2020年7月26日 主日朝礼拝説教「暗夜の月光」
https://www.youtube.com/watch?v=9f-pH-KNUjA&feature=1s
詩編139:7~12 ヨハネ福音書17:6~19
説教 山本裕司 牧師
「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(ヨハネ福音書17:11)
ヨハネ福音書における受難週、最後の晩餐での主イエスの御言葉を、私たちは13章以来ずっと読み続けてきました。主イエスが弟子たちと別れなければならない、その十字架の死はもう目の前に迫っていました。それまでは、17:12「わたしは彼らと一緒にいる間、…彼らを守りました。」そうあるように、いつも自分たちを保護して下さった主との別れは、弟子たちにとって大きな試練でした。だから主はこの夜、一所懸命になって、長い告別説教を語られ、世に残される(17:11)弟子たちを励まして下さったのです。その御言葉を私たち西片町教会が読み続けた時も、対面礼拝を守ることが出来ない試練の日々においてでした。そこで私たちも受難週の夜の弟子たち同様、その心は暗かったのです。主はそのように、いつの時代でも、直ぐこの世の夜の虜になる主の群れを励ますために、御言葉を語って下さるのです。その福音をここで再度あげればきりがありませんが、目に飛び込んできた言葉だけでも、例えば、14:1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」あるいは、14:18「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」それから、14:27「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。…心を騒がせるな。おびえるな。」どうしてこんなに長く計4章、新共同訳で7頁も用いて、言葉を尽くして語って下さるのか、その理由を主は言われました。16:1「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。」また今朝の祈りで言えば、17:13b「これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」これらを目的に、主は一所懸命御言葉の説教を語って下さいました。だからこの晩餐の説教、13章から16章の計「4章」で、もう十分ではないかと普通は思うのではないでしょうか。またここだけでなくて、主イエスの3年に亘る懇切なるご指導によって、弟子たちは主から17:6「御言葉を守りました」と言って頂けるほど成長したのです。17:8「なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り…信じたからです。」そう父に祈りをもって報告しておられるのです。イエス様は元々天の父のみもとにおられました。しかし、私たちの救いのために、父がこの世に派遣された神の子であられる、そのような後の時代の「三位一体」の教義となる真理を、弟子たちは、一度は信じた、知った、そう認めて下さった。しかしそれでも未だ人間は弱かったのです。その弱さが、この後の金曜日に、弟子たちがバラバラに散っていく姿にも、その後、教会二千年の多くの悲劇的分裂の歴史でも、露呈してしまうのでした。
だから、主イエスは説教だけで話を終えられなかったのです。この17章で、晩餐を閉じるに当たり、主は、17:1「天を仰いで」父に祈って下さったのです。私たちにも説教後に祈る習慣があります。また牧会において、牧師はやはり来談者を励ましますが、それで終わりません。最後は祈ります。そこで今一所懸命話し合った解決への道が本当に開かれるように、天の父が現実に働いて下さることを願って祈ります。神こそ私たちの問題を解決して下さる唯一のお方だからです。
主イエスは、17:11「わたしはみもとに参ります」とも祈られましたが、このヨハネ福音書を書いたヨハネ教会は、主が御業を成し遂げられて、天へお帰りになった後、半世紀後に誕生しました。そのヨハネ教会を創立した信仰者とは、元々属していた、ユダヤ会堂から異端として追放されたユダヤ人たちです。その追放の最大の理由が、今朝の主の祈りに暗示されています。17:10b「わたしは彼らによって栄光を受けました。」私たちは礼拝において、神の栄光を賛美するのです。ユダヤ会堂は神だけに栄光を帰しました。しかし弟子たちも、会堂を出たヨハネ教会も、もはや父なる神だけでない、御子イエスを神と信じ、その御子の栄光をも一緒に褒め称えるようになったのです。それがユダヤ会堂を激怒させた。17:14「世は彼らを憎みました。」そう主が祈られたように、その受難週の憎しみの爆発と、半世紀後のヨハネ教会に及んだ迫害を二重写しにしながら、この福音書を綴られていると言われています。
ですから御受難の50年後に、ヨハネ教会がこの17章の主の祈りを編纂した時、「ああ、主イエスは、まさに私たちヨハネ教会のためにも祈って下さったのだ」、そう確信したに違いありません。もう天にお帰りになったイエス様を、この後の弟子たち同様、ヨハネ教会もまた肉眼で見ることは出来ません。そこでただ、17:6「御言葉を守り」、御子イエスを、17:8「知り、信じ」て生きたのです。直接、17:12にあるように、もう目に見える地上のイエスの守り、保護を受けることは出来なくなっているのです。平穏な時には、教会は自分たちで説き明かす説教だけで耐えられたかもしれない。しかし迫害の試練の中ではもうそれだけでは間に合わなくなったのです。その試練の中で教会は、主が、告別説教の最初に、弟子たちに求められた「新しい掟・互いに愛し合う」(13:34)こと、それが守れなくなったと推測されます。愛し合うどころか、互いに疑心暗鬼になっていたかもしれません。世の教会は試練に遭うとそうなることがあります。強いストレスを受けると、これまでは隠されてきた信徒たちの夜の心が露わになるからに違いありませ。教会から愛が失われる時、受難週のユダのように裏切る者が現れる。ペトロのように、お前など知らない、と互いに否認し合うようになったかもしれない。しかしその時、私たち教会の民が思い出さなくてはならないのは、繰り返し言います。天で御子が、17:11「わたしたちのように、彼らも一つに」して下さいと、父に祈っておられることです。
父と子が一つであられる、その神の一体としての相似形として、教会員も一つとなれるようにと御子は祈って下さっているのです。父と御子が深い愛によって結ばれている、それと同様に、教会員は互いに愛し合うことによって「一つ」となることが出来るように、主は祈って下さっているのです。この主の祈りを忘れると、教会は、悪霊が乗り移った豚の群れが湖に雪崩れ込んだように(マルコ5:13)、疑いの夜の海で溺死するかもしれません。本当に恐ろしいことです。コロナ禍の中で、何度も言われたことは、ウイルスよりもっと恐いのは人間であるという言葉です。教会にとっても、試練よりも恐いものは、試練に刺激されて首をもたげる私たちの内なる悪霊なのです。一度は、先にも言いました、17:6「御言葉を守った」、17:8、真理を「知り、信じた」のです。しかし悪霊という疫病に感染すると、人は愛よりも憎しみを、信仰より不信を、一致より分裂を喜ぶ夜の心となる。そのような滅びに瀕する教会のために、主は今も、天で祈り続けて下さっている。もう一度引用します。17:11「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」この神の子の祈りが天で献げられている、それを私たちは決して忘れてはなりません。
そこでヨハネ教会長老が確信していることは、主イエスがもう大昔に死んでしまった存在ではない、ということです。「わたしはある」とのモーセ以来の神の「御名」をお持ちのイエスは、今、天の父の右に永遠に「ある」ということ、生きて働いておられるということです。「わたしはある」(8:24)、その「御名によって彼ら(教会)を守ってください」(17:11)と祈って下さるのです。そうやって私たちをみなしごにしないと、バラバラにしないと誓って下さるのです。天国で涼しげに言われたのでもない、17:19「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。」そう祈っていて下さる。直ぐ悪霊の虜になる私たちの罪の赦しのために、もう一度十字架について下さる、それ程のお気持ちで、世に残された教会の試練を見ていて下さり、教会員一人一人の信仰を守るために、御自身の命を献げて下さる、御自身の愛の息吹、聖霊を送って下さり、私たちの心に吹き込んで下さる、そうやって、夜の心、悪霊を吹き飛ばして下さる。それが現実となるように、御子は今も天で、もしかしたらゲツセマネでそうであられたように、血のような汗を流して、父にすがりつくようにして祈っていて下さるのではなないでしょうか。16:23b、そして神の子の祈りを、父は必ず叶えて下さるに違いないのです。
17:9a「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。」そうも祈って下さる。3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」のに、ここでは御子は何故か、「世のためではなく」とまで言って下さった、他ならない弟子や教会のために集中して、御子が祈って下さる、その事実を本当に知った時、教会は強くなるのです。私たちは、友達が自分のために祈っている、それを知る時強くなります。まして御子イエスが祈って下さっているのです。「その他大勢」として祈って下さったのでもありません。私は、今は世のために祈らない、教会のために祈る、そう名指しで祈って下さる、それに力付けられない信仰者はいない、そう思う。17:15「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」そして言うまでもありません。12弟子だけでない、ヨハネ教会だけでもない、この祈りは、今、コロナ禍など、この世の試練の戦いの中にある私たち西片町教会のために、主が天で祈って下さっている、何を疑ってもこれだけは疑わず信じることが出来た時、私たちはどんなに暗い夜も、光を見ることが出来る、そう確信します。
私は先週、マーティン・ルーサー・キング牧師の「海辺での悪の死」という説教を読みました。これはイスラエルのエジプト脱出の物語の説教です。神の力によって、海を渡ることが出来たイスラエルは、振り返ると、エジプト人が海辺で死んでいるのを見るのです。キング牧師は言います。海辺でのエジプト人の死とは、エジプト兵の溺死を喜ぶなどということではない。何人も人間の死や敗北を喜ぶべきではないからである。むしろ、この物語は、悪の死を、非人間的な抑圧や、差別や正義にもとる搾取の死を象徴しているのだ。これは、ヨハネ17:12「わたしが(弟子たちを)保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。」その「滅びの子」とは誰か、そのことに対するキングによる最も良い注解であると思って紹介するのです。それは悪であり、非人間的な抑圧であり、差別や搾取の死のことです。御子は地上でも天でもそれと戦い、私たちを守るために、「悪霊の子」を滅ぼして下さる。そうやって世の人々を愛し救おうとしておられるのです。
さらにキング牧師は言うのです。「キリスト教は、善と悪の長い闘争で結局は善が勝利者になることを断言する。悪は最後には、善の強い力によって滅ぼされるのだ。受難日は、復活節の勝利の音楽に道を譲らねばならない。…シーザーは宮殿に住み、キリストは十字架にかけられた。しかし、同じキリストが、歴史をAD〔キリスト紀元〕BC〔キリスト降誕前〕に分け、シーザーの統治時代でさえも後には、キリストの名によって、年代を定められたのだ…」そう言う。
勿論、キング牧師は単なる楽観主義者ではありません。悪の力を熟知している人です。ヒトラーは600万人ものユダヤ人を殺した。アメリカでの奴隷制は、244年間続き、まだ解決していない。血に飢えた暴徒が、勝手に黒人男女にリンチを加え、気まぐれに黒人少年少女を溺れさせている。しかしそう書いて、キングは、インド南端のコモリン岬の海岸での素晴らしい経験を書いています。西の海に、火の玉のような太陽が沈んでいった。そして太陽が見えなくなった時、私は振り向いて、もう一つの美しい玉のようにきらめく月を見た。太陽が海へ沈むように見えたと同時に、月が海そのものから昇ってくるかのようであった。太陽がついに視界から消え去った時、闇が地球を飲み込んでしまった。しかし、東には、昇る月の輝く光が天上を照らしていた。そしてキングは言うのです。我々も、絶望の闇に飲まれようとする時がある、不正義と恐るべき搾取の犠牲によってである。その中でわれわれの魂は、憂鬱と絶望に圧倒されてしまい、どこにも光がないと思ってしまう。しかしわれわれは東の方をもう一度眺めよう。闇の中でも輝く、もう一つの光を見つけるのだ。そう言って詩人の祈りを引用します。139:11~12「わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。」
「暗夜の月光」という言葉があります。どんなにヨハネ教会の現実が暗くても、キング牧師の戦いが停滞しても、コロナは拡がるばかりでも、しかし、その暗夜に月光は輝く、それはこの過越の夜を暗示しています。過越の祭りは毎年、春の満月の夜に祝われるからです。ですから、この主と弟子たちの最後の晩餐、この裏切りと否認の夜、それは本当に暗い夜であるにもかかわらず、天を仰げば、そこに春の満月の煌々たる光に照らされていたことは確かです。そして私は思います。17:1「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。」何故主はこの夜も天を仰いだのか。世は暗い、人の心は暗い、人の心を感染させようとする悪霊が跋扈するのが夜です。そこでひどい差別が21世紀も続いているのです。しかし受難の夜、試練の夜であっても、天を仰いで祈る時、そこに満月以上の、天の神の「栄光」(17:1)を仰ぐことが出来る。私たちにもコロナなどの試練によって、ウイルス以上に恐ろしい人間の夜の心が露呈していく、そうやって私たちはバラバラになる、その時御子が父の傍らで私たちのために祈っていて下さる、そのことを信じたいと願います。そこに暗夜の月光、その消えることなき希望の光を見ることが出来るのです。そこで、17:13b「世にいる間に、これらのことを語るのは、わたし(御子)の喜びが彼ら(教会)の内に満ちあふれるようになるためです。」この主の祈りが叶う、実現する、それは何と嬉しいことでしょう。
祈りましょう。 御子イエス・キリストの父なる神様、私たちにも天を仰ぐことを教えて下さり、そこでどんなに暗い夜も、光を見るが出来る望みを新たにして下さった恵みに心から感謝します。一時、御言葉を分かったような気持ちになっても、明日何があるか分かりません。また夜に支配されるかもしれませんが、その度に、御子の勝利の十字架と復活からほとばしり出る祈りは、月光のように輝いて、私たちの夜を希望で照らして下さっていることを思い出し、信仰の喜びを甦らせて下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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