2020年8月23日 主日朝礼拝説教「真理とは何か」

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エレミヤ書5:1(旧1182頁) ヨハネ福音書18:28~38a(新205頁)

説教者 山本裕司 牧師

イエスはお答えになった。「…わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」/ ピラトは言った。「真理とは何か。」(ヨハネ福音書18:37b~38)

 今朝の説教題「真理とは何か」は、先ほど朗読したように、ローマ総督ピラトが主イエスに問うた言葉です。それは主が、その直前、ヨハネ福音書18:37b「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」そう言われたことに対するピラトの精一杯の反応だったのです。「真理とは何か」、このピラトの問いとは、答えがどうしても欲しいというようなものではありませんでした。その心は、イエスよ、あなたは真理と言う、しかし真理がどうしたというのか、地球はそんなもので回ってはいない、この世は損得勘定の「都合」で回る。私はそうやって、属州ユダヤの第五代総督になるまで上り詰めることが出来たのだ。やっと手に入れたこの地位を揺るがぬ岩の上に立てなければならない。いつ貶められるか分からない権力の修羅場にあって、真理に生きる、それは自殺行為に等しい、そうピラトは深いため息とともに反論したかったのではないでしょうか。

 この受難週の記事を読み続け、都エルサレムには真理が欠けている、それが主の十字架が、エルサレムに立ったその理由だと思わないわけにはいきません。

 18:28には、主イエスを捕らえた祭司長やファリサイ派は「自分では官邸に入らなかった」とあります。どうしてかと言うと、異邦人の家は汚れている、そう律法が定めているからです。もしローマの総督官邸に入るとユダヤ人もその汚れに感染する、すると今日行われる過越祭の食事をすることが出来なくなります。そのためにローマ総督ピラトの方が一々、官邸から出て来なければならないのです。18:29 「そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。」ユダヤ人から18:30「悪いことをしたにきまっているだろう」と言われ、それならユダヤの律法で裁けばいいではないと言った。すると彼らはローマに支配されている我々には死刑執行権がないではないか、そう言い返される。それでピラトはまた官邸にすごすごと戻らざるを得ないのです。そこで主イエスを尋問するのですが、その時、総督の最大の関心は、むろん律法違反ではありません。それが18:33「お前がユダヤ人の王なのか」という問いに表れています。それは当時ユダヤに頻繁に現れていた、ローマ支配に反抗する政治的メシア運動の首謀者なのかという意味です。それならイエスをピラトはローマの名をもって処刑出来る、そして総督にとってはどうでもいい律法違反ですが、とにかく死刑にすることでユダヤ人の要求にも応えることが出来て、彼らの不満を宥めることが出来るのです。ところが主は答えます。18:36「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。」これを聞いてピラトは、ああこれは暴力的反乱分子ではない、ローマが死刑にする理由はないという判断となりました。それで今朝は読みませんでしたが、18:38b、また官邸から外のユダヤ人の所に出て行きます。そしてイエスは無罪だと、過越祭の恩赦で釈放することにしようではないかと提案したところ、ユダヤ人からイエスではなく「バラバ」と大声で言い返される。この物語では最後にその要求をピラトは飲みます。無罪か有罪かという裁判における最重要の真理問題を彼は捨てました。それは属領の治安維持を何よりも優先しなければならない自分の総督職に、傷をつけないための政治的都合だったのです。彼にとって、このご都合主義こそ、自らの権力を盤石とする賢さでありました。しかし彼がそれほど保持したいとしがみ付く地位、身分、権力とは、御用聞きのように、官邸内と外を、行ったり来たりせねばならないようなものでしかないのです。それは、天の神から見れば笑われるような小さく滑稽なものでしかない。詩編詩人は2編で、この総督官邸の主イエスを預言するかのようにして歌っています。
 「なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか/…天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り/…怒って、彼らに宣言される。/「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」

 一方、宗教的権力者のユダヤ人たちもまた、ご都合主義者でしかないことが暴露されます。彼らは無実のイエスを処刑する、その不真実この上ない汚れに手を染めます。それでいて異邦人の官邸に足を踏み入れないということにはひどく拘り、自らを律法遵守者、浄いイスラエルと誇ります。そこに真理、道理の筋道は通るか、そう福音書は問うているのです。またユダヤ権力の頂点に君臨する大祭司カイアファも、モーセの「十戒」の中の「殺してはならない」、それを破ろうとしています。18:14「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。」そうあります。しかも福音書は、この主イエスこそ、その十戒授受と同時代にモーセが聞いた御名「わたしはある、わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)、そのお名前を持つ神御自身であると語ります。大祭司は自らが依って立つべき十戒を守らないだけでなく、その十戒を与えた神ご自身を殺そうとしている。何故ならそれが「好都合」だからと言ってのけた。それでユダヤの「民」が守られると言いますが、実は大祭司もピラトと同様に、自分の権力基盤を守るといういうことが、本心だったのではないでしょうか。そうであれば、彼らは等しく、18:36「世に属している」者です。ローマ官邸への出入りがどうであっても、天の神の眼差しでは、ユダヤ人もローマ人も等しく「世の人」同族に過ぎません。その不真実の世、その都の中で、主イエスのみは、18:37b「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」そう全く異質なお方として、独り立っておられるのです。

 鈴木正久牧師は、52年前の1968年3月3日、受難節第一主日、そこで今朝私たちに与えられヨハネ福音書18:28以下の説教を語られました。それはピラトの問い「真理とはなにか」、その一つの答えであります。「旧約聖書のヘブライ語の「真理」とは、私どもが祈りの後で言う「アーメン」という言葉と同じです。固いという意味です。ですからものを支えることが出来る。へなへなしているものは真理ではない。ギリシア語では「アレーセイア」という言葉が使われたのですが、「隠れていない」という意味で、完全に目の前にある事実ということです。ですからこれも漠然としたものではなく、自分の足許で、くっきりと、自分を支えてくれる事実、状態、これが新約の「真理」ということであって、ヘブライ語の「固い」「しっかりしている」「それが私を支えてくれる」と、中味は同じことになります。」そう教えて下さいました。先生が常に意識しておられた「確かさ」の問題がここで言い換えられていることに気付くのではないでしょうか。

 しかし大祭司カイアファやピラトという権力者は、岩の上の確かさを得る、そのやり方としては、真理ではないと、都合と言った、それが賢いと。果たしてそうかということです。

 ここで私たちは、主がマタイ福音書で言われた譬を思い出すのではないでしょうか。マタイ7:24~27(新12頁)「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。/雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。/わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。/雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

 先日、NHKBSの番組「戦慄の記録 インパール」が再放送されていたので、私は改めて鑑賞しました。これはご承知のように、1944(S19)年 3月、ビルマ(ミャンマー)からイギリス軍の拠点があったインド北東部のインパールの攻略を目指す日本軍の作戦でした。しかし歴史的敗北を喫したのです。司令官は牟田口廉也中将でした。この牟田口に仕えたのは、陸軍学校を卒業したばかりの青年少尉・斉藤博圀でした。彼は、インパール作戦の貴重な資料となる日誌を残したのです。行軍する日本兵士の前には、二千メート級の山岳地帯が待ち受けており、それだけで消耗しきった日本軍は、イギリス軍の合理的攻撃の前に壊滅しました。その中で、斉藤はこういう記録を残したのです。「ある参謀が、牟田口に質問する。どのくらいの損害が出れば、インパールを落とすことが出来るのか」と。牟田口は五千人と言った。斉藤は最初敵を五千人殺せばという意味だと思った。ところがそうではなく、それは味方の師団で五千人の損害が出るということだったのです。部下五千人が死ぬくらいで勝てるなら「好都合」だと中将は言ってのけたのです。この言葉は、からくも生き残った斉藤にとって、生涯の心の傷となったと番組は描いていました。

 「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」(ヨハネ18:14a)。

 こうカイアファが言ったことも「都合」です。ある牧師はこの「都合」という言葉を巡って、世の権力者だけのこととせず、私たちの問題でもあると言います。「カイアファはいつも都合に生きる。こうした方が都合がいいと。私たちもうっかりすると、今ここでキリスト者である方が都合がいいと思っている間だけ、信仰を持っているのではないか。都合が悪くなったら、さっさと止める。そういう信仰に生きていないだろうか。だから18:12bのように、イエスを縛るのだ。自分たちの都合のよいことだけを言ってもらい、いつも自分たちを喜ばせることだけを、聖書に語らせる。そこだけ開く。イエスが真理を自由に語り出すことはさせない。そうしたら、自分たちの罪が問われるからです。ご都合主義の便利な生き方の変更を迫られる、それをさせないために、私たちは神の言葉を縛る。」そういう意味のことを言っています。恐ろしい話です。私たちは時にそうなる。聖書を読んでいても、説教を聞いていても、そうなる。都合の良いところは喜んで聞き、話が難しくなってくると耳を塞ぎ、逆に人間の方が、それは不都合だと、神をさえ裁き始める、それはもう一度主を十字架につけることです。

 鈴木正久牧師は、先ほど紹介した説教の前週、1968年2月25日に、私たちも先週読んだ箇所、ヨハネ福音書18:15以下の説教も残されました。その題は18:20の主の言葉から取られた「公然と語る」です。「私は戦争中、夜、自分が牧師をしていた教会、コンクリートで造った5階建ての大きな建物でしたが、灯が消えているその教会の前に立った時のことを、ふっと思い出します。ああいう戦争で、キリスト者が憎まれるようになる前には、その人々の集まり方というのは、讃美歌を歌うのがおもしろい。教会というのは下品ではない、ある程度品がよい、少しは役に立ちそうなことも教えてくれる、しかし突き詰めて言えば遊び場だ、遊び場といっちゃいけないのであれば、社交場だ、文化的社交場だ、そんな具合で集まっていた気配があった。しかし、ああいう時代になると、1人去り2人去りではなく、10人去り、20人去り、束になって来なくなっていきました。私が牧師になって赴任した時には、50人も集まらないようになっておりましたが、戦争が激しくなる頃にはもう、2人、3人、他は誰も来ない。そうして、教会は空家のようになった。」そう言うのです。ここに人数として現れている姿も、人間のご都合主義の問題です。都合が良ければ来る、都合が悪くなれば礼拝をしないのです。そっちの方がこのご時世、確かに生きられると思ったのでしょうか。
 18:36主の言われる「世」、そこの行動原理「ご都合主義」のただ中で、ただお独り、真理に立って主は言われるのです。18:36a「わたしの国は、この世には属していない。」そして続けます。18:37b「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」主イエスにとって、その真理に立つことこそ、このエルサレムで、ご自分の都合ではなく、ただ父なる神の声を聞いて、18:32「死を遂げる」ことでありました。

 もう一箇所先ほど朗読したのは、エレミヤ5:1です。「エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。」神はこう約束して下さった。一人でも、正義と真実に生きる者がいれば、わたしはエルサレムを赦す。神の国の王イエスが、十字架につく真理の道を選ばれたのは、ひとえに赦しのためでした。そこで不思議なことが起こる。18:14「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと」とカイアファは言った。その通りになった。真理に立つ一人が夥しいご都合主義の人々に代わって死ぬ。カイアファやピラトに代わって死ぬ。そこに罪人と都を救う道が切り開かれたのです。神の真理は、そういうやり方で人間のご都合主義の罪に勝つ。ご都合主義に生きる私たち全人類の罪の赦しと救済が十字架の真理から噴出するからであります。

 主が私たちに代わって真理に殉じて下さった。それに感謝する者が皆、真理に属する人となり、真理を聞く者になる(18:37b)のです。そこにこそ、真の確かな岩盤が生まれたのです。インパール作戦の終わり、敗走する日本兵が飢餓の中で足をとられて倒れていったのは、その雨期のジャングル、その雨の恐るべき泥濘(ぬかるみ)でした。帝国支配者の都合によって建てられた大日本帝国とは、砂の上の家であって、主が言われた通り、雨が降り、川があふれて、その家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかったのです。真理などどうでもいいと、「都合」こそ岩盤である、などということは実はなかったのです。「固い」という意味を持つのは「真理」の方であって、「都合」というのは、鈴木先生の言い方で言えば「へなへな」なものです。この真理に立つ時のみ、雨が降り川があふれても流されない、揺るぎない確かさを得るのです。その神の言葉の真理に耳を開き、その岩の上に立つことを定めた、私たちの人生と教会の確かさを思います。

祈りましょう。 主なる神様、直ぐご都合主義的道を選び、返って泥濘に足をすくわれる私たちの罪を、唯一真理の岩に立たれた御子の贖い故に赦して下さい、そして、私たちもまた、逆巻く波にも揺るがない、主の真理の岩の上へと導いて下さい、そして倒れない人生と祖国を打ち立てる決心を、改めてこの八月、私たちに与えて下さい。

(この後、発声は出来ないが、皆で心の中で「讃美歌21」227を歌った。「主の真理は 岩のごとし。逆巻く波にも 揺るぎもなし。」と)


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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