2021年1月17日 主日朝礼拝説教「全人類は皆ノアの子孫」

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創世記10:1~32(旧12頁) ルカ福音書3:36~38(新106頁)

「ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。」(創世記10:32)

「…セム、ノア、レメク、/メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、/エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。」(ルカ福音書3:36~38)

説教者 山本裕司 牧師

 今私が苦労して朗読しました創世記10章の「ノアの息子、セム、ハム、ヤフェト」の子孫たちは、皆、民族の始祖となりました。注解にはその民族の総数を数えると「70」とあります。「7」とは聖書の言う完全数ですので、これは全人類の「民族表」を記す意図のもとにまとめられたと考えることが出来ます。その意味で今朝の説教題を「全人類は皆ノアの子孫」としました。ある学者(von Rad)はこのリストを書いたイスラエルという、内陸の一画に住んだだけの古代人が、その時見ていた世界の広さ、諸民族の多さは驚嘆に値すると書いています。他のいずれの古代国家も、これほど視野の広い民族表は持っていないとはっきり書きます。その視界は、北は黒海まで、東はイラン高原まで、南はアフリカの海岸地方まで、西はスペインの地中海岸に及ぶ。この民族表を作成した記者は、図解された「世界地図」を持っていたことは疑いようがないとも指摘するのです。また別の学者(関根正雄)は、この聖書の民族表には、他の古代の国々には見られない著しい特色があると指摘します。メソポタミアで最も古いシュメール人の残した神話にも、創世記に似た天地創造神話があり、洪水物語も記されています。ところがシュメールにおいては、洪水後、直ちに自分たちの帝国誕生の神話となるそうです。その初代王とは神であると描かれます。そうやって自国は「神国」であると誇る。その他の国々は眼中にないか、神国に征伐されるべき劣った民であるとの位置付けになります。従って侵略の対象以外、世界への視野は狭く、その民族表は薄っぺらなものになっていると指摘されます。「日本書紀」も同じではないでしょうか。

 しかし創世記においては洪水後直ぐイスラエルの開国神話が始まるのではありません。全民族が平等に出現します。学者は「これはオリエントのみならず世界の諸民族には決してない旧約聖書独自の歴史観である」と言うのです。たとえば、10:2「ヤワン」はギリシアのことです。10:15「シドン」はフェニキア、「ヘト」はヒッタイトです。10:22「ルド」は「小アジアのリビア」です。これらは当時知られていた世界全体のことを遍く記そうとする記者の労作です。架空の存在を書いたのではありません。そしてその系図の終わり10:32にこうあります。「ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。」つまり世界の民は皆、一人の人ノアを父祖とする「家族」だと言っているのです。民族差別をそこでしません。ああここにもノアから出た親戚がいる、あああそこにも「きょうだい」がいると、それが神の民イスラエルが諸民族に深い関心を寄せて世界を見渡していた理由であると思います。

 それはもう一箇所今朝朗読したルカ福音書のイエスの系図にも繋がる理解です。これは、イエス様から遡る形式ですが、ルカ3:36(新106頁)「セム、ノア」とあります。しかしこの場合はここで終わらず、3:38「エノシュ、セト、アダム」と記して、ノアをも超える全人類の始源、アダムの名に至り、その人間アダムを直接創造された「神に至る」と締め括られるのです。創世記10章の民族表もこれと心は共通であったと思います。全人類は神に至る。どのような大帝国の王であってもそれは神ではないという意味がそこに含まれています。全ての民族も国も、創造主である唯一の神によって造られた被造物であり、始源は「神に至る」、イスラエルと他の民族、国々に違いはない、そう言われているのです。むしろ創世記10章の民族表には「イスラエル」という名が出てきません。注解によると10:25(旧13頁)「エベル」がイスラエルの別名「ヘブライ」と関係があるそうです。しかしそれはいかにも控えめに記されるだけです。その意味もまた、イスラエルは自らを諸民族の中の一つに過ぎないと「相対化」しようとするからに他なりません。そうやって自らの出身を誇らないのです。次週読みます「バベルの塔の物語」の中で、おそらく王がこう宣言します。創世記11:4(旧14頁)「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」。これは自らの名を上げることを好まない「系図編纂者」の精神と反対です。どうしてこのような、古代神話に希有というか、唯一無比なる「民族表」をイスラエルが持つことが出来たのでしょうか。それは、唯一の神を彼らが信仰したからに他ならないと、学者ははっきりと書いています。絶対的なる唯一神に対する信仰によって、自らを相対化することが可能となったのだと説くのです。全ての人間を創造されたのは「唯一の神」であり、あの異国の国々を造ったのもイスラエルを造ってくださった同じ神様であり、あの人を生かしているのも、私を生かしてくださっている同じ神様である。どんなに文化が異なり肌の色も言葉も違っても、彼らは「野蛮人」では決してない。一人の創造主が一人のノアから、祝福をもって生み出した「神の子」と呼ぶべき「人間」なのだと、だから自分たち同様に大切にしなければならない民なのだということです。

 時々日本の識者がこんな意味のことを言います。「西洋のキリスト教は、唯一の神を信じている。だから排他的で不寛容になる。それに対して我々は昔から多神教の伝統をもっている。だから寛容であり、また開かれている」と。私たちはそうは考えません。むしろ話は逆です。この世界に創造主なる神はただお一人、この信仰こそ民族主義を超える力を持つと思います。文化が異なるどころか、たとえ敵国であっても、唯一の神が創造された民なのですから、私たちも大切に扱わなければならないのです。私たちはそういう信仰を与えられているのです。この唯一の父なる神様を信じた神の子こそイエス・キリストです。御子イエスはあの日本人識者の言うような多神教信者ではありません。それどころではない。誰も真似出来ないほど徹底的に唯一の神を信じたお方です。しかしそのお方が誰よりも「寛容で開かれた」人であったということを思い出せば、唯一神信仰が不寛容の元凶などと口が裂けても言えません。徹底的に唯一の神を信じ抜かれた主イエスだけが、こう言うことがお出来になったのです。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。/しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。/あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:43~45)。あるいは「では、わたしの隣人とはだれですか」(ルカ10:29)と問うたファリサイ派に対して主は「良きサマリ人の譬」をもって「隣人とは民族の壁を超える」と教えてくださいまいた。だからこの主イエス・キリストの父なる神は、イスラエルの民族神でも私たちキリスト者だけの「守護神」でもありません。もし私たちキリスト者が排他的で不寛容なままで、御子イエスのような愛の人になれない、そのために十字架の罪の赦しの贖いが必要な理由、それはただ一つ。未だ徹底的には唯一の父なる神を信じていないからに他なりません。

 勿論旧約聖書全体はイスラエルを中心に書かれていますが、しかしそれはイスラエルが特別に優れていると書こうとしているのではありません。神の民イスラエルは「選ばれた」という一点において、独自性をもつだけです。何故選ばれたのかというと、その理由を、申命記7:6b~8(旧292頁)は記します。「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。/主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。/ただ、あなたに対する主の愛のゆえに…エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」

 つまり入学試験のように成績が良かったから選ばれたのではありません。ただ主の愛の故に、つまり恵みによって選ばれただけなのです。イスラエルが選ばれる理由は、むしろ「少数、貧弱」だからとも読めますが、それと逆の立場「力と大きさ」を追い求める民についても系図には記されています。創世記10:6以下に、ノアの息子ハムの子孫に関して特別な記述があります。その内の一つは王国を建てた「ニムロド」です。10:8「クシュにはまた、ニムロドが生まれた。ニムロドは地上で最初の勇士となった。」さらに、10:10「バベル」、また10:11「アッシリア」という大国の名が出て来て、ハムの流れから生じた、強さを求める生き方の問題が暗示されます。このメソポタミアのアッシリア帝国によって北イスラエルは滅亡し、10:10「バベル」=「バビロン」によって南ユダも滅ぼされます。その肥沃な土地メソポタミアに生まれ、全世界を支配する大帝国の太祖になった者こそ勇者ニムロドであるという伝説がここにおかれるのです。

 彼の主要な町がこの「バベルの塔」の「バベル」です。創世記11章で語られるのは「塔」建設が御心に反するために瓦解する物語です。そこに描かれるのは、最初の人間アダムの原罪と同じく、被造物である人間が、その分をわきまえずに、神に成り上がろうとする自己神格化の欲望です。ハムの血統である「強い勇士ニムロド」と彼を始祖とする帝国は、その強さの故に、創造主への信仰を保持する民に選ばれることはありませんでした。選ばれなかったというより、自らが「神の子」「神の僕」である、その地位に甘んじられなかったからに違いありません。強さ大きさとはそうやって信仰を失わせる原因であると、暗にこの民族表でも創世記は語ろうとしているのです。そしてこのハムの息子である10:15「カナン」が現れるわけですが、彼は農耕民族の祖です。この創世記の学びの中で、繰り返し語ってきたように、カインとアベルの物語から既に、カインの生業であった農業、その土の実りを神は顧みられませんでした。それは当時農業こそ最強の文明だったからです。メソポタミアの高度な灌漑農業によって、アッシリアもバビロンも最強の帝国となりました。「バベルの塔」とは農業のことを暗示していると言えるほどです。その中で多神教的農業神、偶像が生じます。ここで詳しくは解説しませんが、偶像崇拝とは実は人間崇拝のことです。人間が神になる道なのです。その高慢からは日本人識者が自慢したような、寛容の精神も開かれた心も決して生まれません。事実は逆です。それはかつて神国日本がアジア諸国にした差別的蛮行の数々を見れば明らかではないでしょうか。

 それに対して、イスラエルの別名「ヘブライ」と共通の名、10:25「エベル」を輩出するノアの息子は10:21「セム」です。この子孫は10:30「東の高原地帯に住んでいた」と記されています。「高原地帯」での仕事は、あのカインに殺されたアベルの仕事「遊牧」です。この10:25の名「エベル」を事典で調べると、その意味は「かなた」とか「通り過ぎる」とあります。つまり「遊牧の人」と書いてあるのです。それは定住して富を蓄えるメソポタミアやカナン農耕民から見たら弱者です。エベルは「バベルの塔」を統合のシンボルとするような、10:12「非常に大きな町」を建設する力はありませんし、望みもしないでしょう。旅人はむしろバベルの統合を嫌い「3密」を避け「散らされること」(11:4)を求めることでしょう。そこでこそ、荒れ野の神、唯一の創造主と出会うことが出来るからです。自分たちを生かすものは富ではない。私たちを生かすものは日毎の糧マナをもって日々養ってくださる荒れ野の神ヤハウエのみ。申命記の言う「少数と貧弱」、これこそ信仰の民として神に選ばれる理由となることが「エベル」という名に暗示されているのです。実際、創世記11章で改めて記されるセムの系図でも、11:14「エベル」が出て来て、その血の流れからメソポタミアの文明都市ウルやハランから「行き先も知らずに」(ヘブライ11:8)出立した「信仰の父アブラハム」が登場します。またこの「エベル」の名は、伝道の旅人イエス様から遡るルカの系図の中でも決して忘れられていません(ルカ3:35)。

 強者「ハム、ニムロド、カナン」の系図からバベルやアッシリアなど、驕り高ぶる民が現れ、バベルの塔を建て世界支配を企てます。しかしそれは呪われた世界しか生み出さなかったのです。そのように強さを競い合って滅亡に瀕する世界を、祝福に変えるアブラハムが神に選ばれました。その子孫イスラエルだけが救われるのでもありません。アブラハムの信仰を受け入れる者は、誰でも神より祝福を受けるのです。12:3b「地上の氏族はすべて/あなた(アブラハム)によって祝福に入る」と。それでは私たちは、どちらの系図に属するのでしょうか。それが問われているのです。自らの弱さを自覚して、唯一の神にのみ頼り、他に開かれて生きるのか、あるいは自らが神となり他を見下して生きる者なのか、どちらが祝福されますかと、この系図は私たちに問うているのです。

祈りましょう。 創造主なる父なる神様、どうか私たちの高慢な思いを裁き、あなたの御前に謙って生きられた御子イエスに倣う者とならせてください。あなたの僕であることに躓き、神のように自由になりたいと、なれると錯覚する私たちの「バベルの塔」を打ち砕いてくだいてください。私たちは等しくノアの子ども、それが故に神の子であると覚え、手を取り合って皆で祝福と平和の道を進む者とならせてください。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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