2020年8月30日 主日朝礼拝説教「この人を見よ!」
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創世記9:5~16(旧11頁) ヨハネ18:38b~19:16a(新206頁)
説教者 山本裕司 牧師
イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。(ヨハネ福音書19:5)
主イエスが十字架におつきになられることによって、十字架につかなくて済んだ男がいたと、福音書は記録しました。その名がヨハネ福音書18:40に2度「バラバ」と出て来ます。ローマ帝国のユダヤ統治のために派遣されている総督ピラトは、ユダヤの祭司長らから「イエスを十字架につけよ」と要求されています。総督ピラトにとっての死刑に値する罪とは、ローマ帝国への武力的反抗です。その頭目が「メシア」と呼ばれることがありました。このメシアとはヘブライ語で「油注がれた者」の意味です。ギリシア語の翻訳では「キリスト」です。ユダヤの王や祭司が即位するとき、上から塗油する儀式が行われてきました。神から選ばれ、上からの「権限」が与えられて任職されたことを意味するのです。ヨハネ福音書19:9で、ピラトの再度の主への尋問で、「お前はどこから来たのか」と問いました。これはピラトの意図を超えて福音書において重要な信仰的意味を持つ問いと、学者は指摘しています。主イエスは、それに対して、19:11で「神から」と口にされています。神の子イエスは父なる神にその出自を持っておられる、天に帰属するお方であると暗示されています。まさにイエスこそがメシア、油注がれた王である、それは、19:11の主の言葉で言えば、ピラトや祭司たちのような地上の「権限」ではないということです。天の神の使命を果たす者として、神から選ばれ、上からの権限を与えられた、天から世に降って来たお方なのです。それがピラトの問い「イエスはどこから来たのか」これに対するヨハネ福音書の答えなのです。
次々に大国に支配されたり滅ぼされたりして、歴史の辛酸を嘗め、今はローマ帝国によって独立を奪われているユダヤです。ですから、そこから解放してくれるメシアが待望されてきました。使徒言行録5:36~37(新222頁)には、ユダヤの反ローマ運動の指導者テウダやユダの武装蜂起とその憐れな末路が書かれてあります。ピラトがユダヤの総督であったのは、紀元26~36年ですので、彼の在任中のことであったと思います。ピラトにとって、そのように次々に現れる民族主義的メシアを裁くのは日常的な仕事だったと思います。その被告の一人として、イエスも加えられたのです。しかし主イエスは、先週も読んだようにこうピラトに供述されました。ヨハネ18:36「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、(ペトロのような)部下が(剣を取って)戦ったことだろう。」主はゲツセマネの園の最初から、テウダやユダとは異なり、剣を捨てるように弟子たちに求められたのです。
あるいはユダヤ人の糾弾する律法違反、19:7、「神の子」と自称したという宗教的観念はピラトにとってはどうでも良いことでした。ですからピラトは無罪のイエスを放免したかったのです。しかし過越祭の恩赦として選ばれたのは「バラバ」の方でした。「バラバは強盗であった」(18:40b)、そうあります。多くの人が推測するのは、まさに、彼はピラトが処刑しなければならない、ローマ支配に抵抗するユダヤ民族主義者であったと言うことです。強盗とはローマ軍から武器を盗んだり、銀行を襲ったりして軍資金を得たことなのかもしれません。そうであれば、ユダヤが解放されるために、物を言うのは力であると、武器であり、金である、それがバラバの生き方でした。しかし主イエスは、力を求めませんでした。神の愛によって世を変えようとされたのです。それによって、根元からローマが変わる、ユダヤが変わる、そして全世界に真の「霊的革命」が起こる、そこに「新しい人」新人類が生まれる、その使命のために父から遣わされたメシアこそ、イエス・キリストであられたのです。
しかしユダヤ人はバラバを選び、イエスを捨てました。ある人は書いています。それはユダヤ人だけでない。「いつの時代でも、いずれの国でも、人はバラバの道を選び、イエスの道を拒否するだろう」と。「古い人」旧人類はそうする、バラバを選ぶと言うのです。
そうやって人は、力の道を選んだ、神の子の愛の道を拒否した。しかしそれによって、神は負けたのでしょうか。ヨハネ福音書は神の子の敗北に見える所に、不思議な逆転が出現すると語り続けてきました。先にも言いました。少なくてもここで、メシア・イエスが十字架につかれることによって、一人の男が救われたのです。そこに既に、主イエスの無力こそが、総督が死刑にせねばならないはずの反ローマの罪人の生命を救う力となっているではないかと聖書は訴えています。やがて、使徒パウロが、その一人の男に起こったことを普遍化しました。
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(コリント二5:2)。
この不思議な交換、罪なき者が罪人となる、そのことによって、罪ある者が義とされると言われるのです。
ローマ兵による主イエスへの侮蔑の儀式に戻ると、イエス様に着せたのが「紫の服」(ヨハネ19:2)とあります。王たちは高貴な色・紫のガウンを着るのを好みました。確かに主イエスは、民衆から、受難週初日、なつめやしの枝を持って王・メシアとして迎えられました。しかしその時も主は軍馬に跨がるのではなく、軍事的に無力なろばの子に乗られたのです。そのように既に、主イエスは御自身が王・メシアであっても、その国は、ヨハネ福音書18:36「この世には属していない」ことを、明らかにされたのです。そのろばの子に乗る入城とは、既にこのピラト官邸の主のお姿の先取りです。王であるはずのイエスに、兵士はただ色が似ているだけのぼろ布をまとわせた。そしてその頭には「茨の冠」を被られたのです。それから兵士たちは「ユダヤ人の王、万歳」と嘲り平手で打ちました。そこでイエス様は王でありながら、世の人の目からは、王からも最も遠く離れた存在、メシアとは全く逆の最下層の無力な男としか見えない、そう描かれているのです。
しかし、実はそうではありません。信仰の眼差しを開けば、主イエスは、最も低くなられることによって、最も高く昇られ、王、メシアとしての栄光の冠をお受けになるのです。だから主はその御受難を、受け身ではなく、実は能動的に担っておられる、そうヨハネ福音書は注意深く物語ります。土戸清先生が指摘しますが、四つの福音書の内、最後まで冠と紫の衣を着けて、つまり王の装いをもって、十字架の道を進んだように感じられるのは、ヨハネ福音書だけです。他の福音書マタイやマルコでは、兵士たちは、侮辱した後、紫の服を脱がせて元の服を着せたと書かれてあります。ところがヨハネ19:5a「イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。」そうあります。他の福音書と異なり、囚人らしく「引っ張られてきた」とも書かれていません。主イエスは王の装いをもって「出て来た」とヨハネははっきり書いたのです。王としての「権限」を以て自らの御意志で進み出て来る。また、ヨハネ福音書における主は、他の福音書のように、十字架をキレネ人シモンに担がせることもありません。19:17「イエスは、自ら十字架を背負い」とあるのです。それが天の父から託されたメシア、王としてのイエスの使命だからです。
ピラトが、ヨハネ18:37「それでは、やはり王なのか」と問う場面がありました。主イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」この翻訳についてですが、バッハの「ヨハネ受難曲」では「ルター訳聖書」で朗唱がなされますが、ここは主イエスが「あなたの言う通り、私は王なのだ」と明瞭に答える、そう訳されました。その時、磯山雅先生によれば、普通の音楽では、「王」という言葉は、高い音域に置くのが原則であり、バッハも平素はそうしている、そう言われます。しかしここで、「王」の語は、低いGに下降し、イエス様の言葉では最低音にまで落ちるのです。磯山先生はそこで、その意味を「それはこの世のものでない国の王が、身を低くしてこの世に来ていることを示す」低音なのだと言うのです。しかし繰り返します。ヨハネが語る福音とは、バッハがその「受難曲」冒頭の大合唱に、いきなり歌わせたように、「低さの極みにおいてさえ、栄光を受けられる」という逆説なのです。
どうしてそんな逆説が成り立つのかと言うと、それは、19:14主の御受難が「過越祭の準備の日の、正午ごろであった。」とありますが、それは過越の晩餐のために、犠牲の小羊を屠る、その用意が始まる時刻です。出エジプトの物語における犠牲の小羊は、その血によって、イスラエルの民に自由解放を与えるのです。主イエスは、今や、神の小羊として、御自身が犠牲となられて、全人類の罪を贖い、悪魔と死から解放して下さるのです。それこそが、父から託された御子イエスの王としての権限でありました。その神の愛を本当に知った時、人間はこの神の子、王の王、キリストに魂を支配されてしまうことでしょう。だから、この十字架の低きにおいてこそ、御子の栄光は輝くのです。
「イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた」(ヨハネ19:5a)。ピラトはその王イエスを、「見よ、この男だ」(19:5b)と言って、祭司長たちの前に連れて行きました。これは「この人を見よ」と訳されて大変有名な言葉になりました。しかしピラトは、この自分の言葉がそれほど重大な意味を持つなどと夢にも思わなかったと思います。ただ、この憐れな男をどうして、お前たちは殺したいのか。もういいだろう、見よ、この男の惨めさを、その程度の意味であったと思います。しかし後にこれを読む信仰者たちは、ピラトのその思いを遙かに超えました。この人は神御自身であった、そう信仰の眼差しを開いて、この人を見たのです。
バッハの「ヨハネ受難曲」の全曲の目的こそ、「この人を見よ」という促しであることは明らかです。主の十字架が左右対称(シンメトリック)構造であることから、この受難曲には、幾重もの対称構造が仕組まれていると説明されます。その「ヨハネ受難曲」の心臓部こそ、今、私たちが読んでいる御言葉であると言われます。そこには群衆の叫びやコラールが対称的に配置されました。その中心に、あるのが、「…ピラトはイエスを釈放しようと」(19:12a)した、それと、しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「この男を釈放するな」(19:12b)、この両者の間に挟まれるコラールこそ、受難曲の心臓部であると指摘する人がいます。それはこう歌う。「あなたが捕らわれたからこそ、私たちに自由が訪れたのです。あなたの繋がれた牢獄は、全ての信じる者の罪の赦しの場です。」この交換を実現して下さった、「この人を見よ」であります。さらに言えば、磯山先生によると、バッハの「この人を見よ」ここでの音楽は、やがて到達する、主の十字架上の最期の言葉「成し遂げられた」、そう救いの完成を高らかに宣言する言葉、そこで用いられる音型を、この「この人を見よ」で先取りされていると言うのです。つまり、主イエスは、この天の使命を、十字架で完成させる人であるからこそ、全人類が凝視しなければならない「新しい人」であり、主がかつて3章で、御自分だけでなはい、ニコデモにもなるように求めた「新しい人」新人、そのモデルなのです。
戻ると、19:1にはこうありました。「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。」この言葉の直後「ヨハネ受難曲」でアリアがこう歌い始めます。「心せよ、血に染まった彼の背が、すみずみまで天国に等しいさまを。そこでは私たちの罪の洪水の大波が引いたあと、こよなく美しい虹が、神の恵みの徴として出ているのだ」、そう美しくテノールが歌う。鞭打たれ、血に染まった主イエスの背には、神の国の平和が映っていると。余りにも美しいこの歌は、創世記のノアの洪水物語を思い浮かべていることは確かです。
「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは(血の)賠償を要求する。…」(創世記9:5~6)、そう言われます。これは主イエスの犠牲の血を指し示していると言うのです。そして、洪水が引いた後の大地で、神とノアとの新しい契約が交わされます。「…二度と洪水によって肉なるもの(を)ことごとく滅ぼ」(創世記9:11)すことはしないと。そのしるしとして、雲の中に虹が現れるのです。大地を覆う恐るべき人間の罪、その原罪という大洪水は、御子が血を流すことによって終わる。そこに神と人との和解のしるしである虹が現れる。バッハは鞭打たれ血に染まるイエスの背から、平和の虹が輝き出ると歌い上げています。
夜のニコデモのような古い人・旧人類である私たち、そのバラバの道を行く者には、ありえない方法だと思う、十字架の無力、十字架の血、十字架の愛こそ、人を救う力だと福音書は語るのです。その平和を成し遂げて下さったお方を指し示し「この人を見よ!」と叫ぶのが教会の使命です。そしてこの「新しい人」とは主イエスだけに留まるのではない。この新しい人イエスに従う「新しい人」の出現が待たれているのです。生命、平和、愛が支配する、虹が大きく空に弧を描く神の国の似姿を作る、その「新しい人」新人類に我々も「水と霊」(3:5)によって生まれ変わろうではないかと、ヨハネ教会は、この偉大な福音書を以て私たちに訴え続けているのです。
祈りましょう。 主なる神様、私たちを生かす力が本当には何か、直ぐ見失ってしまう愚かなものであります。武器や富を見よと指し示す、破局への道でなく、十字架の御子を「見よ」と呼び掛けることによって、平和の虹を呼び起こす「新しい人」の群れ・教会を建てることが出来ますように、聖霊を与えて下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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