2020年9月27日 主日朝礼拝説教「命に向かって振り向け」

https://www.youtube.com/watch?v=HdlwuV9MgiQ=1s

ヨハネ福音書20:11~18(新209頁)

「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」(ヨハネ福音書20:16)

説教者 山本裕司 牧師

 2020年4月12日のイースターは、コロナ禍のために、全ての教会活動が中止していた時期でした。それは75年前の戦時中でもなかったことであり、無人の礼拝堂における前代未聞の復活日礼拝となったのです。それは何の祝いもない孤独で不安な春の朝でした。しかしそれは、むしろ、二千年前の世界最初の復活日の朝を再現したとも言えるのではないでしょうか。

 そのイースターの主日、YouTubeの礼拝で読みましたのはヨハネ福音書20:1以下でした。そこにはこうありました。マグダラのマリアが、主の墓から石が取りのけられているのを見て驚き、走って二人の弟子の家に行き、そのことを知らせたと。ですから彼女は墓所から、一度、エルサレム市内に戻ったのです。今朝はその続きの御言葉を読むこととなりました。ヨハネ20:11を見ると、もうマリアは墓に戻って泣いていました。マグダラのマリアはかつて、イエス様によって、七つの悪霊を追い出して頂きました(ルカ福音書8:2)。どんなに嬉しかったでしょうか。そして自分を生き返らせて下さったイエス様に対する感謝と共に、深い愛を抱きました。それ以来、イエス様の「そば」から離れなくなりました。共に旅し伝道することが彼女の大きな喜びだったのです。このヨハネ福音書だけではありません。四つの福音書が等しく、決定的な場面である十字架や復活の目撃者として上げる人こそ、マグダラのマリアです。マルコ福音書では十字架まで従ってきた婦人たちのリストがあります。「その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。…そのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた」(15:40)。何故か男はいません。しかもマルコは、その大勢の女性たちの筆頭に「マグダラのマリア」の名をおきました。重要人物だからに違いありません。ヨハネ福音書の場合、マグダラのマリアを含む女性たちは、「イエスの十字架のそばに…立っていた。」(ヨハネ19:25)と書かれてあります。初代ヨハネ教会の人々の記憶には、イエス様のおられるところ、その「そば」にはいつもマグダラのマリアがいた、彼女はそれ程イエスを愛した人だったのです。しかし彼女の最愛の人が殺され墓に納められてしまった。それでも彼女はイエス様の「そば」から離れることは出来なかった。生涯でただ一人、真に愛した人が遺体となってしまっても、その「そば」で余生を過ごしたいと願った。ところが開かれた墓の中にお体は見当たりません。彼女にとっての最後の生きる支えすらも取り去られたのです。その悲しみの中で「マリアは墓の外に立って泣いていた」(20:11)のです。

 マグダラのマリアに天使は問います。「婦人よ、なぜ泣いているのか」(20:13)と。マリアは答えた。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」(20:13b)。この「どこに」はヨハネ福音書においては「含み」のある言葉です。主の宣教最初期、主に「何を求めているのか」と聞かれた洗礼者ヨハネの弟子たちはこう問いました。「ラビ―『先生』という意味―どこに泊まっておられるのですか」(1:38b)。これは日常的な質問ではなく、真理問題に関わる問答であると学者は指摘します。それは主イエスがどこにおられるかが分かることと、主イエスが誰であるかが分かることは一つのことだと、ヨハネは表現しているからなのです。

 マリアは墓を見詰めて、死の支配の中に捕らえられてしまったイエスの体をその内に捜して、どこにあるか分からないと嘆いています。しかしその死と闇の方向をどんなに捜しても、そこに主はおられません。マリアが「どこに」と嘆いた時、復活の主イエスは現れ「婦人よ、なぜ泣いているのか」(20:15)と問います。墓の方を見ているからではないかと。だから涙は止まらないのではないかと。その死と闇の方向ではない、逆の方向を見てみなさい、命の方角、光の方向、そこに「わたしはある、わたしはある」と呼び掛けておられるのです。
 「(マリアは)…後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」(20:14)。しかしマリアは未だそれがイエス様だと分かりません。イエスは死の虜だと信じ切っているからです。しかしそのように絶望に目が塞がれていて、光が見えなくても、実はもう甦りの主イエスはあなたと共に「ある」のです。あなたに求められていることは、もう一度、振り向くことだけだ、そうすれば、今度こそ光を見るであろう、そう福音書は訴えているのす。「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は(二度目ですが)振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である」(20:16)。

 この復活にこだわり続けた作家に椎名麟三がいます。彼の短編に『公園の裏』という作品があります。そこには生活にうちひしがれている女性がいます。今の不安な生活から解放してくれるものは死だけだと考えている。その女性が男と、公園の裏の池でボートに乗ります。ボートがひょんな拍子に転覆します。池に落ちた彼女は水を何度も飲みます。目の前にいる男に向かって「助けて」と叫びます。彼は腹立たしそうに何か言っていますが、彼女には理解出来ません。もう駄目と思います。岸に集まってこちらを見ている人々の顔が目に映ります。いよいよこれが最後なのだ。彼女はちらっと男を見て眼を閉じた。「さようなら」、水がまた鼻から入ってきた。不幸な一生!と彼女は考えた時、彼がため息して腰で水を切りながら近付いてきます。彼女は、水の下へ沈み、髪が水面に藻のようにひろがった。彼はすっかり腹を立てながら叫んだ。「どうして分からないんだ、立てば立てると言っているのに!」彼はぐっと彼女の腕をつかんで引き上げた。水の上へ顔の出た女は、口を大きくあけた。空気が音を立てて吸い込まれてきた。そして椎名麟三は書くのです。「すると何か得体の知れない新鮮な光が、未知の自分の心の奥を照らし出した気がした」と。

 彼女の見た光とは、自分がこれまで知らなかった、自分を「支える場」なのです。私たちにも、もう駄目と思う現実があります。死の時がそうでしょう。イースターの朝も無人の教会堂もそうかもしれません。もう自分は沈むだけだと思う。しかしそう絶望する私たちを、底から支えるもう一つの土台が既に与えられていたのです。そこに復活の主はおられるのです。椎名さんはそれを書こうとしたのです。立てないのは、そのことを知らないだけです。立てば立てるのに、立とうとしないで溺れているだけです。墓の暗闇ばかりを見るのではく、振り向くのです。すると初めてマリアの問い「イエスはどこにおられるか」、それが分かるのです。死と滅びと正反対の所にもう「おられ」、そして「わたしはある」(ヨハネ8:24)と、この命と光の場の方に「ある」と、あなたはそれが見えるかと、イエスは呼びかけてくださっているのです。

 「マリア」(20:16)との呼び声に、彼女はついに完全に振り向きました。それを教会は「悔い改め」と呼びます。そこでマリアは『公園の裏』の女と同じように、「何か得体の知れない新鮮な光が、未知の自分の心の奥を照らし出した気が」したことでしょう。

 そしてこう続きます。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい」(20:17)。ここは以前の口語訳聖書では「わたしにさわってはいけない」とあり、未だマリアが何もしていない前に、指一本触れるなと命令した、そんな翻訳になっています。しかし荒井献先生は、新共同訳の翻訳「わたしにすがりつくのはよしなさい」、この訳に賛同されて説明します。原文では現在形の命令で表されているので、これは「しがみつく」という動作が既に起こっているという意味だと言って続けます。「これは読者の想像力を刺激するであろう。イエスとマリアの間にはイエスの生前からスキンシップがあったのではないか」と。

 さらに言えば英語聖書(N.E.B.)を見ると、このイエス様のお言葉を「Cling」(クリン)してはいけない、と訳しているものがあります。この「Cling」とは「まつわりつく、しがみつく」という意味ですが、これと語源を同じくする「Clinch」という言葉があります。「クリンチ」とは、ボクシングで一方が相手の胸に潜り込むことです。しかしそれでは試合になりませんので、審判が二人を引き離そうとします。マリアもイエス様に「クリンチした」と言ってよいのです。一度は失ったお方なのです。だからもう二度と離さない、決して離さないと、彼女は「わたしのイエス、わたしのイエス」と、イエス様が息も出来ないほど抱き締めたのではないでしょうか。マリアはイエス様と知らずに、園丁と思い込んだ時にこう言っています。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」(20:15)。マリアは「わたしたち」ではなく、一人称単数で「わたしが…、」と言いました。「わたしの主が取り去られました」(20:13)ともあります。「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である」(20:16)。ここにもマリアの愛の肉声が聞こえてくるのではないでしょうか。普通は「ラビ」です。「ラボニ」とは、その強調形であり、これもまた「わたしの先生」の意味だと注解者は指摘します。つまりマリアにとって、イエスは「みんなのイエス」ではないのです。「わたしのイエス」なのです。それほど愛したのです。

 さらに言えば、このヨハネ福音書において、復活のイエスとマグダラのマリアはこの春の朝、二人きりで会っているのです。これは他の福音書には決してない大きな特徴です。他の福音書では、マリアはいつも他の婦人たちと一緒に復活のイエスと会っています(マルコ16:9は後代の挿入)。ですからヨハネ福音書からは、他を寄せ付けない逢い引きのような愛の交流が感じられるのではないでしょうか。イエス様とマグダラのマリアの間のただならぬ男女の関係を想定する女性解放の神学者もいます。またこの「すがりつく」(haptw,20:17)と訳されたギリシア語を辞書で調べると、性的関係も表すと書いてありびっくりしました。しかし復活の主は、それを受け入れることはしなかったとヨハネ福音書は続けるのです。

 主は首にからみつく彼女の腕を優しくおろし、首を振ったのではないでしょうか。そして言われました。

 「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(20:17)。

 マリア、クリンチされていては、私は父のもとに行けないではないかと。そして主イエスは「わたしの兄弟たち」(20:17)と弟子たちのことを呼びます。そして繰り返しここで、「あなたがたの父」、「あなたがたの神」と複数形を用いられます。主は、どんなに御自分にとって特別な人だとしても、ただ一人マリアだけを愛するために来られたのではありません。それどころではありません。主は全人類を愛するために来られたのです。しかし「万人を愛しているということは、誰も愛していないと同じこと」という台詞があります。「八方美人」とは褒め言葉ではありません。しかし主イエスだけは違います。主の愛とは、四方八方に向かう愛でありながら、その愛を受けた時、私たちには、他の誰でもない、ただ私だけを愛して下さっている、そう感じるのです。主イエスの愛とはそれほどのものなのです。マリアもその愛の一途さをいつもひりひりとするほど感じてきたのではないでしょうか。マリアはそれに少しでも応えたかったのです。それほど主イエスは、一人一人を、その他大勢ではない、交換不可能な、かけがえのないただ一人として、愛してくださるのです。一人一人の名を呼んでくださるのです(10:4)。「マリア」(20:16)と。それでいて、私たちは主イエスを独り占めすることは出来ません。主は全ての人を愛する救い主だからです。

 その後、マリアは主の命令に従って、弟子たちのところに行きました。それはイエス様が「わたしの兄弟たち」(20:17)と呼んで下さった、教会共同体、その「きょうだい」に、復活の主を伝えるためです。マリアもまた、その「きょうだい」の一人となることが求められているのです。これからは、そのような信仰の世界、霊的世界、教会共同体の中で、マリアも主を共に愛する者と変わらねばならないのです。それがキリスト者です。

 マリアは「わたしは主を見ました」(20:18)と弟子たちに告げました。ここではもう「ラボニ」とは言いません。これまでも、マリアはイエス様のことを「主」と呼ぶことはありました。しかし復活の主との出会いによって、この「主」の意味が変わった、深まったのです。この「主」と言うお名前の元々の意味は、出エジプト記3:14「わたしはある。わたしはあるという者だ」という、神のモーセに対する自己紹介における「御名」です。ヨハネ福音書で、主は何度も「わたしはある」と言われました。それは御自身が父なる神と御名を共有する「一体」なるご存在であることを明らかにされる言葉でした。「わたしはある、わたしはある」、あなたが絶望の闇を見詰めて泣きたい時も、振り返ってご覧。そこに「わたしはある、わたしはある」どんな時にもあなたたちと共にいる。その「生ける主」を見ましたと、マリアは「きょうだいたち」に告げる、爾来、彼女は人々を教会に招く伝道者となったことは確実です。マグダラのマリアは「使徒の中の使徒」であったと女性解放の神学者は言うのです。何故なら、使徒たちに復活の主を最初に告げたのがマグダラのマリアだからです。彼女こそが世界で最初に、復活の主を伝えた人間だからです。だからもう福音を独占するのではありません。それどころではない。自分の知ったイースターの歓喜を一人でも多くの人に分け与えたいからです。

 私たちもまた、あの2020年4月12日、孤独の中で朝を迎えましたが、しかし放送などを通して、イースターの御言葉を聞き、疫病コロナの方ではなく、命の方を振り返る経験をしたのではないでしょうか。そうやってやはり、その主日、イースターの特別の喜びにマリアと共に私たちはあずかったのです。この復活の主と出会うことの出来た私たちの限りなき祝福を思う。

祈りましょう。 主なる神様、どうか私たちが絶望の暗闇に引きずり込まれそうになる時、振り向くことを思い出させて下さい。そこに「わたしはある、わたしはあるという者だ」、そう言って、私たち一人一人の名を呼んで下さる、生ける主が立っておられることを、はっきりと見ることが出来ますように。それが故に望みを回復し、私たちもまた、マリアに倣って復活の主を宣べ伝え、一人でも多くの人に、振り向くことを呼び掛ける伝道の使命を果たすことが出来ますように。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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