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2020年7月12日 主日朝礼拝説教「しかし、勇気を出しなさい」

2020年7月12日 主日礼拝説教「しかし、勇気を出しなさい」

https://www.youtube.com/watch?v=JVS68L7wPZA=1s

ヨハネ福音書16:25~33(新201頁)

説教者 山本裕司 牧師

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音書16:33)

 今朝、私たちに与えられています告別説教、ヨハネ福音書16:25で、主イエスはこう言われました。「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」この「たとえ」(paroimia)の原文を辞書で調べると、そこには「謎めいた話」とありました。「ヨハネ福音書では特に高い真理が隠されている、謎めいた話」と注釈されていました。「たとえ」とは私たちの場合は、難しい話を分かり易くするためのものと考えますが、ここで主が言っておられることはそうではありません。イエス様が語って下さった真理の言葉、それがいつも謎めいてしまったのです。それはイエス様のお話がへただったなんてことではありません。私たち人間の側が、その真理をどうしても理解することが出来なかったからです。その理由は、主イエスの言われる真理が「十字架の勝利」だからです。主は「わたしは既に世に勝っている」(16:33)と宣言されました。十字架につくことによってです。私たちの常識では十字架は「敗北」です。そこから、主イエスの御言葉の全てが、常識人である私たちには、謎めいてしまったのです。

 しかしその常識が覆される時が来る。16:26a「その日には」とありますが、具体的には御復活と聖霊降臨の「日」のことです。既にそのことを、主は、16:13a(新200頁)で言われました。「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」この「十字架のイエスが勝利者である」、この謎めく話を、真理と私たちが悟ることが出来るために、非常識の人になるために、聖霊降臨という恵みがありました。

 その真理が分かると、本当に素晴らしいことが私たちの身に起こるのです。井上良雄先生はその著『ヨハネ福音書を読む』の中で、真理を知った者の祈りは変わる、そう語られています。16:26「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」、そう主が約束下さったからです。それまでの祈りは、主イエスの御名による祈りではなかったと言うのです。そうであれば、この16:26こそ私たちキリスト者が祈りを「主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン」と終えるようになった、その「典拠」であります。
 「御名によって祈り願います」、そう私たちが最後に祈る時、自分たちの祈りが、神の子の祈りになる、そう井上先生は言うのです。御子イエスの福音の御心を知った者としての祈りとなるのです。御子の十字架の死が勝利である、その自己犠牲と無償の愛の凄まじい値打ちを知った者の祈りとなるのです。人を殺すより自分が殺されることを選ぶ、それが敗北ではなく、神の勝利であるとの真理を知った者の祈りとなるのです。そうであれば、少なくても、あの目障りな奴を抹殺して下さいとか、金をばらまきますから妻を参議院選挙で勝利させて下さいとか、我々が散々国会でついた嘘がばれて逮捕されないようして下さいとか、そのためには、あの検事総長を就任させて下さいとか、その類の身勝手な祈願となることはないであろう、井上先生はそう言われるのです。もう一度言います。「十字架が勝利である」と分かると、私たちの祈りが変わる、連動して生き方が変わる。だから世にとってこの十字架の真理ほど大切なものはありません。平和を得るからです。16:33「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」神の子の祈りを、父なる神が、聞かれないはずはない。16:24b「願いなさい、そうすれば与えられるだろう」そう主は約束して下さいました。

 こういう井上先生の説き明かしを聞いていて、私たちはアーメンと唱和しながら、一方、不安を覚えるのではないでしょうか。自分の日毎の祈りを思い出すと、心許ない気持ちがします。あの権力者たちほどでないにしても心は似ている、何かあると十字架の福音を忘れて「自分ファースト」の祈りとなる。無意識かもしれない、その隠された私たちの祈り願いとは、時に、悪魔の喜ぶ「世の勝利」です。主イエスはここで、16:31b「今ようやく、信じるようになったのか」と弟子たちに言われました。これだけ主は、最後の晩餐で長時間、お話し下さったのです。それでようやく、16:28b「今、世を去って、父のもとに行く」、その謎だったことが少し弟子たちにも分かってきたようです。ところが、その真理が、いつも私たちの根深い「常識」によって濁ってしまう、おぼろになってしまう。私たちの罪の思いが強くなると、また見えなくなってしまう。そういうものなのです。その時、私たちの祈りは、未だ形式的には「御名によって祈ります」と言いながら、実はもう神の子の祈りではなくなっている、悪魔の子の祈りになっている、そういうことがあるのではないでしょうか。

 そのことも主はご承知で、直ぐこう続けられました。16:32「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。…」この後、主は園で捕らえられます。そして十字架につけられる。その時、弟子たちは皆「自分の家に帰ってしまった」のです。一度は、謎が解けたような気持ちになって、信じます(16:30)と告白したのに、また自分の世界に戻ってしまうのです。この50年後を生きるヨハネ教会は自分たちへの預言の言葉として、この福音書を編纂したのは明らかです。一度は聖霊が働いて下さり分かったのです。だから教会員になったのです。でも受難週の金曜日に匹敵する迫害がヨハネ教会を襲った。その時、一度十字架の信仰を告白したはずの兄弟が、十字架のもとに留まる勇気を失って、自分の家に帰ってしまった、そういう身につまされる痛みの中で、福音書記者はこの主の御言葉を書いているのです。
 
 井上先生はここで、16:32「自分の家に帰ってしまい」という言葉に注目されて、この元々の意味は「自分の世界に帰った」ということだと指摘されます。十字架は敗北であるという「常識の世界」に帰った。聖霊の知恵を捨てた。そうやって孤独を防いだといってもよいと思う。「コモンセンス」とは文字通り「群れの知恵」です。常識の中を生きていれば人は群れの中に安住出来ます。しかし主はそうではありません。神の子イエスは、天の知恵に生きられたために、非常識と呼ばれ、弟子たちからも見捨てられ孤独になりました。しかし、そこで、主は16:32b「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」と言われた。決して一人ではない。子よと、全世界がお前は負けたと言っても、この父だけは、子よ、お前が勝利者だ、そう宣言して下さる、そう御子は確信しておられるのです。

 そして最後に弟子たちに言われました。16:33「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 「世で苦難がある」、弟子たちも半世紀後のヨハネ教会もどんなに苦しかったか。迫害の試練の中で、勇気を失ったのです。自分の家に逃げて行ったのです。付和雷同の常識の世界に戻った。しかしそこに平和はないのです。強い者が勝利し弱い者が虐げられ、裁きにおいても、黒は白に、白は黒とされる世です。辺野古は埋めたてられ、ジュゴンは息も絶え絶え、迎撃ミサイル「イージス・アショア」の停止でほっとしていたら、敵基地攻撃は可能と言い出す、それは憲法違反の先制攻撃のことです。世界の破滅です。そんなことにならないように、主は「勇気を出しなさい」と私たちに命じられたのです。私たちは弱い。苦難があると、直ぐ意気消沈してしまう。そんな私たちが、それにもかかわらず、勇気を出せるとしたら、どうしてでしょうか。それは主イエスの決め台詞を信じるからです。「私は既に世に勝っている」(16:33)。十字架が勝利である。ここにこそ、私たちの勇気の源泉があるのです。

 ある神学教授が、今朝の御言葉の説教を残しておられます。先生は、そこに、私も読んだことのある大江健三郎さんのエッセー「チャンピオンの定義」を引用しておられました。ある日、大江さんに見知らぬ男から電話があった。「亡くなられたお兄さんにとって、あなたはチャンピオンだったのですね。お兄さんがそう言っておられました」と。それを聞いて大江さんは反射的に反論するのです。「兄弟で競い合ったことはありませんでした」と。それに対して男は言う。「確かに、お兄さんは、弟が私のチャンピオンですから、と言われて、それから咳き込まれて、実はよく分からぬところがあったのです。」その話を聞いた瞬間、大江健三郎は、過去の情景をはっと思い出したと書いています。彼が高校に入学した時、お兄さんが古書店で見つけた「コンサイス・オックスホード・ディクショナリー」をプレゼントしてくれた。健三郎にとっての初めての洋書でした。夕食も忘れるほど興奮して読んだ。夢中になって夕食の食卓にも遅れて来た弟に、兄は「何か面白い言葉を見つけたか」と問いました。大江はその時、「チャンピオンという言葉」と答え「COD」を読み上げた。「ある人のために代わって戦う者」と。そしてこう言うのです。「僕はそれまで、〈チャンピオン〉という言葉から〈大切なことを他の人の代わりにやる役目〉という意味を思いついたことはありませんでした。それから40年、兄と僕がチャンピオンという言葉を二度と話題にすることはなかったのです。しかし兄はそのシーンを、ずっと覚えていたのです。電話してきたその男は、癌で死にかかっている兄に不躾にもこう質問したらしい。「来世のこと、魂の救いについて、あなたはどう思うのですか」と。それに対して、兄は「弟が私のチャンピオンだから」と答えた。その意味は、自分は四国の森の谷に残ったために出来なかった仕事を、東京に送り出した弟が代わりにやってくれていますと。来世のことを、魂の救いのことを、だからそれは弟に聞いて欲しい。彼が私のチャンピオンだから、と言ったのです。

 私たちは自分がチャンピオンにならなくてもいいのです。チャンピオンの定義は、「COD」によれば「ある人のために代わって戦う者」、「大切なことを他の人の代わりにやる役目」です。私たちは何故、スポーツに魅了されるのでしょうか。それは選手が本当に試合に苦しみながら、最後に勝利する、そしてチャンピオンになる、その姿が、何故か私たちに明日を生きる「勇気」を与えるからです。自分が勝ったのではないのです。でも選手が自分の代わり戦って勝ってくれた、そのように私たちは感じるのです。テレビ中継で、一度あのボクサーは倒れたではないか、しかし、もがきながら、それでも立ち上がったではないか。それを見ると、自分も、明日も苦しい仕事が待っている、しかし、朝になったら立ち上がろうと思えてくる。美しい恋のドラマを見ると、自分は、ついにこの人生で美しく生きることは出来なかった、その恋はいつも泥だらけだったけれども、しかし美しい恋の勝利者たちが、何故か、あなたも頑張ってね、と声援を送ってくれているような気がしてくる。チャンピオンの定義とは、自分に代わって戦ってくれる人だからです。

 人間は誰も真のチャンピオンになれません。主イエスだけが真の勝利者です。私たちを、その人生の、仕事の、恋の敗残者にしてしまう罪と死に、原罪のもとにある私たちは勝つことは出来ません。しかしその私たちに代わって、主イエスは悪と戦って下さったのです。そして十字架の死によって勝利して下さったのです。弟子たちは世の常識のもとに逃げて行った。だから主はたったお一人で金曜日を戦われた。しかし父がトレーナーのようにその戦いと共にいて下さったのです。そうやってイエスこそ愛のチャンピオンとなられたのです。その勝利者イエスは、その勝利を独り占めしない。私たちにも分け与えて下さる。12:32「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」そう約束して下さいました。御子がチャンピオン、罪と死に勝利されたチャンピオン、チャンピオン・イエスが私たちに代わって完全に勝利して下さった時、私たちも苦難に遭っても、それにもかかわらず、勇気を持つことが出来る。何と力強いことでしょう。

 祈りましょう。 主なる父なる神様、元々神の子ではない私たち罪人の祈りを、御子の御名の故に、その十字架の贖いの故に、神の子の祈りとして聞いて下さる、その恵みに感謝します。直ぐに勝負に負けてしまう弱い者ですが、私たちに代わって勝利して下さるチャンピオン・イエスの力にあずかり、聖霊の励ましを受け、平和を求めて世に立ち向かう勇気漲る西片町教会として下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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