2021年1月24日 主日朝礼拝説教「バベルの塔は崩れる」

https://www.youtube.com/watch?v=P67V-BPWEsI=1s

創世記11:1~9(旧13頁) マタイ福音書7:24~27(新12頁)

彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。(創世記11:4)

「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。/…風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ福音書7:26~27)

説教者 山本裕司牧師

 創世記を読み続けて今朝巡ってきたのは、有名なバベルの塔の物語です。この「バベル」という町名が、既に先週読みました、創世記10:10(旧13頁)に登場しています。「彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルの地にあった。」「彼の王国」、この「彼」とは「地上で最初の勇士となった」(10:8)ニムロドであり、その「王国の主な町」(10:10)の筆頭都市がバベルです。さらに10:11には、英雄ニムロドは「アッシリアに進み」とも記されてあります。以前、上野で大英博物館コレクション「アッシリア大文明展」が開催されました。かつてアッシリアの都であったのが、10:11に記されヨナ書にも出てくる「ニネベ」です。このニネベが栄える約二百年前のアッシリアの都が「ニムルド」ですが、この名は最初の英雄ニムロド、この原初の支配者に因む地名です。*1上野の博物館に、これらニネベやニムルドの宮廷壁画、彫刻が運ばれてきたので、私は心躍る思いで見学に行きました。いずれの都市の壁画にも、アッシリア王の強さを誇示する驚くべき芸術的彫刻が浮かび上がっているのです。勿論、戦争の勝利を描いた作品が多いのですが、特徴的な主題は、「国王のライオン狩り」という一群の浮き彫りです。伝説の王ニムロドもまた、創世記10:9「勇敢な狩人であり」とあります。アッシリア展の解説には「古代メソポタミアにおいて、ライオン狩りは特別な意義を持っていた。早くも紀元前三千年以前から王がライオンを狩る場面が描かれている」そうありました。紀元前7世紀ですが、アッシリア史上最後の征服者となったアッシュールパニパル王を称える、王の狩りの最高傑作に「瀕死のライオン」*2のレリーフがあります。戦車の上から弓を引く王によって、ライオンは矢を受け胸に深く突き刺さりうずくまる。そのライオンは口からは夥しい血を流しながら断末魔に耐えている。そして解説者は「ライオンは、都市文明に敵対するあらゆる概念を象徴し、都市建設者でもある王にとって、徹底的に駆逐すべきものであった」、そう書くのです。王がこうまでして守ろうしたものが「都市文明」であり、その都市文明の象徴こそ、今朝、問題にしなければならない「バベルの塔」であります。


*1 ニムルド(Nimrud)は現在のイラク北部ニーナワー県にある、古代アッシリアの重要な考古遺跡。ニネベ遺跡の南方、現代の都市モースルより南東30kmにありチグリス川に面している。遺跡の範囲は41㎢におよぶ。アッシリア時代にはカルフと呼ばれる都市であり、一時はアッシリア帝国の首都でもあった。後のアラブ人は都市の遺跡を、狩人の英雄でありアッシリア地方の強力な王であったニムロドにちなみ、ニムルドと呼んだ。ニムルドは旧約聖書に登場する都市「カラ」と同定されている。

*2 https://twitter.com/vdgatta/status/605036720371986434/photo/1



 やがてこのアッシリアを倒し、そのアッシリア文明を全て吸収して、新たなオリエントの支配者として君臨したのが、新バビロニア王国です。創世記10:10や、今朝読みました11:2に出て来る「シンアルの地」は「バビロニア」のことだとも注解されます。その都が「バビロン」ですが、そのヘブライ語の呼び方が「バベル」です。このバベルの塔の物語を記した創世記記者は、支配者が次々に交代していっても、全く変わらない「メソポタミア都市文明」、その問題性を主なる神と共に鋭く見抜き、問い続けているのです。そうであれば、まさにこの創世記記者は都市の不信仰・原罪を糾弾する一匹の「ライオン」です。紀元前三千年の大昔、バベルの塔のモデルとなるジッグラド(聖塔)を建てた最初期の支配者シュメール以来、全ての人間たちが憧れ賞賛したのがメソポタミア大文明です。それに対抗して空手で、荒れ野の神ヤハウエの御名だけを手に取って、人間には別の生き方、荒れ野の旅人の人生があると、戦いを挑んだ者こそ「ヤハウエスト」と呼ばれる創世記記者であった、そう言ってよいと思います。
 
 11:3「彼らは、『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。」この都市文明を可能とする発明、発見がシンアルの地で次々に起きたのです。レンガとその接着剤としてのアスファルトによって、これまでの石と漆喰による建設とは比べものにならない高層建築を人間は建てることが可能となりました。石と漆喰は自然物です。それがれんがとアスファルトといういわば人工的建築材料へと大躍進を遂げたのです。その延長戦上にある現代人が作った人工物は、生物由来の物の量を圧倒したと、その事実が指摘されるのです。最近「ネイチャー」で発表された研究によると、1900(M33)年の人工物総量は未だ三百五十億トンに止まっていました。しかし近代より建築材料が、バベルの塔に使用された「れんが」からさらにコンクリートへと発達した。道路は、これは同じ「アスファルト」による舗装が急増します。2020年までの累計で、建物、道路などで一兆一千億トン、プラスチック製品だけで八十億トンに達しました。その内、海に流失するプラスチックごみが2050年までに魚(八億トン)の量より多くなる計算だと言われます。一方、森林や植物の総量は九千億トン、全動物は四十億トンに過ぎません。人工物が自然より多くなった、その限界、臨界点を超えた時代を「人新世」と呼びますが、現在その破局的状況に突入しています。まさに主が11:6b「これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」と預言された通りの、新たなる地球を覆い尽くす人工物「バベルの塔」建設がこの地球上で進行中なのです。そのために、私たちは今、コロナ禍、地球温暖化、放射能汚染など自然からの激しい復讐を受けることになりました。主ヤハウエは大昔のシンアルの地の塔、その建設は阻止してくださいましたが、21世紀は、主の御名を呼ぶ私たちが、新たなるヤハウエストの一人となって、この都市文明「人新世」の環境破壊を阻止する「ライオン」の一匹とならねばならない、そう思います。

 これら技術革新は、創世記11:4に記されるように、人間の貪欲のために使用されました。王ニムロドたちは「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言いました。まさにこれなど、都の宮殿彫刻に自らの偉大な姿を浮き彫りにしたアッシリア王の高慢そのものです。「天まで届く塔」とありますが、私が子どもの頃観た「天地創造」という映画では、バベルの塔の建つ地から英雄ニムロドが、天に向かって矢を放つシーンがありました。忘れ難い映像です。それは、あの都ニムルドやニネベの壁画の彫刻、国王のライオン狩りの姿とも重なります。真の神を殺し、自らの手を天に届かそうとする王の欲望がそこに現れています。それがかつては神の御手の業と覚えられてきた、生命や核に手を伸ばそうとしている、現在の私たちの姿と重なるのではないでしょうか。

 ここで私は再び、故高木仁三郎先生が1986年に既に警告していた言葉を思い出さざるを得ないのです。「核技術とは、いわば天上の技術を地上において手にしたに等しい。私はなんら比喩的な意味でこのことをいっているわけではない。核反応という、天体においてのみ存在し、地上の自然の中には実質上存在しなかった自然現象を、地上で利用することの意味は、比喩が示唆する以上に深刻である。…核というのは、化学結合よりも百万倍も強力な力、これまでの自然界にはまったく異質な物質と原理を、まったくそれに対して備えのなかった地上に導入したのである。」(『チェルノブイリ 最後の警告』179~180頁)

 メソポタミアの支配者は、チグリス、ユーフラテスの無尽蔵の真水を運河によって都に引水しました。そして世界初の灌漑農業による、未曾有の繁栄を獲得し、それによって天を奪い取ろうとする都市文明を成り立たせました。そうやって発した、 11:4「有名になろう」との言葉は、旧約聖書では主なる神を崇める時に使われる同じ言葉だそうです。それは神の御名の誉れを奪い取ろうとする、人間の売名行為であり、涜神以外の何ものでもありません。かくして、洪水後もアダムとエバの神のようになろうとする原罪の種子は、ノアからハムへと受け継がれ、このシンアルの地で大輪の悪の花を咲かせたのです。

 そうやって、11:4b「そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言いました。散らされると、せいぜい出世しても集落の「長」止まりになってしまう。王はそれでは満足しないのです。人数こそ力だからです。それを得るために人を引きつけ「3密」状態の中で競争させ、そこから生み出される富と武力によって大帝国を建てる。そうやって世界をかしずかせたいのです。そのための統合のシンボルこそ「バベルの塔」でした。これもまた上野で、16世紀の画家ブリューゲルによる「バベルの塔」を見学しましたが*3、その作品はまさに、人間の神になろうとする限りの無い欲望が、その異様な巨大な塔に遍く表現されています。それでいて、その描かれた塔は、一度見たら目を離せない、この上なく人を魅了する吸引力を有するのです。それが今ではとうてい許されないほど、満員になった上野のブリューゲル展で起こったことでした。


*3 https://www.boijmans.nl/en/collection/artworks/3723/the-tower-of-babel



 そうやって生まれた帝国はさらに武力をもって領土を拡張し資源を収奪し、被支配者を奴隷化し人口を増し加えます。その拡大する帝国支配を統治するために、自分たちの言語を彼らに強制します。ある牧師(松本敏之)が指摘しますが、ブラジル人は今ポルトガル語を話しますが、ブラジル以外の南米の国々はスペイン語を話すそうです。それは南米がヨーロッパの二つの大国の植民地とされた時代に、その統治国の言語を押し付けられたからです。支配される前、南米大陸には部族ごとに無数の言語がありましたが、それは消滅しました。「大日本帝国」も朝鮮を植民地化して日本語を強制しました。現在は英語が世界共通語と言われますが、それは英語が愛されているからでも、言語的に優れていたからではなく、大英帝国が世界中に植民地を持っていたからだと、先の牧師は苛立ちを隠しません。また言葉だけでなく、日本の朝鮮支配において神社が至る所に建設されました。そして天皇に因む祝祭日を守ることを強制したのです。つまりバベルの塔とは権力だけでなく、宗教的な権威を持たなければならないのです。人々を恐怖させるだけでなく、畏怖させるものでなければならないのです。何故かと言うと、このシンアルの王ニムロドの危機感、11:4b「そして、全地に散らされることのないようにしよう」、この不安に表れているように帝国はいつも分裂、離散の危機をその内側に抱え込んでいるからです。それを避けるために、一致のための権威的シンボルも必要なのです。アスファルトのように多様なものを無理矢理接着させるために。「バベル」とは元来、「神の門」の意味を持つそうです。つまり人間はこの門を通って神との交わりに至ることが出来るという「宗教性」を持つ、いわば「塔」それ自体が巨大な「偶像神」なのです。創世記記者はその名「バベル」とは「神の門」ではなくて、11:9、ただ「混乱(バラル)」のことだと皮肉ることを忘れません。

 そのような王たちの努力にもかかわらず、あらゆる帝国は混乱の内に滅びました。シュメールも、アッシリアも、バビロニアも滅亡した。ヒトラーの第三帝国も、スターリンのソビエト連邦も、現人神天皇の大東亜共栄圏も滅びました。

 ボブ・ディランが作った「見張りの塔からずっと」というイザヤ書21章からアイデアを得た歌があります。古代バビロニア帝国崩壊の知らせが見張りの塔に届くという内容です。発表されたのは1967年です。ベトナム戦争が泥沼化して、米国内でも反戦運動の嵐が起こった時代でした。バビロニアを米国になぞらえて、栄華を誇る大帝国もいつかは滅びると、「バベルの塔」崩壊の知らせが「見張りの塔」に届くと彼は預言しました。真の天の支配者・主なる神は、11:5「降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見た」とあります。ある学者(プロクシュ)は「どんなに高い塔を人間が作ったと思っても、天の神にしてみれば、近くまで降って来なければ見えないほど、低く小さなものでしかない。」そのように、人間はどれ程背伸びしても、天に届きはしない、そういう「皮肉」がここにも込められていると注釈しています。

 バベルの塔を倒す方法として神が選ばれたのは、11:7「…降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」こういうやり方でした。ある人は、ここで何も神様が言葉を混乱させる必要もなかったと指摘しています。それは、自らバベルの塔を建てて、自己神格化する時、その結果は人間同士の言葉が通じなくなるのは当然のことだからと言うのです。自分が神だと奢り高ぶり、自己絶対化する者は、人の話を謙虚に聞くわけがないからです。相手のことはお構いなく、一方的な正しさを主張するからです。その時、互いに自前の正義を振りかざすことによって、バベルの塔は天に届く前に崩れ始めるであろう。人々は言葉が通じないまま、四方八方にバラバラに散って行ったのです。私たちはそのように脆い統合「人為的」共通言語に頼ることを断念する必要があります。そうではなくまさに私たちの高慢の塔を打ち倒すために、クリスマスの夜、天から降ってこられた主、つまり十字架に謙られたイエスという、ヨハネ福音書の言う「言」をこそ、万国共通言語としたいと願います。その神的「言」を信じ、自分の名ではなく「御名を崇めさせ給え」と祈り、互いに謙り隣人と共に生きる世界を回復させるために、真の「神の門」、十字架という高い塔の建つ教会、その「見張りの塔」建設に2021年も献身したい、そのように願う。

祈りましょう。 主なる神様、人間の天に届く塔を建てようとする高慢を阻止するために、身をもって真の人間の生き方をお示し下さった御子の謙りの言葉を聞き、その岩の上に立って、互いに通じ合う言葉を語り合う私たち西片町教会とならせて下さい。高慢こそ言葉を「混乱」(バラル)させる元凶であることを覚え、悔い改め、多様な人々と多様な言語で、独り子を崇めつつ、聖霊による一致を求める私たちとならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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