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2020年6月7日 主日朝礼拝説教「あなたの顔は渋くないか」

2020年6月7日 主日朝礼拝説教「あなたの顔は渋くないか」

https://www.youtube.com/watch?v=6iSVREiG5zo=1s

イザヤ書5:1~7(旧1067頁) ヨハネ福音書15:1~10(新198頁)

説教者 牧師 山本裕司

「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」(イザヤ書5:2b)

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。/わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(ヨハネ福音書15:1~2)

 「年間聖句」を定める習慣のある教会があります。年や年度の初めに、この一年間、この御言葉に繋がって生きよう、そう定めます。そしてその御言葉を週報に毎回掲載します。墨書し会堂に掲げます。それを決める時、牧師や役員は、真剣に祈って示されるのを待つことでしょう。私たちの教会にはそういう習慣はありません。それなら私たちの教会が年間テーマに止まらないで、西片町教会の主題とする御言葉を定めるとしたら、聖書のどこを選べば良いのでしょうか。もし私にその候補を挙げなさい。西片町教会はその御言葉につながり続けるので選んで下さいと依頼されたら、私は迷わず、今朝朗読したヨハネ福音書の中から、おそらく15:1aか5aを推薦することでしょう。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」

 どうしここを選ぶのでしょうか。本当を言うと、それは私が考えたのではありません。1935年、今から85年前に、この礼拝堂をイエス・キリストに奉献した先達が、私たちの教会の主題聖句はこれだと心を定めたと思うからです。どうしてそれが分かるのでしょうか。それは、この礼拝堂後方ギャラリーの上に「ぶどうの木」のステンドグラスが掲げられてあるからです。そのデザインは時の牧師福島重義先生によるものと伝えられています。確かにこの礼拝堂は全体的に渋い色で統一されています。それが私たちに神の言葉に集中する霊的な落ち着きを与えます。だからこそこのステンドグラスのぶどうの鮮やかな色彩が際立つのではないでしょうか。

 「わたしはまことのぶどうの木」、これが西片町教会の歴史を貫く主題聖句である、そのもう一つの根拠は主の食卓にあります。この聖餐卓の彫刻は、ステンドグラスと「対」となるデザインのぶどうだからです。今朝は六月第一主日です。本来であれば、私たちはその聖餐卓に奉献されたパンとぶどう汁に与るはずでした。主イエスが今朝の御言葉を語られたのは、最後の晩餐の席でした。この晩餐が聖餐の源流です。弟子たちにワインを御自ら分け与えられつつ、主がこう言われたこの意味は深いと言わねばなりません。

 15:5「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

 主イエスにつながる、その具体的な姿こそ聖餐を受けることです。ところが、私たちが聖餐を挙行したのは、2月2日の第一主日が最後です。この間に2度のお祭り、イースターとペンテコステも含めて、4ヶ月以上、私たちは聖餐に与っていません。これほど長く「見える御言葉」である聖餐を受けなかった経験は、私にとっても信仰を得てから始めてのことです。多くの兄姉姉妹たちも同様だと思います。「コロナ」とは、迫害でもないのに、私たちからかくも容易に聖餐を奪ったということで、悪魔の知恵としか私には思えません。しかし、そうであれば、その悪魔に反抗するために、私たちは益々、「見えない御言葉」に依り頼みましょう。聖書をもっと読むのです。礼拝で聞こえてくる神の言葉にもっと耳を澄ますのです。そうしないと、幹からの命の流れが疎外されてしまうかもしれません。その内、礼拝をしなくても、聖餐を受けなくても、何でもなくなる、痛くもかゆくもない、そうなるかもしれません。心ある牧師たちが、今それをとても心配しています。

 教会が次々に会堂での活動を停止した頃、3月21日の「キリスト新聞」紙上で既にある牧師は警告しています。「『出なくてもいい』蔓延を恐れる」と。「教会ではネット礼拝などさまざまな試みがなされているようです。しかし私が一番恐れているのは、礼拝者の『意欲』あるいは『礼拝には出なくてもいい』という肌感覚の蔓延です。以前、こんなことがありました。それまで礼拝に熱心に出席し、礼拝を大事にしていた役員の方が入院し、礼拝を一月間欠席しました。その方は、『長く休むと、休むのが当たり前になってしまう』と率直に打ち明けてくれました。熱心に通っていた方でさえ、礼拝への意欲を、このように失いかけてしまうのかと愕然としました。礼拝とは何か、礼拝への出席は何を意味するのか…。」そう牧師は問うのです。

 私たちには「習慣」というものがあります。習慣で礼拝に来るというのは、余り良い表現ではないと思うかもしれません。でも誰でも年を取るにつれて、習慣の大切さが身に染みるのではないでしょうか。長年の習慣、毎日の同じことの繰り返しが、健康を守ったり、ひどく害してしまったりするのです。「生活習慣病」と言うくらいです。礼拝に来なければ日曜日、自由時間を得て、心のストレス解消が出来ることでしょう。運動をすれば、益々肉体は健康になることでしょう。しかし、霊的に飢え渇くのではないでしょうか。それに気付けば良いのです。でも肉体でも食べていないのに食欲は湧かない、脱水症状を起こしているのに喉が渇いたと感じない、それが一番危険だと言われます。霊においても、似た状態になるかもしれません。そうならないための治療方法はただ一つです。もう一度、栄養をちゃんと取ることです。水を飲むことです。何故、教会は古来、毎週礼拝を献げることを奨励してきたのか、その理由はここにあります。先の役員の率直な経験のように、「長く休むと、休むのが当たり前になってしまう」、そのような自分の霊的麻痺をどこかで止める小さな努力が、私たちには求められていると思います。

 先ほどもう一箇所、旧約聖書イザヤ5:1(旧1067頁)以下を朗読しました。ヨハネ福音書15章の注解者で、この預言者イザヤの言葉を引用しない人はいません。神様が愛を込めて畑を作って下さった。よく耕し石を除きぶどうの苗木を植えました。そして良いぶどうが実るのを待ちました。主イエスも、15:1b「わたしの父は農夫である」と言われました。農夫は熱心に果樹の世話をしつつ、どんなにその良い果実を期待したことでしょうか。ところが実ったのは「酸っぱいぶどう」だったのです。ですからこれは神の期待はずれの歌です。だから、イザヤ5:6、神はこのぶどう畑を見捨てる、そう書いてありました。主イエスもヨハネ福音書で、15:2a「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と厳しく言われました。

 意外に思われるかもしれませんが、ここで主イエスは、15:2a、わたしにつながっているのに、実を結ばない枝がある、そう指摘されています。これはこの御言葉を自分たちの福音書に引用したヨハネ教会にとっても大切な言葉であったようです。

 このヨハネの時代、元々、イエス様を信じた人たちは、皆ユダヤ人であり、ユダヤ会堂に属していました。ところがユダヤ会堂内でのキリストへの信仰が、ユダヤ教正統派から異端宣告を受けたのです。その時多くのキリスト者が脱落しました。それはつながっていると言っても、なお「未熟」な信仰であった。主イエスと共に教会もそう判断するしかなかったのです。そうではなく、それこそ人生の習慣となるまで、イエス様を拝む決心をして、命懸けで会堂を出たユダヤ人たちがヨハネ教会を建てたと言われます。そこで彼らは信仰が熟する経験をしたのです。その恵みへの感謝を込めてヨハネ教会は、ここに主の御言葉を引用したと思われるのです。15:5b「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

 そして私たちは、この御言葉を読んだ時思います。確かに私も教会員であると、だからつながっていることは確かだけれども、自分はどちらなのだろうと。15:2a「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝」が存在するのです。預言者イザヤの言葉で言えば、一応実はつけたけど、それは酸っぱいぶどうであったということも起こる。実が熟さないのです。これらの厳しい言葉は、まさに自分のことを指しているのではないかと私たちは恐れるのではないでしょうか。私たちの語る言葉が、いえ語らなくても、その心の中がどんなに酸っぱいか、どんなにその顔は渋面(じゅうめん)か。私がそうです。それが眉間に現れまして、以前ある姉妹から「先生、眉間に深い皺が出来ていますよ」そう指差されました。いつもつまらなそうな顔をしていた末に、ついにそうなった。しかし巻き添えにするわけではありませんが、それは私だけではない、と申し上げたい。会えばいつもニコニコしている美しい女性と、夕方偶然同じ車輌に乗り合わせましてその方の顔を見たら、本当に険しい顔をしておられた、それで声もかけられず目を逸らしました。お仕事で疲れ果てた帰り道なのでしょう、職場で嫌なことがあったのかもしれません。そこで明るくしていなさいという方が無理です。しかし私が申し上げたいことは、決して人前で私のようにしかめっ面をしない美人であっても、私たちは一人になると素顔に戻る、その素顔とは本当に酸っぱい。その時、鏡をぱっと目の前に出されたら自分が自分で目を逸らさずにおれないほど、苦い顔をしているかもしれない。人生の憎しみと悔しさ、生きることの空しさと孤独、それが生のまま顔に出てくる。心の中から、そのような酸っぱい思いがどうしても逆流してくるのです。イザヤ5:2b「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」
 
 「逆流性食道炎」という病気があります。私も時々なりますが、酸っぱい胃酸が逆流してきて喉を焼くのです。その時どうしたらいいのでしょうか。アルカリ性の水を飲むことです。主イエスも似た治療をして下さるのではないでしょうか。ヨハネ 15:5a「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」そうやって、主につながれば、命の水が私たちの魂に流れ込んでくるのです。本当にこの一週間渋面で生きた。その酸っぱさを、その流れ込んでくる主の命の水は中和させて下さるに違いない。どうしてそんな奇跡のようなことが出来るのでしょうか。

 15:6「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」確かにこう主イエスは厳しく言われました。しかし「事実」として、この最後の晩餐後、外に投げ捨てられたのは誰かということです。都の外の処刑場ゴルゴタの丘に投げ捨てられたのは誰か。それはイエス御自身でした。私たちがぶどう園の外に投げ捨てられなければならない時に、あに図らんや、まことのぶどうの木であられた主イエスが、その酸っぱい罪を全て負って下さり、切り倒され、投げ捨てられてしまわれたのです。私たちが、自ら作り出して逆流してくる「酸」のために、食道が焼かれるはずのところで、しかし主イエスがその酸っぱい罪を一身に浴びて下さり、15:6b「焼かれてしまう」のです。その十字架の贖いから、神の愛と赦しのぶどう酒がほとばしり出て、私たちの苦き罪を甘き味に変えて下さる、中和して下さる。

 やがて悪魔の誘惑を超えて、私たちは近い内に、もう一度このぶどうの彫刻が見事に浮かび上がるこの食卓を囲み、罪の赦しを受ける時がきます。そこで主の御体と御血潮に与る時、私たちの信仰の実も熟し始めるのです。私の額の縦皺、それは良く揉まなければならない、と姉妹は教えて下さいました。せっせと毎日伸ばさなければならないと。少々、やっていましたが、よく考えてみると、しかしそれで事は解決しないと思います。毎日励まなければならないことはそれではない、習慣にすべきことはそれではない。最もしなければならいのことは、15:5「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」離れないことです。つながるのです。イエス・キリストに毎日つながる、それを人生の習慣にするのです。そこでついに私でも、しかめっ面から解き放たれる望みが生まれるのです。

 私は数ヶ月前まで繰り返されいた礼拝を思い出します。礼拝を終えてこの会堂を出て行かれる時の兄姉姉妹方は、皆良い顔になっていることを。それはエントランスで見送る私が一番良く知っています。皆さんの顔は礼拝後に美しくなるのです。顔は輝く。主につながったからに違いありません。愛の果実がそこにもう実り始めているのです。信仰が熟していくのです。もう苦くない。甘い言葉を互いに交わすことが出来る。それは何と嬉しい日曜日でしょう。もう直ぐ、そのような礼拝堂での礼拝が戻ってくることでしょう。

祈りましょう。 主なる父なる神様、聖餐卓の彫刻のように、ステンドグラスのぶどうのように、自分の人生は果たして豊かな実を結ぶことが出来るであろうかと、訝るような者ですが、それもまた、農夫であるあなたの恵みを信じない罪であることを覚え、懺悔をいたします。御子の命がそのために私たちに与えられました。どうかその深い感謝の故に、あなたを礼拝し続ける私たちの人生とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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