2021年1月10日 説教「我らはそれでも2021年を生きる」

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創世記9:1~29(旧11頁) ヨハネ福音書6:53~55(新176頁)

「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」(創世記9:4)

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」(ヨハネ福音書6:53)

説教者 山本裕司 牧師

 以前もここで紹介しましたが、2013年に公開された映画「ノア 約束の舟」は、創世記の「ノアの洪水物語」をそのまま描いた作品ではありません。そのためにキリスト者から聖書が荒唐無稽な物語に改変されてしまったと、とても評価が低かったことを覚えています。確かにいろいろ違いますが、今朝の箇所との関連で取り上げれば、ノアが洪水後に自分の息子夫妻の赤ちゃんを殺そうとするところです。ノアは決して恐ろしい人ではありません。ノアは信仰深く神を畏れ命を大切にする人です。彼は全ての動物の生命を守ろうと渾身の努力を傾けました。これなど現在の国際環境保護NGOなどが、動物保護活動をしていますし、日本でもペットの殺処分禁止を求めて多くの人が活躍しています。鶏など家畜に対する「動物福祉」の思想も存在します。いわばノアはそのような心ある人たちの先駆者でもありました。しかし映画の「ノア」は、新しい大地において、神の創造されたこれら動物の生命を守るためには、自分の家族も含めて、人間が絶滅することが必要であると考えるのです。あの大洪水は明らかに「全生命体の脅威」となった人類を滅ぼす意図で行われたのです。ノアたちは洪水前は、6:9「神に従う無垢な人」の故に救われましたが、しかし今朝の9:20以下で早、新しい大地に暗い影がさしてきたことを私たちは感じたのではないでしょうか。ノアは農夫となりぶどう栽培に成功します。それによって聖書で始めて「酒」が登場したのです。ノアこそ酒の発明者です。酒がどれほど人類に喜びを与えたかは言うまでもありません。しかし聖書はその発明を手放しで称賛はしません。良いものであればある程、それは人間を激しく誘惑するからです。その酒の故にノアは素っ裸で酔っ払い、もう「無垢」とは呼べない醜態をさらすのです。ある学者はこの神話のオリジナルにはノアたちの性的過ちが書かれてあったはずだと指摘するほどです。さらにその裸の父に対する息子たちの態度の違いからノアは息子セム、ヤフェトは祝福し、末の息子ハムの子カナンを呪います。ところが実は、この祖父から呪われたカナンこそ、ぶどう酒に代表される農耕文明を受け継ぎ、そこから農業神バアルを拝む偶像崇拝の民、同時に性的放縦の民「カナン人」が生じます。ノアが祝福した息子セムの血統からは、やがて荒れ野の旅人、信仰の父アブラハムが生まれます。後の時代この荒れ野の神ヤハウエと農業神バアルは激しく対立しますが、その戦いが先取りされて、創世記9:20以下のノアとその息子たちの暗い神話に反映されていると考えられるのです。

 洪水後この息子たちから9:19b「出て広がった」人類について、神様は8:21b(旧11頁)でこう言う他はありませんでした。「人が心に思うことは、幼いときから悪い」と。映画の中のノアも、そのアダム以来の原罪の遺伝子が、自分たちの家族にも受け継がれていることを知っています。そうであれば神様が大地の再創造をしてくださっても、人間が存在する限り直ぐ元の木阿弥になるであろう、それは阻止しなければならないと彼は思い詰めます。彼は雨の一滴も降らない晴天のもと高地に箱舟を建造することの出来る程の正しさを貫く意志の人でした。ノアはここでも「義」を果たそうとします。子を産まなければ、やがて家族も寿命を迎え、人類を絶滅させることが出来ると。

 ところがそのノアの計画に反して、既に長男セムの妻は妊娠していました。セム夫妻は、ようやく取り付けたノアの「赤子が男の子であれば許す」という言葉にすがって出産を待ちますが、しかし生まれたのは、子孫を残す可能性のある女の赤ちゃん、しかも双子だったのです。ノア一家はどん底に突き落とされる。妻は夫ノアに問います。「正義とは何なの」と。しかしそれに応えず、血の汗を流すほどの葛藤の末決心したノアは剣を握ります。双子の赤ちゃんを抱き締めて舟のデッキを逃げ回る嫁に迫る。追い詰められた彼女は、ついに覚悟して、ひと思いにやって、苦しまないようにと、涙ながらに義父に求める。その迫真の演技に「助けてあげて!」と思わず叫んだ程です。そしてノアが剣を振りかざした、その瞬間、その腕を止める何かが起こったのです。それは作者が、アブラハムの物語とこれを重ね合わせていることは明らかです。「そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。/そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、/御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない」」(創世記22:10~12)。ノアは自分には出来ないと、失意の内に去るのです。
 
 しかし、その映画の中でも本当に全人類の滅亡は「創造主」の御心だったのでしょうか。この映画を解釈する富田正樹牧師は指摘しますが、その映画において、ノアの先の決意の言葉が日本語字幕では「御心に従います」(戸田奈津子訳)となっています。しかし実際はこのノアの口から発せられる英語は「It shall be done!」(これはなさねばならないのだ)です。つまり「御心だ」と言うのは、戸田さんの意訳であって、直訳的には創造主の「御心」は人類絶滅でも赤ちゃん殺人でもないと暗示されるのです。「It shall be done!」(やらなければならない!)と言わせているのはノアの「心」に過ぎないのです。実はノアは自分では「御心」に従っているつもりでも、実は自分の「信念」に従っているだけだったと暗示されているのです。富田先生はそれを鋭く指摘してこう続けます。「自分を正しいと信じて疑わない人は、正しさの故に自分には問題がないと思い込んでいます。そして愛よりも正しいことを優先します。ある種の宗教者に見られる態度です。」そう聞いて私は思いました。これこそ蛇の誘惑であったと。蛇は最初の人間に、禁断の木の実を食べると「神のように善悪を知るものとなる」(3:4)と約束しました。究極の善悪を知る者は、唯一の神のみです。しかし人間は傲慢にも「善悪を知る」者に成り上がろうとしたのです。この「自己神格化」こそ禁断の果実だったのです。つまり映画のノアは原罪を持つ人間を滅ぼそうとします。しかしそれをやらせるものこそ、皮肉にも実はノアの原罪なのだ、ノアの自己神格化なのだ、そう映画は暗示しているのです。これはまことに聖書的であり、驚くべき洞察です。

 今のは映画の話ですが、実際の「聖書」においても、主なる神の御心は映画の中のノアの思想とは全く逆です。創世記9:1~2「神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。/地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。」この言葉は実は創世記冒頭1:28(旧2頁)で、最初の人間が創造された時に、神が言われた祝福とほぼ同じです。しかしそれは「同じであって全く異なります。」何故なら一度目の祝福は未だ堕落していない無原罪の人間への祝福だからです。しかし今回は、神は8:21「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と言われるように、あるいは酒で堕落するノアに表れるように、その原罪を承知の上で、同じ祝福を与えるのです。創造主は人間がどれ程悪いか知っているにもかかわらず、それがどれ程他の隣人と動物の命を害するか、それを承知の上で、なお人間に「生きるのだ」と祝福を与えるのです。つまりそれは、神の罪人に対する憐れみであります。この罪の赦しの福音こそが真の「御心」だったのです。

 主は二度と洪水によって全人類を滅ぼすことをしないとの契約、そのしるしとして「虹」を置いてくださいました。その神の愛に私たちは応えることが求められているのではないでしょうか。8:20、ノアは新しい大地に先ず祭壇を築き先ず神を礼拝しました。それ以外の方法で、自らに流れる原罪の血を制御することは人間には出来ないからです。少し前、小池都知事は「ウイズ・コロナ」と言って感染リスクを減らす「新しい生活様式」を提唱しました。「ゼロ・コロナ」が不可能だからです。この「コロナ」の意味「冠」を私たちの高慢の罪・原罪と覚えるなら、人類は洪水後も「ウイズ・コロナ」、原罪と共に生きる他はなくなったのです。それを「ゼロ」にはどうしても出来ない。しかしその高慢コロナのリスクを減らすことは出来るのです。その「新しい生活様式」こそ御前に謙る礼拝であります。その謙遜を忘れコロナの冠を被り、自分こそ善悪を知っていると驕り高ぶるなら、その「正しさ」の中で、殺人と環境破壊のウイルスの大洪水は再び地球を覆い尽くすことでしょう。

 この先を読んでいくと、この新世界は、堕落前のエデンの楽園では決してないということも分かります。9:3「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。」これによって、全ての動物は人間の前で、9:2b「恐れおののき」ます。人間は圧倒的力をもってあらゆる動物を食糧とするからです。創世記においては、これまで人間は草食でしたが、これ以後肉食が許されたのです。その肉食につきまとうことは、屠殺する時の動物の悲鳴でしょう。古代人はそれを聞く度に、いつも後ろめたい思いをもってきたに違いありません。その古代人の切ない気持ちが、いや我々だって、堕落する前、エデンの園を生きていた時は草食だったのだ、平和裡に草を食べるだけで十分健康に生きられたのだという楽園神話を生んだのではないでしょうか。原罪をもった人間は、罪を犯さなくては生きられないのと同様に、肉を食べなければ生きることが出来なくなったのだ、そう古代人は悲しみつつ思わないわけにいかなかったのです。しかしそれは永遠というわけではない、預言者イザヤは言います。イザヤ書11:6~7(新1078頁)「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。…/牛も熊も共に草をはみ/…獅子も牛もひとしく干し草を食らう。」終わりの日に世界が完成する、その時人間の原罪も終わり、エデンの園でそうだったように、肉食動物も人間も草食に戻るという幻を預言者イザヤは見ています。「草食男子、肉食女子」という言葉があります。ドラマは悪人のステレオタイプとして分厚いステーキを頬張るシーンを描きます。人間は本能的に、何か肉食にやましさを持っているのではないでしょうか。そのような中で、以前も指摘しましたが、アイヌは確かに肉を食べますが、同時に動物を神として拝み、深い敬意のもと必要最小限食べるだけでした。そのため乱獲などによる生態系の破壊はありませんでした。私たちは確かに「ウイズ・原罪」のため罪を犯さなくては生きられませんが、その罪を少なくしたいと祈ります。同様に私たちは肉を食べなければ生きられませんが、それを許してくださった神への食前の感謝を忘れてはならないと思います。イザヤの預言はやがて、11:9b「大地は主を知る知識で満たされる。」という信仰の話になります。神を知り信じながら食べる、その「新しい生活様式」によって私たちの「箸の上げ下ろし」は変わる。貪欲を「制御」する心が生まれるのです。それが生態系や自然環境を守ることに繋がる「主を知る知識で満たされる」、その時、人類は初めて「コロナ」から解き放たれた楽園に一歩近付くことが出来るのではないでしょうか。

 そのような意味が、創世記9:4「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」という戒めと関わるのではないかと思います。聖書では「血は命である」と信じられたからです。神はそうやって御自分の造られた、全ての動物の生命の尊厳を、この禁止命令を通して教えているのです。9:5b~6「人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。/人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」中でも人間は「神のかたち」として、この上なく尊厳を身に帯びた者であるのですから、9:5~6、誰かの血を流すことは決して許されないと言われる。血を流す者は賠償しなければならない。血には血をもってと。

 この言葉が聖書に書かれて既に二千五百年以上経ちました。しかしその間、この地球上で殺人も動物虐待も起こらない日はありませんでした。そのように隣人の血も、動物の血もそれこそ飲み干すような争いに生き続けている私たちです。それは映画のノアが、双子の女の子を生かしたら未来はそうなると予想したような結果と、まさになりました。血を流し続けて来た、そしてついに私たちはゴルゴタの丘で、御子イエスの肉を裂き血を流したのです。しかしヨハネ福音書にあったように、思い掛けないことに、それが贖罪の血となって、私たちの罪の赦しが確実のものとなりました。命を奪った者は、命をもって賠償しなければならない。そうであれば、私たちが血を流さねばならないはずだったのです。そうやってもう死ぬのだと思った時、あに図らんや、神の独り子イエスが代わって血を流して、私たちの罪の賠償を果たして下さったのです。アブラハムの独り子イサクの代わりに「雄羊」が屠られたように(22:13)。この旧約の時代に始まった、人間への罪の赦しの御心が、新約において御子の血において完成したのです。

 この御子の血が「ワクチン」にように私たちの内に注ぎ込まれる時、コロナ的原罪から私たちは癒やされるであろう。そこで、9:7「あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」そう私たちは豊かに祝福されるのです。御子イエスの贖いの故に。私たちはこのご恩に少しでも報いるために、礼拝者として生き抜き、罪を悔い改め、隣人と動物を愛し、日毎の糧を与えて下さる神に対しては勿論、その肉を提供する動物を敬うことを忘れてはならない、そう思う。

 祈りましょう。 創造主なる御神、全ての命はあなた御自身のものです。そのあなたのものである命を損なうことなき、私たちの新しい生き方をどうかお示し下さい。いたるところで、その命が軽んじられ血が流されています。主よ、どうか預言者が幻の内に見たように、全ての命が慈しみ合う、平和の御国に一歩でも近付くことが出来ますように、そのために、この2021年、大地が主を知る知識で満たされますように、そのために教会を用いてください。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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