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2020年7月19日 主日朝礼拝説教「イエスの死に栄光を見よ」

2020年7月19日 主日朝礼拝説教「イエスの死に栄光を見よ」

https://www.youtube.com/watch?v=Uwl9c8cqPII=1s

ヨハネ福音書17:1~5(新202頁)

説教者 山本裕司 牧師

 「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。/父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」(ヨハネ福音書17:4~5)

 今の期節ではありませんが、初春のレントの期節、特に受難週に、教会では「グロリア」(栄光あれ)が含まれる讃美歌は歌わない習慣があります。今朝朗読したヨハネ福音書17:1以下に記されるのは、その受難週のただ中の主イエスの祈りです。しかし、その始まりはまさに「栄光」(グロリア)を求める御子の祈りなのです。

「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」(17:1)。

 主イエスは最後の晩餐を閉じるに当たってこれを祈られました。次の日金曜日に主は十字架で死なれるのです。ここで主は「栄光」と繰り返し祈られました。この事実だけでも私たち教会は、レントの期節「グロリア」を歌うことを、いつも避けるべきであるとは、言えないのではないでしょうか。むしろこのヨハネ福音書においては、受難週に神の栄光を歌うことは、最もふさわしいことと覚えるべきではないでしょうか。

 『マタイ受難曲』において、バッハはイエスの言葉が歌われる時、真に気高いイメージを与える弦合奏を随伴させます。これは「光背」(グローリー glory)と呼ばれるもので「受難曲」に登場するイエスは常に神の子の「栄光」を、弦合奏という形で背後に輝かせておられます。しかしバッハはイエスの言葉でただ一箇所だけ、その「後光」を消しました。それはどこかというと、それこそマタイにおける十字架上の最期の言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)という言葉の時なのです。まさにこのマタイによる受難の頂点においては、グロリアの歌はバッハにおいても消えるのです。

 しかしヨハネにおいてはどうでしょうか。このヨハネ福音書における十字架上の主イエスの最期の言葉、その頂点は「成し遂げられた」(19:30)です。これはマタイ福音書とは著しい違いです。ヨハネが十字架において強調するのは、この主の死とは、御受難、その痛みであることは、マタイ同様当然として、それ以上に、主イエスの「救済の完成」です。
この19章をここで取り上げたのは、今朝、私たちに与えられた御言葉の中に既に、この終わりの宣言が「先取り」されているからです。17:4「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」「成し遂げて」これが、十字架上の最期の言葉「成し遂げられた」と、同じ言葉です。主の十字架は失敗、挫折ではありません。成就です。完成です。この主の死によって、私たち死ぬべきはずの者に、逆に「永遠の命」(17:2)が与えられるのです。だから十字架は死からの救済の完成です。だから先週読んだ「わたしは既に世に勝っている」(16:33b)、その通り「勝利」です。この御業の完成によって、父だけでない、御子イエスもまた、元々、創造以前の永遠の昔から持っておられた、栄光(グロリア)をもう一度得る、そう祈られているのです。

 「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」(17:5)。

 もう一度言います。それは普通、栄光と全く逆の暗黒と覚えられる受難によって、逆にそこからほとばしり出て全宇宙を照らす神の光のことなのです。

 私は先週から、近付いてきたヨハネ福音書18章以下の連続講解に備えて、バッハの『ヨハネ受難曲』を聞き始めましたが、音楽がヨハネ19:30に至って、イエスが「成し遂げられた」と歌った直後、それに呼応するアリアが、速度記号「アダージョ」(ゆるやかに)の指示のもと、歌い出されます。それは悲しみを湛えた静けさの中で奏でられますが、磯山雅先生は、やはりそこに不思議な清らかさが共存していると解説しています。何故ならイエスの死は使命の成就だからに他ならないと。しかも、このアリアは突然その静けさが打ち破られ、神の勝利宣言がファンファーレのように噴出し、輝かしい栄光賛歌へと「万華鏡」が回ったかのように劇的に変化します。その速度記号も一転して「快活に」を意味する「ヴィヴァーチェ」によって歌われるアリアはこうです。

「ユダ族から出た勇士は勢威(いきおい)をもって勝利し、戦いを終わらせるのです。」

 そう息を引き取った主イエスが未だ十字架についているのに、その最中に、力強く勝鬨(かちどき)が歌い上げられるのです。それがヨハネの心だとバッハは洞察しました。

 磯山雅先生の遺作『ヨハネ受難曲』の中で、先生はこう解説します。「しめやかなアダージョの最中に荒々しいヴィヴァーチェがはさまれる効果は極端に思われるが、バッハは百も承知でこの構成を選んだ。瀕死のイエスから勝利のイエスへの突如の変身は、脈絡を断ち切っての「聖」の出現であり、人智を超える真理の顕現の音楽化である。」そう言って先生は、ヨハネ福音書の主題を提示する「受難曲」冒頭の合唱曲に戻ってこう言われるのです。その歌はバッハ自身の作詞ではないかとさえ言いながら、この曲の最初の歌詞を引用します。

「まことの神の子が いかなる時にも 低さの極みにおいてさえ 栄光を与えられたことを。」

 まさにここでバッハは「マタイ受難曲」とは異なり、十字架のイエスの頭上に勝利の冠としての眩しいばかりの「後光」を浮かび上がらせている、そう確信します。

 私は先週「ヨハネ受難曲」を聞きながら、アガサ・クリスティの作品『暗い抱擁』を思い出しました。これは探偵の物語ではありません。「愛の物語」です。ミステリと言うなら、人の心のミステリを描こうとした作品です。交通事故によって横たわった生活をしている男ノリーズという傍観者の記録によって物語は進行していきます。彼はイギリスの静養先で貴族の城に住む一人の若い女性に出会います。今、傍観者と言いましたが、しかし彼はその美しい女性イザベラを自分でも知らないうちに愛しています。それまで身動き出来なくなった自分に絶望し、いつ自殺しようかと睡眠薬を集めていましたが、このイザベラに会った瞬間、クリスティは彼の「万華鏡が回った」と書きました。「まったく異なった世界が目の前に浮かび上がった」と。イザベラがこの世界で生きていると思った瞬間、ノリーズは不思議なことに、廃人に等しいはずの自分も、生きることが出来る、そういう甦るような経験をするのです。しかしそこにゲイブリエルという醜い男が登場します。彼は貴族でなく平民の子でありそれに深い劣等感を覚えている。そして上流階級への復讐と立身出世欲のために議員選挙に立候補し、見事に立ち回り、当選確実と言われるまでになっている。しかしやはり彼の人生も、イザベラに出会うことによって、計算が微妙に狂い初め、ついには彼の人生の「万華鏡」も回ってしまう、そういう物語です。

 それは、ヨハネ17:2a「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。」この祈りを思い出させるような女、それがイザベラでした。

 イザベラは出会う男たちの心を支配し、その「万華鏡」を回してしまう存在なのです。

 ゲイブリエルはイザベラに恋する余り深い憎しみを抱く。そしてとうとう、彼女を「暗い抱擁」の中に引きずり込む。彼は言います。「あの娘を見ていると、気がおかしくなってくる。神聖不可侵のような存在だ。天国の木の下で微笑みを浮かべて座っている女だ。堪らなかった、思いっきり辱めてやりたい。地面に引きずり降ろしてやりたい」と。イザベラには、その城の主人第9代セント・ルー男爵という婚約者がいました。一方、ゲイブリエルも議員に当選し、前途洋々だったはずなのですが、その結婚式の行われる日の真夜中、ゲイブリエルとイザベラは二人とも何もかも捨てて町から消えるのです。
 
 数年が過ぎノリーズは、手術を受けるためにスロバキアのザグラーデに赴き、松葉杖で歩けるまでに回復しました。ある日その町のカフェでゲイブリエルに再会します。至宝のようなイザベラを奪ったこの男を殴りたかった。次の日ノリーズは彼らの住まいを訪ねた。ザグラーデの場末でした。不潔なアパート、出会う人々の汚さ、あの美しく誇り高いイザベラがこんな所に住んでいると、胸が締め付けられた。ところがその一室には、服はみすぼらしかったが、貴族の城を去った日と少しも変わらない、美しい、平静な、イザベラが微笑みを浮かべて座っていたのです。ところが数日後、ゲイブリエルはノリーズの許に来て言った。「イザベラは射殺された」と。 

 それから数十年が過ぎました。ノリーズがパリに滞在している時、一人の女が訪ねてくる。ゲイブリエルが死に瀕している、そしてあなたに会いたがっている、と。その名を聞いた時、ノリーズには激しい憎悪が再燃して答えた。「誰が行くものか」と。ところがその女は何故か「クレメントおやじ」の名を持ち出す。クレメントおやじは、戦後の暗黒時代に、悲惨な境遇にある者を助け、拷問に合っている者を救出し、難民を安全地帯へ導き、多くの人々に崇拝された人物、それはもはや伝説上の英雄として、ヨーロッパ中に知られている偉人でした。そしてこの女によると、このクレメントおやじこそ、あの汚らわしいゲイブリエルだと言うのです。

 ノリーズが連れられてその病室に入った時、その病人の顔は聖者のそれであった。艱難と苦悩がはっきり跡形をとどめ、安楽を斥けている禁欲生活者特有の何かがあった。その顔は精神的平安に充ちていた。ゲイブリエルだった。そして瀕死の息の中で、イザベラの最期について、どうしても君に真相を伝えておきたいと語り出す。
 「イザベラがひどく死を恐れていたことを、君は知っていたね。しかし、彼女はその学生が拳銃を向けて僕に突進してきた時、イザベラは銃口の前に身を投げ出したのだ。彼女は俺を救うために、死を選んだのだ。-俺は分からなかった。-その時まで-いや、そのときにも未だ、それが何を意味しているか知らなかった。イザベラが俺を愛しているということが、俺にはどうしても理解出来なかったのだ。憎まれて当たり前のことしかしなかったのだから。…しかし実際、イザベラは俺を愛していたんだ…俺のために命を捨てるほど…あんなに死を恐れていた彼女が…」
 ノリーズは呟きました。「そうか、それが結末だったのか…」。ところが、ゲイブリエルはどこにそんな力が残っていたのか、枕の上にがばっと半身を起こし、醜い顔の中の美しい目をかっと見開き、勝ち誇ったように言った。「いや、違う、それは!結末じゃない。それこそ、始まりだったんだ!」そういう物語です。

 言うまでもなく、クリスティは、イザベラの姿を通して、20世紀のヨーロッパ社会に現れたキリストを女性の姿で描こうとしたのです。この物語で、印象深かったのは、「分からない」という言葉です。「知らない」という言葉です。それが何度も出てきます。ゲイブリエルが、イザベラのことが分からない、自分はイザベラを少しも知らない、と呟く場面が何度も出てくる。あの女が分からない、どうしても、知ることが出来ないと、呻くように言う。しかしそれが彼女の死後分かる。それは、ゲイブリエルがその悲惨な長い経験から、この世に絶対に存在しないと確信した「無償の愛」、それをもってイザベラはゲイブリエルを愛したという事実でした。そしてその愛とは恋とは違う。どんなに相手が醜くても、どんなにその男のために汚れた場所に堕とされても、その者と共にいようとすること、それは相手のために死ぬこと、身も心も献げることであった。
 そのイザベラの至高の愛を「知った」時に、ゲイブリエルは変わる。クレメントおやじの道を歩き始める。彼女の死「それは結末じゃない、それが始まりなのだ」、それはゲイブリエルの命が始まるという意味です。知るということこそ、命なのです。

 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(17:3)。

 永遠の命とは、長い命のことではありません。質的な命のことです。それは主イエスの十字架の愛、私たちのために命を献げて下さる愛、私たちと共に地獄にまでも下られる愛、その神の子の愛を本当に知った時が、私たちの「永遠の命」の始まりなのであります。
「子はあなたからゆだねられた人すべてに、(十字架の御業によって)永遠の命を与えることができるのです」(17:2b)。

 絶望し切っていたノリーズの心、隣人に対する復讐心に生きるゲイブリエル、そして私たちも同じです。誰に何を言われても、絶対に動かない石の如き頑なな私たちの心、しかしその「知」から、愛に対する知から、人生の「万華鏡」は回るのです。主イエスの十字架の死、それから全ては始まります。人の心の、そして全世界の「万華鏡」が回る。そうやって、子は、17:2「すべての人を支配する」のです。愛のみによって。だからキリストの死は、王の王としての栄光です。勝利です。命です。

祈りましょう。 父なる神様、御子の十字架の死こそが、死ぬべき私たちを永遠の命へと飛翔させる、勝利であることを知り、このコロナ禍で時に暗くなる心ですが、希望を回復することが出来ますように。その御子の愛の福音を知った者として、心を変えて、あなたと隣人に仕える一週へと旅立つ私たちとして下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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