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2020年7月5日 主日朝礼拝説教「悲しみが喜びに変わる」

2020年7月5日 主日朝礼拝説教「悲しみが喜びに変わる」

https://www.youtube.com/watch?v=WBvomcaC0NE=1s

イザヤ書49:14~17(旧1143頁) ヨハネ福音書16:16~24(新200頁)

説教者 山本裕司 牧師

「あなたを破壊した者は速やかに来たが/あなたを建てる者は更に速やかに来る。あなたを廃虚とした者はあなたを去る。」(イザヤ書40:17)

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(ヨハネ福音書16:16)

 愛する兄姉姉妹たちの前で、3ヶ月振りにこの会堂に響き渡ったこの主の肉声は、まさにこの礼拝のために主イエスが備えて下さった御言葉であると確信します。16:16「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」私たちもこの3ヶ月間、この礼拝堂において、互いを見ることが叶いませんでした。教会は皆が一堂に会する中で、主と会う、「共に主を見る」場所です。それが失われると、私たちの心、それは「霊」と言うほうが正確ですが、「霊」が飢餓状態となるのです。そこで、私たちの教会もこの間、計14回の主日礼拝をネットで放送して、その飢え渇きに少しでも耐えようとしてきました。しかしそれを聞いて下さった複数の兄姉姉妹から、その「欠け」を指摘されたのです。礼拝は神を見る(会う)と同時に隣人を見る(会う)所だからです。神社のお参りなら一人で可能です。しかし私たちは主イエスをお参りする時、集まりを作ります。礼拝において、神を愛し隣人を愛する、この主イエスが教えて下さった最も大切な掟を果たそうとするためです。

 しかし、コロナがあろうとなかろうと、今朝もこの礼拝堂に来ることが出来ない兄姉姉妹たちがおられます。そのために、この礼拝録音を今日の夕方、放送する予定です。これを録音で聞いて下さっている方も、今朝どんなにか礼拝堂に集まりたいと願っておられたことでしょうか。しかし、その悲しみの中にある兄姉姉妹たちにも等しく、主は今朝の御言葉をもって励まして下さる、そう確信します。16:22「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」と。いつこんな喜びが与えられるのでしょうか。主はここで「しばらくすると」と約束されました。この言葉がここで7度繰り返されます。16:16「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」いきなりもう2回出て来ます。それに対してこの御言葉をどうしても理解出来ない弟子たちが互いに問い合いました。16:17~18「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。/また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。」そして最後に、主イエスがその弟子たちの疑問に少しでも答えようとされて、そのお言葉を繰り返されるのです。16:19「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。」
 このように「しばらくすると」という一語が、物語としてはその文学的美しさを壊すほど繰り返されるのです。その福音書編纂者の心とは、「しばらくすると」この一語に、神の福音が凝縮している、それを読者に感じさせるためであるに違いありません。文学より福音です。
 
 この「しばらくすると」という言葉のギリシア語の原文は「ミクロス」です。これがそのまま長さの単位となって「ミクロン」となりますが、1ミクロンは百万分の一㍍のことです。とても小さな単位です。そのまま「ミクロ」とか「マイクロ」と発音され、最も微少なものを表す言葉になりました。マルコ福音書には有名なからし種の譬があります。4:31「土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが…」と主は言われた。このからし種の小ささを表す時に、この「ミクロス」の比較級が使われました。今朝のヨハネ福音書ではそれが「しばらくすると」と訳されているのです。何が小さいのでしょうか。「時が小さい」のです。

 16:16a「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」そう主がお語りになっている「時」は、受難週の「洗足木曜日」です。明日の金曜日、主は十字架につけられ墓に納められ、御顔を拝見することは不可能になります。それまでの期間が「ミクロス」です。別れまでの時は余りも短いと言われるのです。しかし話はそれで話は終わりません。16:16b「またしばらくすると、わたしを見るようになる。」その後、やはり「ミクロス」で、また私を見るようになる、そう主は約束して下さいました。
 この福音書を編纂しているヨハネ教会も「世」から迫害を受けていました。そして牧師や長老が、まさに「ミクロス」、あっという間に捕らえられて、何年も裁判が続いたと言うのでもない、裁判もミクロスであれば、処刑もミクロスであった。そうやって突然、長老の柔和なお顔を永遠に見られなくなった、そういう経験をしたと思います。20a「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。」そうやって、ヨハネ教会は永遠の夜の中に、飲まれる、そう誰もが予感しました。しかしその中で、ヨハネ教会は自分たちだけに伝承されていた主イエスの御言葉をここに記すのです。そこに光を見出すためにです。

 新共同訳聖書には「小見出し」があります。今朝の箇所の小見出しは良い言葉です。「悲しみが喜びに変わる」です。ところで、福音書においては、よくこの小見出しの後に(括弧)があります。そこに、他の福音書の「章節」が書かれてあります。それは、他の福音書にも似た物語、御言葉があるという意味です。今読んでいるのは、最後の晩餐で、主が弟子たちに長い決別の御言葉を語っておられる箇所です。それは14:1(新196頁)から17:26(新203頁)、新共同訳でも8頁もの長さです。そのいずれの小見出しの所にも(括弧)はありません。つまりこの御言葉は「特別に厳しい試練」の中にあるヨハネ教会だけが保存してきた伝承なのです。主は、迫害によって礼拝も思うに任せない私たちヨハネ教会のために、予め語って下さった、宝の言葉として、ここに教会は記したのです。それだけに、今コロナ禍のただ中で、やはり礼拝を思うに任せない中で、それでも何とか聞き続けているこの御言葉は、毎主日、私たちを特別に励ます御言葉となったと思います。イエスが見えない、兄姉姉妹が見えない、その悲しみが「しばらくすれば」来る、しかし、それで終わりではない、もう一度、ミクロスです。あっという間に、私たちはそれを超える愛の出会いを回復する。「しばらくすれば」主を見る、連動して兄姉姉妹たちも互いを見る、つまり教会が再建される。長く待たせはしない、涙と悲しみの時は短い、だからあなたたちも耐えることが出来る。そう主は励まして下さるのです。16:20「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と。

 その例として、主イエスは21節でこう言われます。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」「産みの苦しみ」という言葉があります。しかし、子どもが産まれると、その大きな喜びのために、臨月の痛みの日々を忘れてしまう、陣痛の期間は「ミクロス」に過ぎなかったと思う、「母」とはそう言うものだと言われるのです。こういう言葉を読む時思うのは、主イエスは男だったのに、何故母の気持ちを知っているのだろうと思います。それはもしかしたら、主イエスも子を産んだことがおありだからではないでしょうか。信仰者という「神の子」を主は産んで下さいました。それを産み出す時、まさに産みの苦しみを主はされたのです。それは女性が子を産む、その何百倍、何千倍の産みの苦しみでした。私たち人間は元々洗礼者ヨハネが呼んだように「蝮の子」(マタイ3:7)です。最初の人間を禁断の木の実へと誘惑した「蛇の子」です。その私たちを主は変えて下さる、神の子として産み直して下さる。そのために主は十字架で産みの苦しみを経験されました。その主イエスが「はっきり言って」下さる。主がこの上なく大切なことを言われる時に用いる、16:20a「アーメン、アーメン」がここに出て来ます。そして続けられる。16:20a「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と。それは「蛇の子」が「神の子」に変わる、その喜びもここに含まれると言って良い喜びです。この「変わる」という言葉は、ギリシア語では普通「なる」と訳される言葉でヨハネ福音書が多く用います。有名な用い方としては、1:14で、「言葉は肉となる」とありますが、その「なる」と同じ言葉です。強い言葉です。これは天気のように、くるくる変わり易いものではないと言いたいのです。「言が肉となった」、それと同様に不可逆的なことが起こった。悲しみが喜びになった。一度それがなったなら、もう後戻りすることはない、それほどの変化なのです。ある学者の言葉で言えば、このヨハネが用いる「なる」ということの意味は、それは神の永遠の創造がなされる、そういう意味だと言うのです。そうであれば、この16:20bは「悲しみが喜びに創造し直される」、主イエスが言われたのはそういう確かさなのです。

 「創造」という言葉を使いました。創世記1:1には、この受難の夜の弟子たち、あるいはヨハネ教会が経験している、それに似た悲しみの心をこう表現します。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、虚無の海が全宇宙を充たすと。ヨハネ福音書の言葉で言えば「悲嘆に暮れる」(16:20)です。それが創世記記者の見ている「虚無的世界」です。しかし「しばらくすれば」と「ミクロス」と、ここでも言ってよいのです。「直ぐ」創造主なる神は、光を創造される、大空を創造される、海を制御されて立つ瀬を造って下さる、生命を創造して下さる。ヨハネ福音書は、16:23、今朝の御言葉の中で主の二度目の「はっきり言っておく」(アーメン、アーメン)が表れます。そこで言われたことは、御子イエスの御名によって願うならば、父はそれを叶えて下さるということです。言い換えれば、御子イエスと父なる神は「一つ」であるという意味です。やがて「三位一体」の教義となる父子の「一体性」です。それが「アーメン、アーメン」と断言されました。父なる神とは天地創造の神です。ミクロスで光を創造し闇を駆逐してしまうお方です。その創造主の力を御子は持っていると言われているのです。だから主イエスは十字架の産みの苦しみをもって、私たちを神の子に創造して下さる、その力の神なのです。だから、16:24「あなたがたは喜びで満たされる」、16:20bは「悲しみが喜びになる」、悲しみしかない所に、喜びを創造して下さる。それは空約束ではない。確実だと「アーメン」だと主は言われるのです。

 だから「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(16:22b)。どんな不義の力であっても、この主イエスの創造による喜びを、もう取り去ることは出来ないです。それ程確かな喜びが来る、「ミクロス」でです。遠い終末の日まで待つ必要なはい。この「しばらくすると」「ミクロス」この言葉に、主イエスの「現在的終末論」が表れていると神学者は指摘します。かつて「ラザロの復活物語」を読みました。11:23(新189頁)、ラザロの墓前で、主イエスが「あなたの兄弟は復活する」と言われた、それに対してマルタは、11:24「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言い返しました。遠い未来に復活する、そんなことはユダヤ会堂の教えの常識ではないですか、それがどうしたのですか、もうそんな何万年も先の終末の話はいいですとマルタは言った。それに対して、主は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」そう言われて、ラザロを「今ここで」つまり「ミクロス」で甦らせたのです。それを学者は、「現在的終末論」と呼ぶのです。主イエスにおいては「今ここで」救いが実現する、「直ちに」命の創造が起こる。それがヨハネ教会が知った主イエスの福音なのだと言うのです。16章も同じです。救いは何万年も先の未来に来ると、主は言われません。「今、直ぐ来る」と約束して下さるのです。16:16「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
 
 主は確かにミクロスで十字架につかれる。しかしそれは復活と聖霊降臨によって、ミクロスで、主イエスを見る、その喜びのための産みの苦しみに過ぎないと。母が子を産んだ歓喜のために、陣痛の時を忘れてしまうほど、それが「ミクロス」になってしまうように。今、私たちはコロナウイルスによってもたらされる悲しみの中います。しかしここでも「ミクロス」です。16:20b「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」この福音をイザヤもこう預言しました。「あなたを破壊した者は速やかに来たが/あなたを建てる者は更に速やかに来る」(イザヤ19:17)。この約束の言葉、「アーメン、アーメン」の言葉を、今朝、礼拝堂であるいは放送で、共に聞くことが出来た、私たちの幸いを思います。

祈りましょう。 主イエス・キリストの父なる神様、私たちは、今、このコロナウイルスによる苦しみが、いつまで続くのですか、と呻いています。明日には解決するかと期待しつつ、既に、何ヶ月も時が過ぎ、また感染者が増加してきました。悲しみ日々は余りにも長い、そのように感じる私たちに、あなたは、「千日にもまさる」主の庭の一日を与えて下さった恵みに心から感謝します。この礼拝を献げた者だけが知る大きな喜びに支えられて、この試練に耐えることが出来ますように、会堂にいるいないを問わず、全ての兄姉姉妹たちに、聖霊を送って下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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