウエの余りにも深い御旨の前に謙り跪くことです。その信仰が与えられることです。その礼拝によって家庭崩壊の傷口が癒やされ、兄弟たちは一つとなり、新しいイスラエルへと家族は甦るのです。

 そのエジプトの大臣謁見室での出来事を先取りして読みましょう。「ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。/ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った」(45:14~15)。そうやってヤコブ家に付きまとってきた魂の飢饉から皆が「シャーローム」へと救われていくのです。私たち罪人の作る家は脆いガラスの城でしかありません。しかしその家にいるのは人間だけではありません。その家の真の主(あるじ)は神様ご自身です。そしてその家が倒れないように愛をもって監督していて下さるのです。やがてインマヌエルの御子が来て下さり、一度ヨセフに似て、十字架へと捨てられますが、不思議なことにそれが隅の親石となって私たちの家を崩壊から守って下さるのです。詩編詩人が歌ったように。「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。/これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと」(詩編118:22~23)。

 私たちの罪深い人生もまた家も、神様の計り知れないご計画と御子の贖いの故に、ヤコブの家のように、再生への道へと進んでいるのです。そして終わりの日に、天から降って来る12人のヤコブの息子の名が刻まれた城門、それに囲まれた神の国の都の内に、私たちの家も、教会も、輝ける透明なガラスのように美しくありながら、なお堅固である城の一つに加えて頂けることでしょう。それは何と大きな祝福でしょうか。

祈りましょう。 父なる神様、毎日のように家庭崩壊の悲劇の報道を聞かない日がない、今にも崩れそうな私たちの家であり日本社会ですが、どうかあなたがそのようなガラスの城を守って下さい。もはや砕けたガラスによって傷付けられ血を流す子どもたちが一人も現れない、御子を親石とする堅固な家を、この日本にあなたが建てて下さい。そのために私たち新しいイスラエル/教会こそが先ず、あなたの前に謙り拝礼し、互いに仕え合う僕となることが出来ますように聖霊をもって導いて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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