2021年10月3日 主日朝礼拝説教「夜の格闘」

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創世記32:23~33 ローマの信徒への手紙5:8~11

ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。/ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。(創世記32:31~32)

敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。(ローマの信徒への手紙5:10)

説教者 山本裕司 牧師

 先週ここで読みました、創世記32章前半の小見出しは「エサウとの再会の準備」とありました。そして33章の見出しは「エサウとの再会」とあります。先ほど朗読した32:23~33はその間に挟まれた物語です。その狭間でヤコブが夜を徹して何者かと格闘をする、これは忘れ難い印象を読者に残す物語です。それは私たちにも身に覚えがある夜だからではないでしょうか。たとえば病気の夜があります。私は異国の安ホテルで水に当たったのか激しい痛みと戦いながら、朝を待ったそういう夜の経験があります。もっと深刻な経験をされた人も多いことでしょう。入院の夜、看護師が最後の検温にきて立ち去っていく。靴音が廊下の向こうに消えて行く。それから深い沈黙と長い夜が来ます。昼の間は見舞いに来た家族や友達に強がりを言ってみせた。しかし夜、独りになると、もう虚勢の張りようもない、将来への不安と死の恐怖の中で震える子どものような自分が残されているだけです。今頃、皆家で平安の内に眠りについていることだろう、自分だけは眠れないまま起きている。誰もこの夜の不安を理解してもらえぬ辛さを思い苛立ちますが、でも自分だってこれまで、どれだけ家族や友人の心を思いやってきたのか、過去の自分の罪作りな振る舞いが、まるで昨日のことのように甦ってきて「ああ」と声を出しそうになり、口を押さえます。やがて夜が白み始めるまで心の葛藤、七転八倒が続く。

 創世記32:23~24「その夜、ヤコブは起きて、…(家族たち)皆を導いて川を渡らせ」ました。そして、32:25a、ヤコブただ独りが川の畔に残ったのです。

 昼の間、川を家族や家畜を渡らせる時、その忙しさの中でヤコブはエサウの顔をふと忘れたかもしれません。子どもたちの無邪気な笑い声、家畜たちの足音でお祭りのような賑やかな時が去り、はっと思うと、彼は夜の帳(とばり)に包まれ、そこはもはや風の音、川の流れの音が聞こえるばかりです。彼もまた孤独の中で自分の心と向かい合う夜を迎えました。20年前、ヤコブは兄エサウの憎悪の顔を避けて逃亡しましたが、ついに帰還のチャンスが訪れ、今や故郷カナンは目の前でした。しかしそこに四百人もの部下を率いたエサウが待ち構えていると言うのです。合わせる顔がない兄に、しかし明日どうしても対面しなければならない。確かに兄のご機嫌取りのために、数百頭の家畜を贈り物とする手筈は整えました(32:14~17)。しかしそれでは懐柔出来ず兄は剣を取って復讐に燃えた「顔」をヤコブに向けるかもしれない。彼は眠られないままもう一度祈ったのではないでしょうか。32:12「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。」「そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」そう32:25bにはありました。

 このヨルダン川支流の渓谷には、妖怪が住み、川を渡ろうとする旅人に、夜、襲い掛かる、そういう大昔からの渡し場伝説があったらしいのです。それがヤコブ物語の中に吸収されたと注解者は指摘しますが、聖書ではそれは妖怪伝説に止まらず罪の問題となっていきました。最初言いましたように、この不思議な物語を、エサウとの再会物語が、両側から挟み込んでいます。この文学的構造は、兄エサウへの恐怖を伴った罪意識、その「ただ中に」今、ヤコブは独り立っている、そのことを暗示しているのです。そこではもはや自らの犯した罪を誤魔化すことは出来ない、それを突き付けられる。そこに起こる激しい心理的葛藤が「夜の格闘」という形を取って表れるのです。しかもヤコブの場合、そのような対人関係の問題に止まりません。彼が20年前、父イサクを騙して、自分をエサウだと思わせるために使った決め台詞はこうでした。27:20「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったのです。」それはこの詐欺のために神を利用したということです。その頃はそんなこと何でもないと思っていた。しかしヤコブはパダン・アラムでの長い瞑想の中で、信仰が深まれば深まるほどその神に対する罪意識も川の淵のように深まっていったのです。神様など知らなかった方がよほど彼にとっては楽だった思えるほどに。エサウだけでない、彼は神にこそ合わせる顔がないのです。

 しかしここでもう誤魔化せない、目を背けたくなる「顔」とどうしても対面せざるを得ない夜が来たのです。エサウの殺意の顔、神の怒りの顔が、川を渡らせまいとするように、渡し場を守る妖怪、その恐ろしい顔となってヤコブに迫ってくる。その顔とヤコブは格闘するのです。ヤコブはここで妖怪の恐るべき顔に勝たなくては、川を渡ることは出来ない、明日は来ないと直感した。だから格闘となる。何時間も過ぎ、32:27、その者は「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」と願った時、ヤコブは答えました。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」その自分に向ける呪いの顔を、どうしても今夜、祝福の顔に変えて欲しいと願うのです。それは、いつの間にか、もはや、妖怪との闘いではなく、妖怪のような怒りと裁きの顔を向ける神への夜を徹する祈りの闘いとなっているのです。そのヤコブに対して、その者は、32:28「お前の名は何というのか」と尋ねます。「ヤコブです」と答えますが、この名前は25:25「かかと」を表す「アケブ」から来ていますが「騙し取る者」という意味になりました。名は体を表す。だから「ヤコブ」と答えることは、罪の告白となりました。そうですと、私はヤコブですと、だからあなたが妖怪のように自分を襲ってくるのは仕方がないけれども、どうか私のこの罪の告白と悔い改めを受け入れて欲しい、厚かましいお願いだとは分かっています。でもどうか私をもう呪わず、祝福して下さい、ただあなたの恩寵のみによって、そうやってヤコブは相手にしがみ付いているのです。これは明らかに神様への罪の赦しの懇願です。

 これは夜の闘いの物語です。そうであれば、私たちは激しい戦いなしに罪の告白も出来ないことを思い出します。自らの罪を直視することほど苦しい格闘はないのです。ヤコブのこの格闘とは、その罪責告白のための格闘でもあるのです。誰もが自分は正しいと思いたいのです。しかしヤコブはこの切羽詰まった夜、もはやそのプライドを捨てて、私はヤコブですと、罪人ですと名乗る、それがついに出来た瞬間、相手の顔が変わる、という驚くべき経験を彼はするのです。妖怪のように呪いに満ちた顔が変わり、その顔は憐れみに溢れてヤコブを見詰めていたのではないでしょうか。そして憐れみの神は言われます。32:29「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」と。名は体を表す。新しい名は新しい存在になったことを意味します。ついにこの川の畔でヤコブは生まれ変わって、もはや祝福を欺し取った者ではなく、父祖アブラハム以来の祝福の継承者に名実共に相応しい者と神様から認められたのです。ただ恩寵のみによって。そのことを使徒パウロは「信仰義認」と呼んだ。そうやってヤコブはイスラエルとなるのです。

 ヤコブは言いました。32:31「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」、そして、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けました。かつて旧約時代を貫いて、原罪を持つ人間が神の顔を見たのなら、その聖さの故に「生きることはできない」(出エジプト33:20)と教えられていたのです。しかしこの夜の格闘の末に、ヤコブに向けられた神の御顔は優しかった、だから顔を見ても生きることが出来る、いやむしろこれ以来その御顔を拝見することが許されたからこそ生きることが出来る、そこで初めて川を渡ることが許される、その感謝の故にヤコブはこの場所、妖怪の渡し場に、新しい名「ペヌエル(神の顔)」という聖なる名を与えたのです。

 この物語の中のもう一つの新しい名「イスラエル」の意味についてですが、格闘相手の神様御自身が、32:29「お前は神と人と闘って勝ったからだ」と説明しました。しかしこの夜の格闘において、ヤコブが勝ったと本当に言えるでしょうか。それで改めて32:26を読むと、「その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。」そうありますが、この試合後のヤコブの足を引きずる歩き方はむしろヤコブの敗北を示すようにも見えます。腿の関節をはずされたら、普通はTKO負けです。しかしヤコブが上半身だけで神様にしがみつき離さないので、相手は、32:27「もう去らせてくれ」と懇願するという状態で、やはりヤコブの執拗さに困り果てているという感じです。とにかくもし神様がヤコブに一方的に勝ったとしたら、どうなるかということです。それは神が呪いの顔を向けて罪人を容赦なく裁くという意味になるのではないでしょうか。それはヤコブの滅びです。しかし最後に神様は祝福の御顔を見せて下さいました。そうであれば、これを新約の光の中で読むならば、このヤコブと組み討ちをしている者とは御子イエスと理解することも可能ではないでしょうか。御子イエスは真の王の王、主の主、勝利者であられるのに、何故か時々、私たち人間に負けて見せて下さるようなお方だからです。

 例えばイエス様はある時、ティルスとシドン地方に行かれた。そこは異邦人の地です。そのカナン人の女が、イエス様に取りすがる。「娘が悪霊にひどく苦しめられています。」そう叫びながらどこまでも着いて来る。弟子たちは追い払おうとした。イエス様も、「わたしはイスラエルの家の羊のところにしか遣わされていない」そうお断りになった。しかし女は夜のヤコブのように諦めない。しがみ付いて離さない。イエス様も何とか追い払おうと思ったのか「子供たち(イスラエル)のパンを取って子犬(異邦人)にやってはいけない。」そう答えたところ女はそれでも執拗です。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」イエス様はそう聞いて降参した。「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気は癒やされた(マタイ15:21~26)。

 神の子イエスが異邦の女とのディベートに負けた。母は娘が祝福されるまで離さないとヤコブと同じことをした。そこでイエス様も根負けした。しかし私たちは知っています、それはイエス様が負けたのではないということです。主イエスは母に論破された。その負けることを通して、新約の異邦人伝道の扉を開く御旨を前進させられたのです。イエス様がここで勝っていたら、救いはイスラエルの家だけだと、今も旧約の時代が続いていたかもしれません。やがてそれはとんでもないことですが、御子イエスは人間の殺意によってKO負けします。人間によって十字架で殺されてしまった。そのような敗北とも重なります。そこで神が負けた、そう見える事件を通して、実は、異邦人も含めた全人類に、つまり罪人に、神様の祝福が及ぶようになる。ただ恩寵のみによって。爾来、誰であっても罪を悔い改めた者は祝福される、この主の敗北を通して、究極的な勝利を神様は出現させたのです。

 神様は、ヤコブに、あなたはイスラエルだと、32:29b「神と人と闘って勝った」からと言われました。ここに「人」ともあります。 次章33章において、次の朝、ヤコブが兄エサウと再会した時、驚くべきことが起こりました。エサウは、ヤコブの恐怖と対照的に、33:4「走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」何故、20年前の怒りがエサウの中で雲散霧消(うさんむしょう)してしまったのでしょうか。その理由をはっきりとは創世記は語ろうとしません。しかしヤコブは言いました。33:10「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。」ここに再び「神の御顔」(ペヌエル)と。昨晩の格闘の末に、ヤコブはついに神の憐れみの御顔を見ました。それと連動して、兄エサウの顔もその憐れみの御顔と一つになってしまったと物語られるのです。ヤコブは、ついに罪を告白し悔い改めたが故に、神と人の和解の顔を勝ち得た、だからイスラエルと呼ばれる、そう創世記記者は物語ろうとしているのです。

 〈もう一つ付け足せば、受難週の夜、ペトロは大祭司邸で「わたしはあの人を知らない」と三度も主を否認したその時、ルカ福音書によれば、22:61「主は振り向いてペトロを見つめられた」と書かれてあります。ペトロは振り向かれた主の御顔を見ることが出来たでしょうか。合わす顔はなかったと思います。もしその裏切りの罪を糾弾する御顔を見たらペトロは慚愧の余り、ユダのように自殺する他はなかったのではないでしょうか。まさに、「神の顔を見た者は死ぬ」です。しかしあに図らんや、ペトロは死ななかった。どうしてでしょうか。それはその振り返られた主の御顔をペトロが思わず見た返した時、それは裁きの顔ではなかった。どうしても罪を犯してしまう罪人への「憐れみと赦し」が御顔から照り輝いていた。その御顔はこう語っていた。あなたが死なないように、私が死ぬと、私は負ける、その贖罪の故に、あなたは川を渡れと、新しい人よ、朝の光の中に立ち上がれと、そう神様は、ペトロにもヤコブにも愛の御顔を向けて下さったっているのです。〉

 32:32「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。」長い夜の格闘は終わりました。夜の死を超えたヤコブを復活の朝の光が照らしました。私たちにも夜の経験があると先に言いました。しかしその眠れない夜の闘い中に来るのは妖怪ではない。死に神ではい、いえ一見、妖怪、死に神と見えるかもしれません。その者と闘っている内に、相手がいつの間にか憐れみの御子の御顔に変わっている、それを私たちも経験することが出来るのです。そして祝福の朝を等しく迎えることが出来るのです。神は愛なり、それは本当であります。今、夜の闇と毎晩闘っている人たちも、是非そのことを信じて欲しい。神は御子の故に、怒りの顔を捨て愛と赦しの眼差しを必ず私たちに向けて下さる、それを忘れないで欲しいと思います。

祈りましょう。 主なる父なる神様、あなたの顔を見ることも許されない私たちを、御子の十字架の故に、あなたは憐れんで下さり、御顔の光で照らして下さる、その御恩寵を深く感謝します。時に夜、明日を思い煩い不安と恐れの虜になる私たちですが、どうかその時こそあなたにしがみつく祈りの戦いによって、自らが祝福のもとにある、その確信を与えられ、川を渡り光の朝を迎えることが出来ますように、聖霊をもって導いて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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