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2020年9月13日 主日朝礼拝説教「成し遂げられた救済」

2020年9月13日 主日朝礼拝説教「成し遂げられた救済」

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出エジプト12:21~27(旧112頁) ヨハネ19:28~37(新208頁)

説教者 山本裕司 牧師

「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」 (ヨハネ福音書19:30)
 
 ヨハネ福音書において、主イエスの死は単なる終わりではありません。イエス様のお仕事は未だ残っていたけれども、それをする前に、殺されて挫折してしまわれたということではありません。話は逆です。十字架の主は19:30「成し遂げられた」と言われて、息を引き取られたのです。「残念無念」と言って死なれたのではない、そういう首を横に振るような仕方で死なれたのではありません。頭を垂れて息を引き取られたと書いてあります。終わりに首を縦に振られたのです。主イエスは全てを「肯定」しておられるのです。この頭を垂れるお姿を、バッハは『ヨハネ受難曲』の中で「あなたは頭を垂れて、無言のうちに「ヤー(よい)」と言っておられます。」そうバスのアリアに歌わせました。人が死ぬ時頭を垂れる、それは当然ですが、バッハは、そうではない、主は、終わりに「イエス」と応えられたのだと、この福音書から学んだのです。ですからこのヨハネ19:28~30の短い間に、「成し遂げられた」(telew)という言葉が三度出てきます。この30節以外では、19:28に二度出てきます。「今や成し遂げられた」、「聖書の言葉が実現した」と訳される箇所です。この計三回は同じ「完成」を意味するギリシア語が用いられています。あの創世記冒頭で、神が天地創造を完成させた六日目、「見よ、それは極めて良かった」(1:31)と記されますが、それに匹敵する「良いこと」、その天地創造以来の完成が、このゴルゴタに再び出現したのです。

 以前語りましたが、バッハの『ヨハネ受難曲』は、イエスが「成し遂げられた」と朗唱した直後、それに呼応するアルトのアリアは、最初、速度記号「アダージョ」(ゆるやかに)と指示されます。それは悲しみを湛えた静けさの中で奏でられますが、磯山雅先生は、やはりそこに不思議な清らかさが共存していると解説しています。何故ならイエスの死は使命の成就だからに他ならないと言われます。しかもこのアリアは突然その静けさが打ち破られ、神の勝利宣言がファンファーレのように噴出し、輝かしい栄光賛歌へと劇的に変化します。その速度記号も一転して「快活に」を意味する「ヴィヴァーチェ」となり、その速いテンポで歌われるアリアはこうです。「ユダ族から出た勇士は勢威(いきおい)をもって勝利し、戦いを終わらせる。」そう力強く勝鬨(かちどき)が歌い上げられるのです。磯山雅先生の遺作『ヨハネ受難曲』の中で、先生はこう解説します。「しめやかなアダージョの最中に荒々しいヴィヴァーチェがはさまれる効果は極端に思われるが、バッハは百も承知でこの構成を選んだ。瀕死のイエスから勝利のイエスへの突如の変身は、人智を超える真理の顕現の音楽化である」と。
 この福音書を書いたヨハネ教会は、常に、ユダヤ人からもローマ人からも、処刑されたイエスを崇めていると揶揄侮蔑され「ノー」と、否定されて来ました。その時、教会は、それこそ「ノー」だと、これは肯定的出来事ですと、イエス様は十字架の上で頷かれたではないか、だから我らも、十字架のイエスを文字通り「イエス」と呼ぶ。十字架の上のイエスこそ栄光に輝く勝利者であると、その証しを全世界に向けて伝道するために献身したのがヨハネ教会でありました。

 主が十字架上で言われたもう一つの言葉はヨハネ19:28にあります。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。」ここでサマリアの井戸端の物語を思い出す人は多いのです。ヨハネ4:6b~7(新169頁)「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。/サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。」そうあります。しかし実は、本当に渇いていたのは、主イエスではありません。先ほどの招詞で私が朗読したように、本当に涸れた谷を行く鹿のように渇いているのは、サマリアの女に代表される私たちです。実際主イエスはこの後言われました。ヨハネ4:13~14「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」そう主は愛に渇く女に、つまり私たちに約束してくださいました。その主の宣教初期にサマリアの井戸端で言われた「わたしの水」が与えられる、その約束が成し遂げられる、それこそが、ここ灼熱のゴルゴタなのです。まさに死なれた主のわき腹から、19:34(新208頁)に戻れば「すぐ血と水が流れ出た」とあります。この血と水こそ、サマリアの女に約束された決して渇かない水そのものです。それが雨のように私たちの罪と死の象徴ゴルゴタの砂漠に降り注ぐ。そして原罪に渇ききった私たちの魂を潤わすのです。しかし一方、主は「「渇く」と言われた」(19:28)そうあります。何故、永遠の命の水をお持ちの方が、この呻きを発せねばならなかったのでしょうか。それは、私たちの方が人生の砂漠ゴルゴタで口にするはずの言葉だったのではないでしょうか。しかし、それを主は代わってここで口にしてくださったのです。そして逆に、飲んでも飲んでもすぐ渇く水を、私たちに代わって御自身が受けてくださるのです。

 19:29「そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。」「酸いぶどう酒」、これはまさに飲めば飲むほど渇きを増す、悪い酒です。主は私たちの人生につきまとうその「苦き杯」を、お一人で全部ゴルゴタで飲み干してくださったと言って良いのです。それと「交換」されるようにして、御自身のわき腹から19:34「血と水」を流し出してくださり、そちらの方を今度は私たちに飲ませてくださるのです。その血とはもはや酸いぶどう酒ではない、それどころではない、それは、やはり主イエスの宣教最初期のカナの婚礼で、主が奇跡をもって与えてくださった、終わりにもたらされる「最良のぶどう酒」(2:10)を思い出させるのです。そうやって、もう私たちがすぐ渇く水と、劣った悪い酒を求めなくても済むようにしてくださったのです。
 
 旧約・詩編69:22「人は…渇くわたしに酢を飲ませようとします」とありました。この聖書の言葉もまた、御受難において、主は「実現」(ヨハネ19:28)してくださったと言われているのです。そうやって、主イエスは永遠の昔に神が決意しておられた、私たち罪人の渇きを癒やす救済を、ゴルゴタで全て実現してくださった、そうやってその勝利者、王の王、主の主と君臨してくださったのです。
 
 ヨハネ19:29b「人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。」ここに記される「ヒソプ」という植物の名が、この「救済成就」の出来事の中に表れていることも暗示的です。19:31にあるように、この十字架の日は、過越のための準備の日です。主が十字架につかれた時は、丁度、羊が次々と屠られる時刻でした。イスラエルがエジプトの奴隷から救われるために、犠牲の羊が血を流す必要がありました。先ほどもう一箇所朗読した、出エジプト12:22(旧112頁)には、その羊の血を鴨居や柱に塗る時、ヒソプの束を用いるように指示されていました。この御受難においてヒソプが用いられた意味は、これがあのモーセ以来の第二の過越の出来事であったことを暗示しているのです。罪の奴隷である私たちを、神は撃たねばならないところで、ヒソプの筆跡生々しき犠牲の血を見て、神は裁きを過ぎ越してくださる。まさに聖書の言葉が、ここでもこの第二の過越によって完成していると言われるのです。

 出エジプト記をもう少し読み進めると、12:46(旧114頁)には、その過越の羊の「骨を折ってはならない。」という律法が記されています。それが、ヨハネ19:33「イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった」という出来事と結びついて、これもまたヒソプへの言及同様に、主の犠牲によって、19:36「聖書の言葉が実現した」ことの証拠となるのです。全ては旧約聖書に書き留められていた大昔からの神様の人類救済計画が、御子によって成し遂げられたのですと、畳み掛けるように、ヨハネは世に証しするのです。

 ヨハネ19:30「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」そこでバッハ『ヨハネ受難曲』に戻ると、この直後、第32曲、バスのアリアはこう歌うと先に指摘しました。「しかしあなたは頭を垂れて無言のうちに、「そうだ」(よし)と言っておられます。」主の御業と十字架の贖罪、その全てを主は「ヤー」と頷かれた、肯定されたと言いました。特にここでバッハは、私たち人間の問いに対する答えとして、その肯定をバスにこう歌い出させています。
 「尊いイエスよ、お尋ねしてよろしいでしょうか、いまや十字架につけられ、自ら「成し遂げられた」と言われたからには、私は死から解放されたのでしょうか?、私は…天国をさずかることができるのでしょうか?、全世界の救済は成ったのですか?」そう問うのです。そして終わりに、先に引用した歌を喜びを込めてバスは歌います。「しかしあなたは頭を垂れて無言のうちに、「そうだ・ヤー」と言っておられます」と。
 このアリアにはコラール(讃美歌)の合唱がそれらの問いの間に挟み込まれて、聞く者を魅了しますが、コラールは「全世界の救済は成ったのですか?」その全人類が上げたと言ってよい問いに対して、バスの「ヤー」を先取りしてこう合唱します。「あなたは、私をあがなってくださった」と。コラールは教会共同体の歌です。私たち教会こそが、バスのあげる全人類を代表する問いに、終わりの日までこう声を揃えて答え続ける責務を負うのです。「そうです、あなたは私たちの罪の贖いを完成してくださったのです。だから全世界の救済は成し遂げられました」と。これこそ私たちの福音宣教の主題です。

 その贖いのためのこのゴルゴタの第二の過越を、19:35a「目撃した者が証しをしており」とあります。目撃者とはこれからコラールを歌い続ける教会を建てる愛弟子ヨハネのことと思われます。罪と死とサタンの奴隷状態から、第二の過越によって、出エジプトを果たした「新しいイスラエル」、それが教会です。「本当に我々は救われたのですか」その歴史を貫く全人類の問いに、ヤーと証し続ける教会が、そして、19:35b、人々を、信じさせるために、真実を語り伝道する教会が、このゴルゴタから立ち上がろうとしているのです。

 もう一度読みます。19:30「イエスは…「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」この「息を引き取られた」というのは、主が死んでしまわれた、という意味に止まりません。息とは霊とも訳せます。そのことから「霊を引き渡した」、そう訳すことが可能です。その意味は、御子は御自分の霊を父のもとに引き渡された、そうやって天にお帰りになった、そう理解されてきました。それは勿論正しい解釈ですが、もう一つ最新のヨハネ福音書研究から生まれた解釈があると土戸清先生は指摘されます。
 先週も、19:25~27(新207頁)これは、愛弟子ヨハネと聖母マリアを中心とする初代教会・ヨハネ教会という家が、十字架のもとに創立したという意味だと説明しました。その直後に、19:30「息を引き取られた」つまり「霊を引き渡した」と福音書は書いて、そのことと、この直前に書いた「ヨハネ教会創立」の物語と思われる記事をリンクさせようとしていると読めるのです。主イエスが十字架をもって全ての地上の業を終えられて、天にお帰りになる、その瞬間「霊を引き渡された」、それは世にこれから立つ愛弟子と聖母マリアが建てるヨハネ教会に、御自身の「霊を引き渡された」委ねたという意味が込められていると土戸先生は言うのです。それは主御自身の地上での御業、その宣教と救済の使命、平和を作り出す使命、何よりも父を礼拝する使命、それを世に残されたヨハネ教会に託されたという意味なのです。

 後に、20:22(新210頁)、復活の主は弟子たちに「息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。/だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」」そう言われました。主の息とは聖霊のことです。教会は主の霊を受けて、主イエスの地上でのお働きを、神の言葉の宣教を、罪の赦しの宣言を、世の終わりまで証しするために派遣されたのです。それが教会の本質であると言われているのです。それ以外にはないのです。神様がかつて主イエスに与えられた救済の使命、それを今度は私たちの教会が全て担うと言われているのです。それは私たちにとって何という重荷でしょうか。その余りにも偉大な使命と、自分の余りのちっぽけさ、愚かさとの落差に私たちは恐れおののくのではないでしょうか。
 しかし主は、私は天にさっさと帰るから、後はヨハネたちよ、自分たちだけで教会を建てよと言われたのではありません。息を引き取られた時、霊を委ねてくださったのです。神の息を吹きかけてくださったのです。この十字架と復活を通して、聖霊を教会に海のように充満させてくださったのです。その聖霊の御力によって、私たちでもキリストの御体である教会を建てることが出来るのです。主が御自身の御業を私たちに委ねてくださった、それは何と、もったいない、光栄なことではないでしょうか。その証しに生きる時ほど、私たちの人生は輝き、生き甲斐に満ちる時はないと確信します。天にお帰りになった主のご委託に応えて、主の真実を証ししたヨハネ教会の伝統を受け継ぐ、私たち西片町教会の祝福を思います。

祈りましょう。 主よ、御子が救いを成就されて二千年がたちましたが、なお多くの人たちが、私たちは救われたのでしょうかと問い続けている、この世界を憐れみのうちに覚えてください。その問いに「そうです」(イエス)と、あなたは救われたのですと答えるべく建てられてた教会の声の小ささを懺悔いたします。しかしその弱い教会を支えるためにも、御子は十字架について罪を贖ってくださり、息を吹きかけてくださった、その光栄に震えるほどの喜びを持ちつつ、御子の宣教の使命を果たす西片町教会を、さらにあなたが聖霊をもって豊かに用いてください。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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