2021年10月17日 主日礼拝説教「ヤコブの娘ディナの悲劇」

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創世記33:18~34:31

「しかし、シケムが妹のディナを汚したので、ヤコブの息子たちは、シケムとその父ハモルをだましてこう答えた。」(創世記34:13)

説教者 山本裕司 牧師

 メソポタミア、パダン・アラムからの長い試練の旅を経て、族長ヤコブとその一行は、ついに神の約束の地カナンに入りました。そしてシケムの町の首長ヒビ人ハモルの息子たちから土地を買いました。そこに「エル・エロヘ・イスラエル」、つまり「イスラエルの神」であられる主の祭壇を建てたのです。ヤコブはなお天幕生活者です。しかし祭壇を中心とした僅かな土地ですが、それをカナンに持つことが出来たのです。ヤコブはどんなにか安堵したことでしょうか。ところが旅の試練は終わっていなかったのです。神の約束の地と言ってもそこはカナン先住民の土地でした。そのただ中で移民イスラエルがどう異なる文化を持つ異邦人の中で生きるのか、いつの時代もそれが問われていくのです。
 そのような中で今朝巡って来た、シケムの町での大事件、ディナ物語はこう始まりました。「あるとき、レアとヤコブとの間に生まれた娘のディナが土地の娘たちに会いに出かけた…」(創世記34:1)と。天幕暮らしのディナはシケムの進んだ文化生活に魅力を感じたことでしょう。少女の好奇心もあってよく町に遊びに行き、友だちも出来たことでしょう。しかしそこで文明の衝突のような事件が勃発するのです。ヒビ人は定住農耕民によく見られる性的に解放された民でした。それに対して遊牧民であるイスラエルは極めて性的に厳格でした。モーセに率いられた荒野放浪のイスラエルこそが、十戒「姦淫してはならない」(出エジプト20:14)という掟を神から得ているのです。

 私は大洲にいた時「瀬降り物語」という四国の深い森でロケされた映画を見て大変感動したことがあります。戦前まで存在していた、山野を漂泊し天幕を張って旅を続けた山窩(サンカ・山の民)の物語です。「瀬降り」とは彼らが河原に張った天幕のことです。山窩は一般社会とは隔絶して生き「十戒」に似た独自の厳しい掟を持ちました。特に性に対して厳しい倫理を定めていたのです。やはり物語は町の青年と山窩の娘が引かれ合ったために起こる事件が描かれます。それに似てディナ物語においても、性的に厳格なイスラエルが、性的に解放されたカナン文化圏に入ったために激しい摩擦がそこに生じました。

 再びトーマス・マンの『ヨセフとその兄弟』ですが、彼の描くディナ物語に暫く耳を澄ましてみましょう。ディナはヘブライ人・ヤコブの一人娘であった。ヤコブとその一族がシケム郊外に住み着いた時、彼女は9歳だった。破局当時は13歳になっていた。ディナはシケムに来てから肉体が開花し、これがあのレアの娘かと驚くほどチャーミングな処女(おとめ)となった。ディナはメソポタミアの草原にいかにも似つかわしい娘であった。早くから蕾がほころび、多くの花を咲かせる春には恵まれるが、その春には溌剌とした夏が続かない草原そっくりの娘であった。草原は早五月になると、もう瑞々しい花の盛りの全てが、情け容赦ない太陽によって、炭のように焼き焦がされてしまう。

 秋分の満月の夜シケムでは7日間の祭りが開かれる。楽士たちはタンバリンをかき鳴らし、男たちは山羊のように跳ね上がり、娘たちを捕まえようとするが、娘たちは身体をそらして逃げ回った。その時、町の長(おさ)の息子、町の名をもつ王子シケムは、13歳になったエキゾチックなディナを見て欲情をむらむらと燃え上がらせた。シケムは館に帰ると父親にせびり続け、ヘブライ人のあの娘がいなくては生きていけないと言った。そこで父ハモルは、輿(こし)に担がれヤコブの幕屋に出掛けた。そして息子の激しい情炎のことを述べ、ヤコブが結婚に同意してくれるなら豊かな贈り物を差し上げましょう、若い二人のためにと、平和的な解決を申し出た。ヤコブは息子たちを集めて相談したところ、息子たちがシケムを「だます」(34:13)ために用いたのが「割礼」の要求であったのです。我々は神の手前、割礼のない男に妹を与えることは出来ないのだと。

 その条件を聞くと若者シケムは「それだけ?」と叫んだ。ディナを頂くためだったら、片目だって片手だって投げだそうと思っていたのだ。シケムが急ぎ処置し未だ治りきっていない7日後に訪ねて来た時は、献げた犠牲の故に足を引き摺っていた。ところがその時、興奮するシケムに兄弟たちは冷ややかに言ってのけたのだ。「割礼に必要なのは伝統的には石刀なのだ。まさか金属でしたのではないでしょうね。」確かに旧約聖書には割礼のための刃物に「火打ち石」が指示されている箇所があります(ヨシュア記5:2)。シケムは「今になってから石刀のことを持ち出すのか、そうだったら最初からそう言ってくれれば良かったではないか」と憤慨し罵声をあげて走り去った。

 白昼広々とした草原で子羊と戯れていたディナは、町の男たちに襲われて連れ去られます。一杯食わされた王子シケムがディナを誘拐したのだ。ディナはシケムのハレムに閉じ込められ最初は震えていたが、シケムを始めとして家族たちから大変親切にされ宝物のように扱われ、ある夜全てを自然のこととして受け入れたのだ。

 これはマンの物語の前半ですが、先ほど朗読した創世記の方ではこうなっています。「あるとき、レアとヤコブとの間に生まれた娘のディナが土地の娘たちに会いに出かけたが、/その土地の首長であるヒビ人ハモルの息子シケムが彼女を見かけて捕らえ、共に寝て辱めた」(創世記34:1~2)。つまりシケムはただ道を歩いていただけのディナをいきなり強姦したようにも読めます。しかしマンに言わせれば、これは実際の事件が伝承されていく過程で、後に凄まじい復讐をなすヤコブの息子たち、イスラエルに都合が良いように改変されたのだと指摘するのです。王子シケムのしたこはそんな殺されねばならないほどの犯罪ではないと、事件と言うなら熱烈な恋愛事件が起きただけだとマンは物語っています。あるいは『ヒロインたちの聖書ものがたり』の中でその著者福嶋裕子先生も、事実はイスラエルでは確かに許されなかった婚前交渉はあったにしても、二人は恋に落ちたのであって、レイプではなかった、その学説の方を採用しておられます。

 マンの物語に戻れば、シケムからの使者たちが誘拐後数日してヤコブのもとにやって来た。そこには一度目の交渉以上に慇懃で協調的な文面があった。「父ハモルとあなたはこれから姻戚関係に入り、緊密な友好関係を永遠に結びたく思います。どうかあなたのディナの代償及び結婚の条件を改めてお示し下さい。」その時ヤコブの息子たちが改めて提示した条件こそ、以下であったとマンは言うのです。「それは、あなたたちの男性が皆、割礼を受けて我々と同じようになることです」(34:15b)。ヤコブの息子たちとその群れは、数の上ではシケムの住民たちにはるかに劣っていた。しかし結婚の条件を呑んだシケムの男たちは、今度は金属に比べ切れ味で劣る石刀、それを用いて付けた傷のために、老いも若きも炎症発熱に苦しみ守備隊もその仕事についていなかった。そこをディナと同じ母を持つ兄シメオンとレビに率いられた息子たちは襲いかかったのだ。不意をつかれた町民は抵抗するどころか身体も思うように動かせない。ヘブライ人は荒れ狂い町も城も神殿も煙に包まれ路地と家とは血の海となった。役にたちそうな男、そして女と子どもは捕虜とされ他は残らず絞め殺された。王子シケムも守備隊長も無抵抗のまま殺された。略奪は続き宝物(ほうもつ)も家畜も何もかも奪い取られた。長のハモルは恐怖のあまりあっさり死んでしまった。ハレムの奥にいたディナは発見され兄の手に戻ったが、彼女にとっての本当の恐怖は今回の兄たちの襲撃の方であった。それ以来ディナはやつれはて老婆の顔のようになってしまった。彼女の青春は血に塗られて13歳で終わったのだ…そういうマンの物語であります。

 確かに性に厳しいヘブライ人の兄弟は、唯一の神の掟に従い正義を行使しただけだと言うに違いありません。事件に困惑する父ヤコブが「困ったことをしてくれたものだ。…」(34:30)、そうシメオンとレビを責めた時、二人が言い返した言葉こそこれです。

 「わたしたちの妹が娼婦のように扱われてもかまわないのですか。」(34:31)

 父はその「正論」に何も返せず黙ってしまった、という印象を与えて聖書のディナ物語は終わるのです。

 注解者(W.ブルッグマン)はこのヤコブの34:30「困ったことをしてくれた」という言葉が、ヨシュア記に出てくることに注目しています。ヨシュア記とは、出エジプトの指導者モーセの後継者ヨシュアに率いられたイスラエルが、やはり、その時のヤコブに似て先住民の地であったカナンをどう取得していったか、それを主題とする物語です。その時イスラエルは先住民との戦争によって土地を得ました。カナンは神の約束の地ですので、それは御心「聖戦」と位置付けられました。そこでは敵対民族や家畜は全て殺戮され、全ての戦利品も神に奉献されることが求められました。それは「聖絶」(せいぜつ)と呼ばれ、その意味は「滅ぼし尽くす」です。この聖絶は残酷な掟に思えますが、違う視点ではこのやり方こそ信仰のための純粋な聖戦と覚えられたのです。

 人間が正義や宗教を言訳にして、本音は敵国の資源や富を収奪するという、現在も行われている侵略戦争のあり方が、イスラエルでは禁止される、それが「聖絶」の意味です。ところがヨシュア記には「アカンの罪」と呼ばれる話が出て来ます。「イスラエルの人々は、滅ぼし尽くして(聖絶)ささげるべきことに対して不誠実であった。ユダ族…アカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた」(ヨシュア7:1)。そしてヨシュアはアカンを裁きました。「お前はなんという災いを我々にもたらしたことか。今日は、主がお前に災いをもたらされる(アカル)」(7:25)と。この「災いをもたらす」(アカル)という言葉、これが原文では、ヤコブの嘆き「困ったことをしてくれた」(創世記34:30)と同じ言葉なのです。ですから息子たちのシケム戦争とは、土地取得を主題とするヨシュア記で禁止された侵略戦争「アカンの罪」に他ならない。そう創世記記者は、ヤコブの言葉「困ったことしてくれた」(アカル)をもって暗に批判している、そうここを読むことが可能なのです。

 正義が踏みにじられる、宗教的戒律が犯される、「わたしたちの妹が娼婦のように扱われてもかまわないのですか。」その悪に対抗する神の義のために戦わねばならない、御心だと、兄たちは言った。それは正しい。しかしその時、神は眉につばをつけるようにして、「本当に、あなたの心の奥にあるのは、それだけですか」と私たちをじっと見詰めておられるのです。実際砂漠に住む蛮族が町を急襲して略奪や占領をすることは、いずれの大陸でも珍しいことではありませんでした。マンはヤコブの息子たちもその遊牧民特有の衝動を持っており、シケム移住当初からその蛮行をしたくて仕方がなかったと描くのです。そのたくらみは父ヤコブの激しい怒りによって封じられていましたが、息子たちは妹を口実に、その計画を実行しようとしたのだと。創世記にも息子たちは「だました」(34:13)とはっきり書いてある。彼らは割礼という聖なる契約のしるしを用いて隣人を罠にかける。聖なるものを悪の道具とした。その上、聖絶の掟を破り「町中を略奪した」(34:27)、「羊や牛やろばなど…野にあるものも奪い取り、/家の中にあるものもみな奪い、女も子供もすべて捕虜にした」(34:28~29)。自分の財産にした。神はその偽善に騙されません。真面目な信仰、結構です。しかしそれを手に取って私たちが人を裁く時、実は神の名も神の義も盗用し、自分の貪欲や感情に仕えさせる「アカンの罪」を犯しているのではないか。私たちは自分の言動を、胸に手を当ててよく思い返すことが求められているのです。そこに表れる信仰者だけが持つ傲慢の罪、それは時に度し難い。そのような偽善的宗教信念ほど恐ろしいものはなない。それは結局シケムの初恋を破壊し、乙女ディナの美しさを草原の五月の花のようにあっという間に枯れ果てさせてしまったのだ。やがてこの同じ兄たちは妬みの故に弟ヨセフを半殺しにする、そのような物語に繋がっていくのです。そうやって神の民イスラエルに平和はきませんでした。

 むしろディナ物語の中でカナンのヒビ人、つまり異邦人がこう語っているのです。「あの人たち(イスラエル)は、我々と仲良くやっていける人たちだ。彼らをここに住まわせ、この土地を自由に使ってもらうことにしようではないか」(34:21)。この「仲良くやっていける人たち」という言葉は、「シャロームな人たち」と書かれてあります(中村信博先生)。「シャローム」(平和)、これはユダヤ人の挨拶となりました。創造主であり全知全能のアブラハムの神と比較すれば、ろくな宗教も持っていないと思われたヒビ人こそが、大らかに移民を「シャローム」と迎え入れようと呼び掛けているのです。王子シケムは「ハモル家の中では最も尊敬されていた」(34:19)、その彼の純朴なシャロームに対して宗教的信念で偽装した大虐殺(ホロコースト)で応えたイスラエルの罪は余りにも重い。

 なまじっか信仰を持ったからこそ、このような恐ろしい罪を犯すのが人間なのです。使徒パウロがこう洞察した通り。「ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました」(ローマ7:8)。そうであれば(偽善的)信仰を持つことは何と危険なことでしょうか。その私たち宗教者の傲慢に、ブレーキを掛けるためにイエス・キリストは来られたのです。謙遜、健康な信仰を私たちに回復させるためにです。

 終わりにヨハネ福音書を朗読します。「そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、/イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。/こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」… /イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」…/これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(8:3~9)。

祈りましょう。 主なる神様、あなたが正義を振るわれたら、その瞬間に灰と化す私たちを、あなたは御子の贖いの故に、今朝も生かして下さった恵みに心から感謝致します。時にあなたを知らない誰よりも傲慢になり、隣人の弱さを裁く私たちの罪をどうか憐れみ、真の平和をつくり出す者へと私たちを御子の戒めによって造り替えて下さい。そのために聖霊を注いで下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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