2021年10月31日 主日朝礼拝説教「最愛の妻ラケルの死」

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創世記35:8~29 マタイ福音書28:1~2

「一同がベテルを出発し、エフラタまで行くにはまだかなりの道のりがあるときに、ラケルが産気づいたが、難産であった。」(創世記35:16)

「すると…主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。」(マタイ福音書28:2)

説教者 山本裕司 牧師

 若き日のヤコブは兄エサウを騙しその殺意に晒され故郷を追われました。ヤコブは長子の家督権と神の祝福を得たはずなのに、一夜にして天涯孤独無一文の漂泊者に転落したのです。そのヤコブを救ったのがベテルに下られた神の言葉でした。「見よ、わたしはあなたと共にいる。…わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(創世記28:15)。どん底に落ちようとも共にいて下さるインマヌエルの神の発見、これこそがヤコブが父イサクから受け継いだ祝福の真の意味であったのです。もう一つ孤独のヤコブを救ったのがラケルでした。パダン・アラム(ハラン)の井戸端で、長旅によって埃にまみれたヤコブの前に、大草原の向こうから羊たちに囲まれて近付いて来たのがラケルでした。12歳のラケルは愛らしかった。トーマス・マンに言わせれば、特に美しかったのは見知らぬ旅の男を見詰めるその目元であった。知性で縁取られた夜のように黒い瞳が近眼によって清められ、甘い潤いを帯びた彼女の眼差しほど美しいものはなかった。ヤコブは一目で恋に落ちる。ラケルが親類だと知ると、ヤコブは何故か羊飼いが数人がかりでなければ動かすことも出来ない井戸の石蓋を、馬鹿力で転がしてしまう。そしてラケルの羊に水を飲ませ、許しを請うと接吻して声を上げて泣きました。その時周りの羊飼いたちは「ル、ル、ル!」とはやしたてたのだ。

 ヤコブが彼女との結婚を願った時、ラケルの父ラバン(ヤコブにとっては伯父)の策略によって七年間待たされる。その上、姉レアとの望まない結婚まで強いられ、ようやくラケルを妻としたヤコブでした。しかし夫から顧みられないレアを神は顧み、次々に男の子が与えられましたが(35:23)、夫から顧みられるラケルを神は顧みられず、子どもが出来ません。しかし十数年後、苦悶の井戸に落ちたラケルの石蓋をついに神は転がして下さり彼女は身籠もったのです。

 それは激しい産みの苦しみとなったと描いたのがトーマス・マンでした。ラケルは歯を食い縛り健気に戦った。しかしその限界を超えた時、愛らしいラケルとは思えない物凄い悲鳴が発せられた。ヤコブは屋敷中をおろおろと歩き回り神に向かって叫んだ。どうかラケルが苦痛から解放されるようにと。その生死の戦いを経てヤコブの子、11番目であるにもかかわらず、ヤコブにとっては事実上の「初子」が産まれ出たのでした。ラケルは全身汗みずくで胎(はら)は裂け舌もかみ切っていたが清らかな顔に戻っていた。その赤子は母に似てこの上無く愛くるしく神の愛が光輝いているようであった。ラケルはこれほどの産みの苦しみに遭ったのに、直ぐ忘れてしまったかのように、「『主がわたしにもう一人男の子を加えてくださいますように(ヨセフ)』と願って、その子をヨセフと名付けた」(30:24)。この祈りこそラケルの命取りとなりました。

 人は大昔から女が新しい生命を産むという大きな祝福の時、何故死ぬ程の産みの苦しみを経験するのか、その矛盾のわけを思索してきました。その時創世記記者は、それは禁断の木の実を食べた女への裁きなのだと言ったのです。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む…」(3:16)。確かにラケルは罪を犯しました。愛らしい罪は父ラバンの家から逃亡した時、父の守り神「テラフィム」を盗んだことです(31:19)。しかし本当の彼女の罪は、姉レアが次々にヤコブの子を宿した時に生じました。ヤコブの愛に応えられないラケルの悲しみと姉への嫉妬は余りにも深かった。原罪とは愛の中でこそ最も激しく働くのです。そのため「わたしにもぜひ子供を与えてください」(30:1b)と食ってかかり、ヤコブから「わたしが神に代われると言うのか」(30:2)と生涯でただ一度激怒される。そこで苦し紛れに自分の召し使いビルハをヤコブに与えて子を産ませました。あるいはレアの長子ルベンが、野原で「恋なすび」(マンドレイク、多産薬)を見付けた時、それを姉がヤコブの寝室に入ることと引き換えに分けてもらう。ところがラケルに恋なすびの効果はなく、身籠もったのは皮肉にも姉の方でした。しかしついにラケルが夫に最大の贈り物をする時が来るのです。聖書はその理由をこう言いました。「神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れその胎を開かれた」(30:22)と。この全生命の創造主に「生命」を委ねることが出来ない、そして自分の力で「生命」を産み出そうとする、この「神に代われる」(30:2)と思う高慢こそが原罪なのです。それが人間に産みの苦しみという矛盾を与えた、そう創世記の神話は書くのです。この21世紀、益々高度に発達した生命工学によって、まさに生命を人間が作り出すことが出来るかの如き時代が到来しています。それは大きな福音であると同時に、思い掛けない「現代的産みの苦しみ」という矛盾を私たちに突き付けることでしょう。

 実は聖書にはヨセフの時の産みの苦しみは書いてありませんが、マンは想像の翼を広げてそう描きベニヤミン誕生物語の先取りとしたのです。そのマンは、ヤコブの人生の情熱、それは二つあると繰り返し言います。一つは主なる神であり、もう一つがラケルです。そのラケルは、「ヨセフ」という名に込めた願いが叶い、ヨセフ以来九年振りに妊娠していました。ヤコブはシケムの穏やかな環境で出産の時を迎えさせようとしましたが、その時「ディナ事件」(34:1~31)が勃発したのです。彼らは近隣の憎悪を浴び、旅に向かない盛夏であっても、妊婦がいても、シケムから逃れる他はありませんでした。そうであれば、これは姉レアの息子たちのシケムに対する暴虐の罪の報いを、ラケルが産みの苦しみをもって負ったということでもあったのです。

 ヤコブにとってシケムの虐殺事件は、25年前の危機に匹敵するものでした。一行が、ヤコブの信仰の原点ベテルまで落ち延びた時、ヤコブの第一の情熱、神の祝福の約束を改めて聞く、そのための儀礼に彼の魂は捕らえられてしまいます。「ヤコブは、神が自分と語られた場所に記念碑を立てた。それは石の柱で、彼はその上にぶどう酒を注ぎかけ、また油を注いだ」(35:14)。そう祭儀は一節にまとめられていますが、マンに言わせれば、ヤコブは燔祭のための完璧な祭壇作りに熱中し、周辺を神が降り立つ場に相応しい、崇高な場所に作り上げ、そこで数日間ぶっ通しで種々の礼拝儀礼を行ったのです。ヤコブは若き日のあの驚くべき霊的救済(28:10~22)の再現を求めて、ベテルの砂丘の上で瞑想し、もう一度あの天が開く夢を見ようと、文字通り夢中になりました。

 その間ラケルは天幕で徐々に強くなるお腹の痛みに耐えていた。ラケルはそれを口にすることを慎んでいました。愛するヤコブの神への集中を途切れさせたくなかったから。しかし事実は一刻を争っていました。何の準備もない不衛生な砂漠を離れて、父イサクが待つ町ヘブロンに上り、その行き届いた家庭でラケルは子を産まねばならなかったのです。

 25年前のような圧倒的な啓示ではありませんでしたが、ついにヤコブはもう一度下って来て下さった神の祝福(35:10~12)の言葉を聞くことが許されました。それでようやく出発が許されたキャラバンは、夏の太陽にジリジリ照らされつつ、オリーブ山から見れば豆粒のような小さな列を作って草原を進んだ。彼らはヘブロンまでの中継地であるエフラタ(ベツレヘム)を目指しました。しかしその途上でラケルは失神した。「一同がベテルを出発し、エフラタまで行くにはまだかなりの道のりがあるときに、ラケルが産気づいたが、難産であった」(35:16)。ラケルは何時間も前から痛みを感じていましたが、旅を妨げまいと黙っていたのです。「樫の木」(35:8)の影に運ばれたラケルが目を覚ました時、助産婦は彼女にこう声をかけました。「心配ありません。今度も男の子ですよ」(35:17)。その言葉が呼び水のようになって、最初の子ヨセフの出産の苦しみがラケルに再来した。助産婦の長年の経験、そしてヤコブの涙ながらの祈りも、今度は効果をもたらさなかった。全ては苦痛の嵐によって覆され、重石のような痛みに押し潰された産婦は、全身を痙攣させてのたうち回り、やがて血が流れるほど食い縛っていた唇は紫色に変色し「痛い、痛い」と叫び続け、ヤコブの神の名を叫んだ。

 夜になって気を失っていた産婦は正気に戻ってはっきり言いました。「ラケルは死にます」と。ヤコブはラケルの頭を抱き締めていたが、「なんてことを言うのだ」と呟くのが精一杯だった。一時、苦痛の波が引いた時、ヤコブはラケルのために楽な輿(こし)を作らせ、ベツレヘムの宿屋を目指そうと提案した。ところがラケルは、何故か「いえ、ベツレヘムの宿屋には私たちの泊まる場所はないから…」と譫言(うわごと)のように呟く。それから、さらに二度苦痛の嵐が通り過ぎていって心臓が弱った時、夫妻は子どもの名のことで話し合いました。ラケルは「その子をベン・オニ(わたしの苦しみの子)と名付けた」(35:18)。その死の苦しみを負っても、母はあなたの命を待っていたのよと。しかしラケルを離したくないヤコブはその不吉な言葉を遮り、違うと、「これをベニヤミン(幸いの子)と呼ぼう」と言った。約束の地カナンで私たち家族は四人で幸福に生きる、それこそが私がエサウから命懸けで奪った祝福なのだと。
 
 しかしそう言った瞬間、ヤコブは何故か、それが神の祝福ではないと感じられた。手を握り合う夫妻のわきではメソポタミアから連れて来た女たちが月神への安産祈願をお経のように唱え、奴隷たちがまじないの文句を呟き続けていた。その時ヤコブは何かが分かったような気がしたのです。あのメソポタミアのジッグラトでの荘厳な天体崇拝の祭儀や、カナンの意味不明なまじないがどうして誤っているか、その洞察が天啓された。祖父アブラハムが何故、ウルやハラン、つまり一族の故郷メソポタミアから旅立たねばならなかったのか、それが直感された。ヤコブの情熱、神とは誰か、その本性を極めようとするその苦悩は、ラケルの産みの苦しみに似ていた。そしてラケルにとっては、夫ヤコブが自分の死によって、信仰が増し加えられることが喜びだったのだ。後にイスラエルの詩人が「いろは歌」で歌ったように。

 「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(詩編119:71、口語訳)

 気の遠くなるような長い夜が終わり、嬰児(みどりご)が夜明け近くに生まれた。嬰児は窒息しそうだったので助産婦は胎児を力尽くで引き出さねばならなかった。ラケルはもう叫び声を出す力もなく気絶した。産婦の胎から続いて多量の血が流れ出て、ラケルの手首の脈はただ流れのように感じられるだけになり、今にも消えそうであった。しかし彼女は、生まれ落ちた嬰児が元気なのを見て、にっこりと微笑みを浮かべた。ヨセフはラケルのそばに連れてこられたが、ラケルはヨセフの顔をもうよく見分けられなかった。ラケルが最後に目を開いたのは、東の空が赤く染まり始めた時刻であった。ラケルの顔にも約束の地の朝焼けの光が射していた。ラケルは自分の上にかがみ込んでいるヤコブの顔を見上げ、近眼の人が遠くを見る時の常でまぶたを細め、まわらない舌で言った。「おや、ご覧なさい、旅の人だわ!…わたしに何故接吻して良いかとおっしゃるの?あなたが遠くから来た従兄弟だから?私たち二人は同じご祖先の子どもだからなのね?ではキスして良いことよ。井戸の石のまわりで羊飼いたちが大喜びしていてよ、ル、ル、ルって…」。ヤコブはラケルに震えながら最後の接吻をした時、彼女は続けた。「あたしの大事なヤコブ、あなたは逞しい力で私のために井戸の上から重石を転がし落として下さった。今度ももう一度、穴の上の石を転がし落として、ラバンの娘の私を埋めて下さい。私の重荷は取り除かれる。あなたとヨセフとちっちゃな赤ちゃん、その苦しみの子と別れるのは辛いわ。でも愛しいヤコブ、これからはラケルなしで神さまはどういうお方なのか深く考え、それを極めなくてはならないのよ。やり遂げて下さいね。さようなら、そして赦してね、私の罪を。テラフィムを盗んだことも…」そう言って、ラケルの顔は光を消した。

 「ラケルは死んで、エフラタ、すなわち今日のベツレヘムへ向かう道の傍らに葬られた。/ヤコブは、彼女の葬られた所に記念碑を立てた。それは、ラケルの葬りの碑として今でも残っている。」(35:19~20)

 路傍のラケルの墓の傍ら、その道を上るとエフラタ(ベツレヘム)に至ります。そこで一千数百年後、ヤコブが苦しみの旅の中で直感させられた「神の本性」そのものである、「ひとりのみどりごが生まれる」(イザヤ9:5)。その時ラケルの最初の子と同名のヨセフに夢の中で天使は言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。…マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:20~21)。

 それからヤコブたちはエフラタから少し旅した先の「ミグダル・エデル」(創世記35:21)に着きました。意味は「羊の群れの塔」です。大昔から、この地の羊飼いは塔の上から夜通し群れの番をしていたのです。やがてイスラエルがこのカナンを支配した後、この地は特別に守られた「きずや汚れのない」燔祭用の羊を養う地となりました。それは、その羊たちがエルサレム神殿での過越祭の犠牲のために用いられたからです。そのミグダル・エデルの羊飼いたちが、野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた時、主の栄光が周りを照らしました。そして空を舞う天使は救い主の誕生を告げたのです。そこで羊飼いたちは、急いでベツレヘムに行き、飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てました(ルカ2:10~12,16)。幼子はその33年後のエルサレムの春、その過越祭の時に、まさに「きずや汚れない小羊」(ペテロ一1:19)として十字架の上で犠牲となられたのです。その血によって、私たち人間の原罪を贖うために。

 ヤコブが貪欲にかられて兄から盗んだ祝福、その本当の意味とは、ウルやカナンの神々が約束する、家内安全商売繁盛無病息災安産成就、その御利益ではなかったのです。いえ、遙かにそれを凌駕する真の御利益のことでした。それはどうしてもその人生の中で罪を犯して、死ぬ、その私たちに対する、罪からの救いであり、苦しみの意味の発見であり、復活の命の付与であるということを。あのベテルで現れた同じ天使であったに違いない、イースターの朝、重い墓石をヤコブに似て天使はわきへ転がしてしまった(マタイ28:2)。そうやって死の重荷は取り除かれる。それは御子だけのことでは終わらない福音でした。ベツレヘム途上のラケルの墓石も、やがて私たちの上に覆い被さる墓石をも、天使は一人でわきへ転がしてくれるであろう。

 福嶋裕子先生はこう印象深く『ヒロインたちの聖書ものがたり』の中でラケルについて語ります。「預言者エレミヤは、ラケルが今も嘆き続けていると記した。しかしラケルの涙とその嘆きが希望に変わる日が必ず来ると続けたのだ(エレミヤ書31:15~17)。ちょうどラケルの末の子の名前が『苦しみの子』(ベン・オニ)から『幸いの子』(ベニヤミン)に変わったように。」インマヌエルの神の祝福の故に。

 この説教の終わりに、もう一度、マンの描くラケルの別れの言葉を引用します。「私の愛しい人、これからはラケルなしで神さまはどういうお方なのか深く考え、それを極めなくてはならないのよ。やり遂げて下さいね。さようなら、そして赦してね、私の罪を…」。これはヤコブにだけでない。時代を超えて世代を超えて、世の終わりの日まで、私たち全人類に向けられた旧約のスーパーヒロイン・ラケルの遺言なのです。

祈りましょう。 主なる神様、ヤコブのあなたを知るための壮大な巡礼の旅を受け継ぐ私たちのこの人生を、ヤコブが得た祝福をもって導いて下さい。そして私たちを繰り返し、ラケルの墓近くのベツレヘム、そこでお生まれになった一人の嬰児に、そしてエルサレムの墓から躍り出て来られた救い主に、向かわせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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