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2020年8月2日 主日朝礼拝説教「私たちは一体となる」

2020年8月2日 主日朝礼拝説教「私たちは一体となる」

https://www.youtube.com/watch?v=3D5RT8C161s=1s

創世記2:21~24(旧3頁) ヨハネ福音書17:20~26

説教者 山本裕司 牧師

「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:24)

「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。/わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(ヨハネ福音書17:22b~23)

 今朝、私たちに与えられた御言葉は、ヨハネ福音書17章全体に納められた、主イエスの長い祈りの終わりの箇所です。この後、主イエスは世を去ります。そこに弟子たちが残されるのです。その別離の時、最後の晩餐の終わりに、主は心を尽くして祈って下さいました。
 特にこの17:20以下の御言葉は、古来「昇天日」に読まれる習わしがありました。主イエスは御復活後40日して、天に昇られます。その日の記念が昇天日です。期節的には、この17章は、まだ受難週の記事ですが、何故この祈りが、昇天日礼拝の御言葉として選ばれるようになったのでしょうか。それは代々の教会が、主イエスは天で、今もこの祈りを祈って下さっている、そう深い喜びの中で感じたからに違いありません。

 17:20~21a「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。/父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」

 最初に「彼らのためだけでなく」とあります。彼らとは、既に去ったユダを除いた直弟子たちのことです。この11人の弟子がペンテコステ後伝道を始めます。その「彼らの言葉によって私(イエス)を信じる(ようになった)人々のためにもお願いします」、そういう意味を主は祈って下さったのです。この福音書を編纂したヨハネ教会は、初代信徒が既に召され、キリスト者第二世代、第三世代によって構成されていたに違いありません。教会はそのように世代を重ねて終末まで生き続けますが、主は、いつの世代のためにも、天で祈り続けて下さっているのです。

 西片町教会も今、幼い頃、ご両親と共に教会学校に来るようになり、やがて洗礼を受け、大学生になって、今、教会学校の教師、あるいはヘルパーになってくれる青年たちがいます。一時、青年会も活動停止になりましたが、今、青年たちが自力で会を復興させて交流と学びを深めています。その若者たちが次の世代として、西片町教会を支え、牧師と共に伝道をして、新たに17:20「イエス様を信じる人々」をこの礼拝堂の席に集めることでしょう。何と嬉しいことでしょうか。しかし教会を守ることことは大事業です。半世紀以上に亘ってこの教会を守ってきた今ここにおられる大先輩たちは等しく、その重荷を負ってこられた方々ばかりです。苦しいこともあったのです。第二、第三世代のヨハネ教会メンバーも、迫害に抗して礼拝を文字通り死守する戦いを続けたのです。しかし彼らはユダのように教会から去らなかった。どうしてそんな立派なことが出来たのでしょうか。それは、本人たちの信仰の力であることは確かですが、それ以上に、天におられる主イエスが、後の世代のためにも祈って下さったからです。17:20「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」この主の祈りの中に、何百世代後の私たち一人一人も覚えられています。何と力強いことでしょうか。

 今朝の主の祈りの主題は、17:21「一つにして下さい」という願いだと思います。ここだけでない、17:22「彼らも一つになるためです。」、17:23「彼らが完全に一つになるためです。」そう繰り返し祈られます。
 初代の弟子の中から既にユダは去ったと言いましたが、それだけで済みませんでした。主が十字架につかれた時、皆バラバラになって散って行ったのです。そして、これを後の時代に書いているヨハネ教会が、同じような試練の中で、分裂の危機にありました。コロナのような外からの試練だけであれば未だ耐えることが出来るかもしれません。しかし内部が崩れる、そういう経験を私たちはします。その時、家庭も教会も社会も本当の受難が始まるのです。だからこそ、主イエスは、どこもかしこも分裂させる罪深い私たちのために、今も天で祈って下さっているのです。「一つにしてください」(17:21)と。

 時に、私たちは祈りを無力なものと思います。時々、私たちが陥るように、神様にお願いをして、それで終わりということになってしまう。しかし、それはこの神の子の祈りはそうではありません。17:24a「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」注解者が指摘するのは、17:24a「共におらせてください。」*1これまでの祈願をまとめる形で、主がここで用いられた言葉は、父に全部お任せ、という願いではないそうです。もっと能動的な含蓄があって、「わたしのいる所に共におらせることにいたします」あるいは、「それを私は志します」という決意が含まれている言葉だそうです。つまりここで御子は、父にお願いしたのであれば、その祈りの実現のために、御自分もまた働くことを覚悟しておられる、そういう神の子の決意を表す言葉がここで使われたのです。御子にとって、祈りと行動はワンセットなのです。この祈りのあり方を、私たちも見倣うべき祈りのあり方だと思います。


*1 ヨハネ17:9a「彼らのためにお願いします。」17:15a「わたしがお願いするのは…」、17:20b「…お願いします。」との祈願は「erwtaw」であり「請い願う」の意味。17:24a「共におらせてください。」この願いは、自らの意志を表す「thelo」(I wish)が用いられている。



 また、17:24b、ここで御子は「天地創造の前から」御自身は父から愛されていたと言われました。御子は父と共に天地創造をなさったお方です。ヨハネ福音書冒頭1:3「万物は言(イエス)によって成った。…」(新163頁)そうある通りです。ですから、この17章の祈りは、創造主その者のお方の祈りでもあるのです。だから、この祈り全体は、「人を一つに」私が造り直します、その意志的意味がここに込められている、そうであれば、これ程確かな祈りはありません。

  ここでの、主イエスのお言葉は、別れの言葉です。実際にこの後、主イエスはお一人で十字架へと進まれます。弟子たちは、皆バラバラになって逃げました。17:24、主イエスとも共におりませんでした。そうやって直ぐ空中分解する私たちの罪をよく承知して主は、もう一度主を中心とした一つなる交わりである共同体を創造するために、力ある祈りをここで捧げておられるのです。
 先ほどもう一箇所、創世記2章の神話も朗読しました。男と女が創造された時、創世記2:24、男は「女と結ばれ、二人は一体となる」そうあります。この創世記の言葉は、ヨハネ17:22b「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」この主の祈りの言葉を思い出させます。この人間同士の「一体」とは、神の内部における、父、子、御霊の「一体」に根拠をもっていると暗示されています。創世記1:27、人は「神にかたどって創造された」とありますが、その「神のかたち」とは何かと問われた時、バルトはそれは「三位一体」であると答えました。その「三位一体」の神に似せて、男と女に創造された、この男と女、その両者に2:7「命の息」が吹き込まれた時、人間もまた「霊(神)、男、女」の三位一体となる。もうバラバラではない、神と隣人と一つとなる、主イエスは、人間の堕落したバラバラの社会の中で、一致を祈り求められ、そしてそれをもう一度造り上げると言われたのです。

 17:21a「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」17:22b「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」どうやってこの祈りを実現して下さるのでしょうか。十字架におつきになってです。

 本日は教団の定める「平和聖日」ですが、有名な「終末時計」は今年2020年に、第2次大戦後最短の「100秒前」となりました。つまり大戦後、現在ほど核戦争による人類滅亡の危機が迫った時はないと、終末時計は時を刻んだと言うのです。そのような人類大分裂の危機的状況の中で、私たちはどうしたらいいのでしょうか。
 土戸清先生が取り上げておられたので、私も最近読んだ、大江健三郎さんの言葉に、どうしたらいいのか、その問いに答えるような、「『新しい人』になるほかない」というエッセーがあります。そこで作家は、若い人たちへのメッセージとして、「新しい人」を目指してもらいたいと書いています。そして彼は「新しい人」とはパウロの言葉ですと言って引用したのが、エフェソの信徒への手紙2:14(新354頁)以下です。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、/…キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて(新しい創造)平和を実現し、/十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

 そう引用して、大江さんは言います。「私は、なにより難しい対立のなかにある二つの間に、本当の和解をもたらす人として「新しい人」を思い描いているのです。それも、いま私らの生きている世界に和解を作り出す「新しい人(たち)」になることをめざして生き続けて行く人、さらに自分の子供やその次の世代にまで、「新しい人(たち)」のイメージを手渡し続けて、その実現の望みを失わない人のことを、私は思い描いています。「エフェソの信徒への手紙」は、キリストが十字架について死ぬことで、対立する二つ(パウロの問題としては、ユダヤ人と異邦人)を、自分の肉体をつうじて「新しい人」に作り上げ、本当の和解をもたらしたと書いてあるのです。私は、十字架の上で死なれた、そして「新しい人」となられたイエス・キリストがよみがえられたといういうこと、そして弟子たちに教えをひろめるように励まされたことを、人間の歴史でなによりも大切だと思っています。」そう、殆ど信仰告白と言ってよいことを書いておられます。

 ヨハネ福音書における主エイスが祈られたことこそ、私たちの教会が、この新しい人イエスに従って、平和を実現する新しい人への一歩を踏み出すことなのです。しかも繰り返し言います。主は、17:21「すべての人を一つにしてください。」ただそれを祈って終わりとしたのではありません。私たち人間が一つになるために、パウロの言葉で言えば、十字架を通して、両者を神と和解させ、敵意を滅ぼして下さったのです。大江さんは、そのような十字架の「新しい人イエス」に続いて、若者たちよ、「新しい人」になって欲しいと願うのです。

 ところが、大江さんはこうも付け足します。私は老人で、もう古い人で、「新しい人」にはなれません。そして私ら、この世界の古い人である大人たちは、人類すべてを死滅させる核兵器に頼って、地球の平和をたもてると思い込んでいるのです。そこで私はもう一度、若い皆さんに呼びかけます。敵意を滅ぼし、和解を達成する「新しい人」になって下さい。

 これをご自分の説教に引用している土戸清牧師は、知識人・大江健三郎が自分は老人で、もう新しい人にはなれないので、青年にお願いをする、そういう態度に怒っているように感じました。この大江さんのあり方は、あのニコデモそのものだと土戸先生は批判します。それはヨハネ福音書3:1以下(新167頁)ですが、夜、隠れてイエス様を訪ねた知識人・ニコデモは、主から3:3「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われた時、 3:4「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」そう言い返した時、主は、水と霊(洗礼を暗示)による新生を示唆しておられます。しかしニコデモは去って行ったようです。土戸牧師は大江さんが、ここまで、キリストの十字架と復活が、「人間の歴史でなにより大切に思っている」と告白しながら、教会に来て洗礼を受けないところに、日本人知識人の問題を感じると指摘されるのです。
 私は決して、大江健三郎が自分で言うほど、古い人であるとは思いません。一所懸命平和のために、反核運動に邁進されたのです。しかし土戸先生によれば、それは未だニコデモに留まっている、もう一歩、つまり主イエスを救い主と告白して、水と霊を受けて欲しい、その願いを込めて書いておられると思います。そうであれば、年取った私たちも、次世代の青年会に期待するのは未だ早い、老いた私たちこそが、もう一度、真の新しい人イエスの命の息を吹き入れて頂き、平和を作り出す「新しい人」に甦ることが求められているのです。

 ヨハネ17:21「すべての人を一つにしてください。」主はそう祈って、それを実現するために、18:1、「出て行かれた」、十字架の贖罪を成し遂げるためです。

 私は40年前、神学校の卒業論文で「贖罪論」を書きましたが、その最終学年のゼミの指導教官は、北森嘉蔵教授、佐藤敏夫教授、熊澤義宣教授という3人の偉大な神学者たちでした。一緒にそのクラスに参加していたのが、時々ここに説教をしに来てくれる、野村信先生、森本あんり先生ですが、それはともかく、「贖罪」を表す英語に「atonement」(アトーンメント)がありますが、そのゼミでそれは語源的にはどのような意味があるのかという話になり、3人の教授の間で意見が分かれました。それで次週、丁度私が発表の順番でしたので、大辞典で調べてきて、辞書には「at-one-ment」、つまり、元々「一つになること」という意味だと書いてありますと、と言ったところ、それを疑問視していたある教授から、私の発表の間違いを意地悪く指摘されて、酷い目にあったということを思い出しました。
 それはどうでもいいのですが、私たちが一つになるために、主イエスは祈っておしまいというのではなく、十字架について下さり、私たちの「罪の赦しの贖い」を完成して下さった。それが英語では、「at-one-ment」と書いて「贖罪」と読ませることになったのです。主が御自分の肉を切り裂かれてバラバラになる以外に、私たちが「一つになること」はなかったのです。和解、平和はなかったのです。その主の十字架の贖いを信じて、水と霊を受ける時、わたしたちもまた、新しい人への一歩を踏み出すために、この祈りの場を、この夏も出て行くことが出来るのです。

祈りましょう。 主なる父なる神様、あなたとも隣人とも環境とも分断された孤独な私たちを、もう一度、一つなる交わりの中に戻して下さるために、御子の御受難があったことを覚え、心から感謝します。分裂に分裂を重ね、最後は、この地球そのものが、バラバラになってしまうのではいかと思えるほどの危機が迫っていますが、主よ、今こそ、私たちを、御子に従う新しい人に甦らせて下さり、平和を作り出す幸いの道を歩み始めることが出来ますように、命の息をもう一度吹き込んで下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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