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2020年6月21日 主日朝礼拝説教「光と闇のどちらにつくのか」

2020年6月21日 主日礼拝説教「光と闇のどちらにつくのか」

https://www.youtube.com/watch?v=tARnB39slxI=1s

創世記26:15~25(旧40頁) ヨハネ福音書15:18~27(新199頁)

説教者 山本裕司 牧師

「ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた。」(創世記26:15)

「しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。」(ヨハネ福音書15:25)

 今朝私たちに与えられたヨハネ福音書15:18において、主イエスはこう言われました。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」こう主イエスが弟子たちに言われた言葉を、それから半世紀後この福音書を書いたヨハネ教会会員たちは、自分たちへの言葉として聞いたのです。ヨハネ教会はこの時代、まさにユダヤ会堂とローマ帝国による憎しみのただ中にあったからです。ヨハネ教会はナザレのイエスこそ「わたしはある」(出エジプト記3:14)と名乗ることがお出来になる、神御自身であると教会内外で証しを立てて進んできました。しかし来週読みます16:2にこうあります。「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」この主イエスの弟子たちへの言葉は、そのまま今のヨハネ教会への受難預言となりました。彼らは元々ユダヤ人としてユダヤ会堂に属していました。しかしその会堂は、イエス様を神と告白した、いわば「ナザレ派」に、異端宣告をしたのです。そうやって会堂から追放されたユダヤ人たちは、自らが属する新たなる共同体を求めて、ヨハネ教会を創立しました。爾来、主イエスから、15:19「あなたがたは世に属していない」と言って頂くことになりました。では世ではなくどこに属すかと言うと「教会」です。「世」とは、会堂もその一つに堕してしまったのですが、神を知らない世界のことです。神を知った教会と敵対する場です。会堂のユダヤ人たちは、この上なく父なる神を知っている宗教的エリートと自負してきました。その中で、神を知っている人間に相応しい掟、その「律法」を作り上げたのです。その誇りと確信の中で、ヨハネ教会を異端と定めたのです。しかし主イエスは、その迫害者たちは、15:25、彼らが自らまとめた聖書の「律法」の中で、理由もなく信仰者を憎んでいると、書いているではないかと皮肉を込めて言われました。また迫害をするのは、15:21b「わたしをお遣わしになった方を(つまり父を)知らないからである。」そう主は断言されたのです。どうして、信仰深いはずの会堂のユダヤ人は、そんなことになってしまったのでしょうか。

 このヨハネ福音書の中には、ユダヤ人から神を知らないと蔑視されいた、サマリア人やギリシア人が、むしろ主イエスと出会う物語が含まれています。ヨハネ教会においても、もうユダヤ人だけでなく、サマリア人、ギリシア人という異国人が導かれて、教会に属していたと思われます。それなのに、全人類の中でこの上なく父なる神を知っていたはずのユダヤ人が、しかし御子と教会を「理由なく憎んだ」のです。何故かというと、それは15:21b「無知」のためです。知っていたからこそ、無知となったと言って良い。「知の無知」であります。

 主イエスは既にそのことを、盲人の開眼の物語で既にご指摘されました。9:39(新186頁)「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」しかし「イエス様が目を開けて下さったのです」と証しをした元盲人を、ユダヤ人は「外に追い出した」(9:34b)のです。ヨハネ教会は元盲人の痛みをも自らが受けた受難、会堂追放と重ねて受け止めたのです。主イエスこそが神ご自身である、その真理に目が開かれて証しに生きる時、16:2「追放される」「殺される」そういう経験をヨハネ教会もしたのです。主は、15:27(新199頁)「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」、そう言われましたが、この「証し」という言葉は、「殉教」という意味にもなりました。「一緒」という言葉がありました。主と弟子たち、教会は一体であると言われているのです。それは受難においても一体でありました。15:18「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」15:20a「『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。」そう主イエスはその「一体」であることを繰り返し指摘されるのです。

 やがてピラトは総督官邸に捕らえたイエスを呼び出し、「お前がユダヤ人の王なのか」と問いました。それに対して、主は言われたのです。18:36「わたしの国は、この世には属していない」と。それと類似の言葉が、今朝の15:19に出て来ます。「あなたがたは世に属していない。」ここでも主は御自身と教会との一体性を語られるのです。やがて兵士たちは、主に茨の冠を被せ平手で打った。そうやってお前は断じて王でなない、そう憎悪の中で嘲笑したのです。何たることでしょうか。このような無知蒙昧なローマ兵が、神の子イエス様を冒涜する。そんなことがあって良いのでしょうか。もしピラト官邸に私たちは居合わせたら、どうするでしょうか。怒りを爆発させるのではないでしょうか。シモン・ペトロも、イエスを逮捕するために園を襲った「この世」の力を前にした時、憎悪の塊になりました。「先生に手を触れるな!」と剣を抜き、手下の右耳を切り落とした。半世紀後のヨハネ教会の中にも、このペトロに似た血の気の多い男性信者が多数いたに違いありません。彼らはこの迫害下で、剣で武装し戦おうと呼び掛けていたかもしれません。そうしなければ教会は滅びると、それでも良いのかと、長老たちに迫ったかもしれません。しかしその時長老は、いやあの春の夜、イエス様はペトロに、良くやったと褒めては下さらなかった、「剣をさやに納めなさい」とたしなめたではないか。その伝承をお前たちは忘れたのかと宥めたに違いないと思います。

 力には力で報いる、それは教会には許されないことです。何故なら主イエスが、先ほども引用しましたように、教会は、15:19、18:36「この世には属していない」からです。「この世」に属するということは、憎しみを「中心」とすることなのです。今朝のヨハネ福音書には、「世」(コスモス)という言葉が多く出てきます。それと連動して「憎む」という言葉が表れます。この世と憎しみは「一体」として登場するのです。それに対して先週まで読んできた、15:18以前の言葉は、弟子たちが帰属する葡萄の木のような主イエスの共同体が描かれる時、そこに頻出する言葉は「愛」です。ですから、15:17節と18節は実は、新共同訳聖書のように分けて読むのではなくて、ワンセットで読んだ方が良いという注解者もいます。福音書はここに、「世」と「教会」の違いを鮮やかなコントラストを以て表そうとしているだと言うのです。ですから今朝の箇所を読む時、15:17節から読み始めた方がいいという意見です。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」/(そして続けるのです)18節「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」と。主イエスの群れ教会は愛を中心に置く。それと対極に「世」は憎悪を「核」とする、そう対照するのです。どちらがいいのですかと、御国(教会)か「この世」か、次に歌う讃美歌で言えば「光か闇」です。どちらにあなたがたは「属す」のかと問うのです。主は私たちに向かって断言されます。15:19「あなたがたは世に属していない」、つまりあなたがたは「神の国」に属しているのだと。

 しかしそこで大切なのは、では自分の属する教会の中だけで愛し合っていればいいのでしょうか。「世」に対しては復讐をしないにしても、無関心を決め込む程度で良いのでしょうか。そうでもないようです。このヨハネ福音書において「世」について、主イエスは言われた最も大事な言葉はこれです。3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」神は御子のお命を、この憎しみに病む「世」に与えて下さったと言われるのです。主の教会への掟、15:17「互いに愛し合いなさい」、この掟とは、だから「世」にまで広がって行く愛です。教会の壁を超える愛です。むしろ神様の「世」への深い愛を実現するためにこそ、私たち教会の内なる愛が用いられると言うべきなのです。

 剣には剣を、という「世」のあり方は、現在「核抑止力」という言葉となりました。2017年にノーベル平和賞を受賞した「ICAN」(核兵器廃絶国際キャンペーン)代表は、「核兵器禁止条約」への日本の署名、批准を強く求めています。しかし現政権は受け入れません。核抑止力が必要だと言うのです。しかし主イエスは、ICANと共に、核の均衡によって世界平和が保てるとは「幻想」であると言うことでしょう。
 先ほど旧約・創世記26:15以下(旧40頁)に記されるイサクの物語も朗読しました。この時飢饉を避けて、イサクはペリシテ人の国ゲラルに移住しました。既にそこには父アブラハムの井戸があったので、それを用いたところ豊かな収穫を得ました。しかし難民、寄留者であったイサク家の成功は先住民ペリシテ人に大変警戒されました。王アビメレクはイサク家に立ち退きを命じたのです。ペリシテ人たちはイサクの井戸を塞いでしまう。これは即生命に関わる暴挙でした。櫻井淳司牧師は、このペリシテ人のしたことは、今日で言う先制攻撃に匹敵すると書いておられます。もしこのようなテロを受けた時、米国や日本政府なら報復攻撃に出ると思います。しかしイサクは抵抗をしませんでした。創世記26:17「イサクはそこを去って、ゲラルの谷に天幕を張って住」みました。そこも父が掘った井戸が既に塞がれていたので、新たに掘り直して使い始めます。しかしゲラルの羊飼いが、26:20「この水は我々のものだ」と言う。さすがにそこではイサクの僕たちと小競り合いが起きたのでしょう。20b、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けました。それで別の場所でまた井戸を掘り当てた時再び争いとなり、イサクは新しい井戸もシトナ(敵意)と名付けて放棄する他はなかった。このように、イサクは不当な扱いを受けても、戦争をするのではなく、そこを譲って移動し、また井戸を掘りました。このあり方は今の日米権力者からは弱腰外交と、敵につけ込まれるだけだと批判されることになるかもしれません。しかし聖書は、結果は違ったと物語るのです。更にもう一つイサクは井戸を掘り当てた時、22b「もはや争いは起こらなかった」のです。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と賛美したのです。

 櫻井先生は、この聖書の物語がいかに現在の問題に暗示的であるかを解き明かします。イサクは争いを避けることによって、結局、命の源である多くの井戸を掘ることが出来たではないかと。それはイサク家だけでなく、後の時代まで、多くの人々の渇きを癒やしたことであろうと。先のイサクの賛美「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」、この「我々」とはイサクの家だけでなく、もしかしたらペリシテ人をも含んでいるのではないでしょうか。誰もが差別なく渇きを癒やすことが出来る井戸、それはイサクの信仰、その生き方から備えられたのだという意味がここに込められているのではないでしょうか。これこそ、後の時代、主イエスが井戸端で、サマリアの女に与えられた「永遠の命に至る水」を指し示す井戸なのではないでしょうか。このような井戸を生む、これこそ「非暴力的な生き方」であると櫻井先生は紹介するのです。一方、ペリシテ人は命の源を埋めたり奪ったりと、その暴力的な生き方を通して、結局、この世を砂漠化してしまうのです。ペリシテ人の攻撃はまさに「核攻撃」を思い出させます。敵に核ミサイルを撃ち込んでも、死ぬのは敵だけではない。全世界が放射能に汚染されるのです。従って核抑止戦略の行き着く場所は、イサクが最後に得た「広い場所」(レホボト)ではありません。逆に「狭い場所」です。昔の映画「渚にて」のように、汚染されていない地球の面積は余りにも狭くなってしまう。そこもだんだん放射能で汚染され縮小し、やがて生存可能な場所はなくなる。それこそがヨハネが言う「世」の末路なのです。主イエスはそのような「世」を愛するが故に、その滅びを良しとせず、御自身と一体の教会を通して、イサクの生き方に立ち戻れと呼び掛けておられるのです。

 付け足せば、何故イサクはこのような生き方が出来たのかということです。櫻井先生はイサクの二つの記憶を取り上げます。一つは創世記26:23、イサクが追われ追われて、ベエル・シェバに上りました。そこはかつて、創世記21章、ハガルと兄イシュマエルが、彷徨った荒野でした。母子が熱中症になる寸前神は彼女の目を開き、井戸を発見させて下さったのです。その救いの出来事を、イサクは何度も聞いて育ったのではないでしょうか。今回も同じベエル・シェバに彼が上った時、神様が再び現れ言われました。26:24「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる」と。この共にいて下さる主なる神に対する、絶対的信頼が、アブラハムの一家に滔々たる川の流れのように受け継がれているのです。
 もう一つの記憶は、創世記22章、イサクが少年の時、父アブラハムによって、神への奉献として屠られる寸前までいく経験をしました。父が剣を振り上げた瞬間、神様がそれを押し止めます。そこにはイサクの代わりに、既に雄羊が備えられていました。「主の山に備えあり」(イエラエ)との場所と、そこはなるのです。それをイサクは身をもって経験したのです。彼は今回のゲラルの谷の試練においても、この確信をもって耐えたに違いありません。暴力に暴力をもって対抗する必要はない。神が必ず井戸を備えて下さる。そのことを信じる時、信仰者は「核抑止力」を求める必要はない。イエラエ「主の山に備えあり」、核よりも主なる神が頼りになるからであります。その結果イサクを憎んで追放した、まさに「この世」を代表する王アビメレクが、イサクの所に来てこう言って、和解するに至りました。26:28「主があなたと共におられることがよく分かったからです。」神が共にいて下さる、「わたしはある、わたしはあるという者だ、あなたと本当に共にあるのです」、そう名乗られた、神ご自身であるイエスを教会が証しする時、「世」もそれを見て変わるのです。こちらの生き方の方が得だということに気付くのです。闇よりも光を選んだ方が得だと。そうしたら世界はもう領土争いをする必要はない、世界はそのやり方で、広い場所(レホボト)となるからです。もはや難民、寄留者を排除する理由もない。「広い」からであります。そこに平和が出現する。それを目指して、神は、今も御子を与えるほどに、世を愛して下さっているのであります。

 祈りましょう。 主イエス・キリストの父なる神様、御心に反して、隣人を排除することを以て、むしろ砂漠のような狭き場所に閉じ込められる私たちを憐れみの内に覚えて下さい。どうか、私たちを永遠に渇かない井戸そのものである「広き場所」へと解き放って下さい、どうかヨハネ教会が御子の十字架から学んだ、剣を捨てる生き方に、先ず西片町教会が生き、それをこの世に愛を以て宣べ伝えて行くことが出来ますように、私たちの愛を増し加えて下さい。

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