2020年9月6日 主日礼拝説教「ナザレのイエス、世界の王」

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ヨハネ福音書19:16b~27(新207頁)

「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。…それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。」 (ヨハネ福音書19:19~20)

説教者 山本裕司 牧師

 主イエスがゴルゴタの丘で十字架につけられた時、総督ピラトは「罪状書き」を掛けました。当時死刑囚には罪状書きを付けて、何故そのような刑を受けなければならないかを示すのが慣わしでした。そこには、先ほど朗読したヨハネ福音書19:19「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれました。ピラトはイエスが死刑に値する者とは思えず、何とかして釈放しようとしました。しかしユダヤ人の殺意に押し切られてしまいます。総督であるにもかかわらず、小さな属領ユダヤを思うように支配することも出来ない、そのことを突き付けられた裁判でした。ピラトは、せめてもローマの権力を笠に着る自分の力をどこかに誇示したかったのかもしれません。だから、ユダヤ人たちが嫌うであろう罪状書きを掲げました。そして祭司長たちの、それなら「この男は「ユダヤ人の王」と自称した」と書いてください」(19:21)こういう要求を「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」(19:22)と突っぱねました。祭司長たちは、このピラトの虚勢をせせら笑ったと思います。「ピラトの奴、どうでもいいことでよく頑張ったものだ。やらせておけよ、我々の勝ちだ」と。
 しかしヨハネ福音書は、本当に勝ったのは誰かと問うのです。それはユダヤ人祭司長でもローマ人総督ピラトでもない。ピラトは、真の勝利者によって、自分でも意図しない内に操られている、そして「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と真理を宣言してしまったと福音書は暗示するのです。十字架の主イエスは最期に言われました。「成し遂げられた」(19:30、208頁)「パーフェクト」と訳しても良いと思います。山浦玄嗣訳では「やって…のげだぞ…!」です。そうであれば、実はローマ、ユダヤ両権力者は等しく、いつの間にかこの真の王の戦いのパーフェクトの「勝利」に仕えさせられていただけなのです。兵士たちも主の服を分け合いました。しかしこの打算の行為もまた「聖書の言葉が実現するためであった」(19:24)とあるように、予め預言されたいた神の御計画を、推進しているのに過ぎなかったのです。

 その言葉は19:20b「ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語」で書かれました。これは当時の全世界の言葉を表しているそうです。こう語るヨハネ福音書は、実は「ユダヤの王」という指摘ではまだ足りない、皇帝をはるかに超える「全世界の王」がここにおられるのだと、世界標準の三つの言語を掲げて高らかに宣言しているのです。
 聖書は世界で最も多く翻訳される書物です。聖書協会によると、全人類の98%が母語、第一言語で聖書を読むことが出来ると言われています。山浦玄嗣先生も東北の方言ケセン語で福音書を翻訳しました。そうであればこのゴルゴタで早くも、世界初の新約聖書翻訳事業が興ったとも言えるのではないでしょうか。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」、いや、世界の王なのだ、だから世界中の者たちが、母なる言葉で、魂にこの真理を刻みつけようではないか、ということです。かくしてピラトは自分でも知らない内に、御言葉の真実を、全世界に伝える伝道者、同時に最初の聖書翻訳の使命を担わせられたのです。

 この「罪状書き」には先ず「ナザレのイエス」とありました。これは出身地を挙げた、それにとどまらない意味を持っていると思います。レオナルド・ダ・ヴィンチ の絢爛たる「受胎告知」という作品があります。その舞台こそナザレです。しかし実際のナザレは「受胎告知」の背景として描かれる神秘的楽園と対照的なただの寒村でした。だからこのヨハネ福音書の最初の方で、フィリポがイエス様と出会い、喜び勇んでナタナエルに紹介したところ、彼は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(1:46)そう言い返したほどでした。そうであれば、その村名ナザレは、既に人から捨てられ無視される十字架のイエスを指し示しているのではないでしょうか。
 この後、主は直ぐ裸にされます。胸痛む情景です。しかしこの服を剥ぎ取られるという所で、多くの人が思い出すのは、あの最後の晩餐の席での主の振る舞いです。13:4~5(新194頁)「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、…/それから…弟子たちの足を洗い…」。その洗足の出来事が思い出されるのです。主イエスはこのゴルゴタでも、衣を脱ぎ、立ち上がるようにして十字架につかれました。それはあの洗足の時の振る舞いとピタリと重なるのです。つまり、十字架とはただ処刑されたというのではない、ここで足よりもはるかに汚れている、人の心を洗う、二度目の洗足が起こっている、そう暗示されるのです。洗足の時、主は僕の姿をお取りになりました。同様に、主は十字架で小さくならなれた。その小ささが「ナザレのイエス」という名に既に込められているのです。しかしそのことによって逆説的に主は、人類救済を完成される勝利者、王の王として立ち上がるのです。だから「ナザレのイエスこそが世界の王」である、これが真実です。だからダヴィンチもその霊的眼力をもって、ナザレをこの上なく神々しく描いたのです。

 あるいはこの19:22、ピラトの「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」、この言葉の直後、バッハは『ヨハネ受難曲』において、やはり信仰の眼差しを開いて、コラールを挿入します。この説教後に歌います「讃美歌21」571ですが、その3節の原文の歌詞はこう歌い出されます。「私の心の奥底では、あなたのお名前と十字架だけが、一日中煌めきを放っています。」、「御名と十字架」が一日中輝いている、そう歌います。この歌で思い出すのですが、18:5(新203頁)、ゲツセマネの園で、主を捕らえようとした兵士が口にする名こそ、やはり「ナザレのイエス」です。するとイエスは「わたしである」と答えられました。この「わたしである」こそ、旧約の時代、主なる神がモーセに教えて下さった御名「わたしはある、わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)、この神の名です。そうであれば、全ての支配者、王の王である「神御自身」こそ「ナザレのイエス」であられた、ということです。主イエス・キリストというお一人の中に、その極大と極小が同居しているのです。いえ言い換えれば、本当に小さくなられたからこそ大きくなられた。僕となって下さった、裸になって十字架のついて下さった、そうやって私たちの罪を洗って下さった、だからこそこのお方は王の王として、私たちの魂とこの世界を支配してしまわれる勝利者となられたのです。
 だからそれはピラトや大祭司の支配とは異なります。力によるのではない。愛による支配です。私たちは本当に人に愛された時、その人のことを決して忘れられなくなるのです。力は人を表面的に支配出来るだけです。十字架の主の支配はそうではない。バッハが歌ったコラール「私の心の奥底では、あなたの名前と十字架だけが、一日中煌めきを放っています」。
その私たちの最も深い「心の奥底」潜在意識と言ってもよい、その支配を成し遂げて下さるのが、このナザレのイエス、十字架のイエスなのだ、ただ愛だけをもって、そうやって主イエスは私たちの王となられたのです。

 「イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた」(19:18)。そうありました。では主イエスの両側の罪人の「罪状書き」はどのようなものだったのでしょうか。それは私たち人間が生涯の中で犯した罪状を代表するのではないでしょうか。私たちが死ぬ時、私たちの頭上にはどのような「罪状書き」が記されるのでしょうか。私たちはその「罪状書き」を取り去って欲しいと思うのではないでしょうか。だから時に、自分の失敗や過ちを覚えている人が死んでくれた時、ほっとするという恐ろしい心を持つのではないでしょうか。ドストエフスキーの小説に、一人の青年が長老の家に来て、とうとう自分の罪を告白した後、暫くして真っ青な顔をして戻って来る。どうしたんだと聞くと、いや先生を殺しに帰ってきた、そう答える、そういう場面があります。しかし私たち信仰を持っている者にとって、事態はそれを知っている人が死んでも解決しない。それどころではない、永遠の神が、全て書き留めておられるのです。そうであれば、ここでも神は言われるのではないでしょうか。19:22「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ。」
 しかし本当に不思議なことに、バッハがこのピラトの言葉の直後に用いた「讃美歌21」571の5節はこういう歌詞です。「とうとい主イエスよ、今、わが名をいのちの書にしるしたまえ」、今死のうとする時、その時「いのちの書」に私の名を記して下さいと歌うのです。自分の名にまとわりつく数え切れない罪状、その罪の歴史が記録される名簿を、私たちが死んだ時、神は手に取って裁かれる、そう思った時、あに図らんや、この讃美歌は、そうではない、主イエスが、私の名を滅びの名簿の方でなく、「いのちの書」に記して下さる、そう希望を歌うのです。どうしてそんなことが出来るのでしょうか。3節です。「つねにかわらず 主の十字架は 輝き照らす、わが心を」

 主イエスが私たち死に行く罪人の19:18「真ん中」にいて、十字架について下さっている。それは御自身が死なれることによって、私たちの「罪状書き」を廃棄して下さるためです。私たちはその恵みによって、罪を赦され、名を「いのちの書」に記して頂けるのです。サタンが、いやあいつは俺のものとして生きたではないか、だからその名をよこせと言ったとしても、ここでも大声で主は言って下さることでしょう。19:22「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と。悪魔の子の名としてじゃない、神の子としての私たちの名を永遠に残して下さる。死んでからだけでなく、今ここで、王の王、主の主の民の中に、私の名を加えて下さる。私たちは「そのときから」「いのちの書」に名を登録して頂いた者として再出発するのです。つまり洗礼を受けて「教会会員原簿」に名を記された者キリスト者としての新しい人生がそこから始まるのです。

 その教会の原型が、この19:25以下に物語られていると思います。

 「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。/イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。/それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」

 ここに教会共同体の最初の交わりの姿が描かれています。主イエスは母マリア様に、愛弟子、これはヨハネと思われますが、彼を見るように促しました。19:26「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と。そして、弟子ヨハネには、「見なさい。あなたの母です」と言われました。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った、と続きます。この「家」とは明らかに、聖母マリアが属したと思われる初代教会・ヨハネ教会のことを指しているに違いありません。ここに新しい家族が生まれたのです。
 しかし今、家族が生まれたと聞いて、私たちは余り心が躍らないかもしれません。家族が今どれほど悲惨な状況になっているか、崩壊する家族、倒れる家のことが報道されない日はないのです。ニュースにならなくても、一つの家で昔から嫁と姑がどれ程争ったか、夫と妻も、親と子も直ぐ憎み合うようになる。心はバラバラになる。殺人事件が起こることもあるのです。教会もまたそれらと少しも変わらない同じ人間が集まっているのです。ではどうしたらいいのかと言うことです。その答えが、この福音書には、19:27「そのときから」という言葉で暗示されているのではないでしょうか。ヨハネ教会という家は「そのときから」生まれた、それはいつの時からか、イエス様が十字架につかれた時からです。その十字架の贖いによって私たちの名を「いのちの書」に記して下さった時からです。その結果として、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」そう言われているのです。この家が世の家のように簡単にバラバラにならないとしたら、この家が十字架のもとにあるからです。その十字架の赦しによって、自分の「罪状書き」を廃棄して頂いた者たちが、その深い感謝の中で、互いに赦し合うことを始めることが出来るのではないでしょうか。

 主はその贖いの恵みをもって、今も、一人の男を見て、私たちに「あなたの子です」と言っておられるのです。一人の女を見て「あなたの母です」そう教えて下さるのです。「あなたの子です」、「あなたの母です」、そう主が十字架の上から言って下さった、その主の執り成しがなければ、私たちは教会で兄弟姉妹などと呼び合うことは出来ません。

 そしてこのことは教会だけで終わらない。この十字架のときから、肉の家族の間でも、そしてこの世界でも同じです。御子は全人類の罪を赦そうとして下さっているのです。地球全体が既に十字架のもとにあるのです。だからあいつが悪いと、許せないと言い続けて、核ミサイルを打ち込んでやる、そんなことはもう止めなさいと、皆人間は、本来、父に創造された「神の家族」なのだと、主はやはり十字架の上から呼び掛けておられます。和解して欲しい、人類よ、分断の歴史を終えて、一つの家となりなさい。そのために教会が先ず、このゴルゴタの聖母マリア、聖母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリア、そして愛弟子ヨハネのように、十字架のもとに立ちなさいと、言い換えれば、上下逆転してしまいますが、十字架という岩の上に家を建てなさいと言うことです。そうすれば「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」(マタイ7:25)、そう十字架の主は教えて下さいました。このような王の王、主の主、神の子、救い主を与えられた私たちの祝福を感謝せずにおれません!

祈りましょう。 主なる神様、自らの罪を恥じて、自分の名を消してしまいたいと思うことがあります。しかしその罪の汚れも、御子の十字架によって洗い流された、その恵みを心から感謝します。そのようにして、この祈りの家、賛美の家に加えられた私たちは、互いに罪を贖われた者として、謙遜になって、受け入れ合う教会を、世界の手本として建てていくことが出来ますように、聖霊を与えて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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