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2020年6月14日 主日朝礼拝説教「私たちはイエスの友」

2020年6月14日 主日朝礼拝説教「私たちはイエスの友」

https://www.youtube.com/watch?v=fv8L79Wd44w=1s

ヨハネ福音書15:11~18(新199頁)

説教者 牧師 山本裕司

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」(ヨハネ福音書15:15)

 今朝の礼拝で与えられた神の言葉、ヨハネ福音書15:12bにはこうありました。「これがわたしの掟である。」私たち主イエスの弟子とは、この掟を守ることが求められているのです。その掟とは「互いに愛し合う」ことです。しかもそれは「我流で」と言うのではありません。15:12a、主イエスが私たちを愛して下さったように、愛し合うことなのです。主の愛とは、この最後の晩餐が始まった時に主がして下さったこと、人の汚れた足を水で洗うことです。そして晩餐が終わった時に、主がして下さること、それは人の汚れた心を洗うために、御血潮を十字架で流して下さることです。それは罪の赦しのことです。

 その愛に生きる、すると先週も申しました。会堂のステンドグラスのように、ぶどうの実、愛の豊かな果実が結ぶのです。しかもそれは、教会の内だけのことではないようです。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと…あなたがたを任命したのである」(15:16b)。そこでも実を残す、その出かけて行く先とはどこかと言うと、「世」(15:18a)とあります。世とは暗い場です。「世があなたがたを憎むなら」とあります。世につきまとうのは憎しみです。憎しみという黒い果実をたわわに実らすのが「世」です。主が真っ先にこの「世」に出かて下さったのです。だからその憎しみを一身に浴びて、主は十字架で死なれました。ところが、それは世の汚れを洗う、十字架の贖いだったのです。やはり赦しです。そのことによって、憎しみの実が地に落ち、愛の果実が膨らみ始める。そこで「世」を主は変えてしまわれたのです。「主の掟を守る」とは、私たちもまた憎しみの世に出かけ(15:16)て行く、洗足と十字架の主に倣って愛と赦しに生きる、それが「命令」(15:17b)されるのです。

 ここまで説教を聞いた私たちは既に当惑しています。これは厳しいと。これは「言うは易く行うは難し」の典型であると思います。しかし心ある説教者はその「難し」を忘れることはありません。井上良雄先生の講解『ヨハネ福音書を読む』の中で、やはり先生はこの愛の掟を聞いた時、私たちから出る言葉とは「一体それが人間に可能だろうか」との問いであると書いています。しかし先生はそこで、先ず私たちがすることは、その掟通り出来るか出来ないか、ということでない。先ず始めることは、主イエスが世を愛して下さった、そのことをしかと覚えることだ、そういう意味を言っておられます。それは私たちが日常生活で出会う人々を見る時、あるいは私たちにとって、敵としか思えない人を見る時、そういう一人一人に、主の愛と赦しが注がれたのだ、そのことを私たちは先ず心に刻むのだと言われています。
 しかしそう聞いても、私たちの憎しみの炎、その悔しさは簡単に消えません。だからその嫌いな人のためにもイエスは死んだのだと学んでも、直ぐその人と平和が成り立つわけではないかもしれない。しかしそれでも、何とかしようと、主の「さあ、立て!」(14:31)との気合いに背を押されて、小さな愛を携えて出かけた時、そこで起こることは、確かに未だほんの小さなことかもしれない。よその人から見れば、そんな程度なら普通の人と同じなのだ、と揶揄されるような変化かもしれません。しかし井上先生は、それがどんなに小さなことであっても、それは無意味ではないと言われます。それが「五十歩百歩」の差でしかなくても、それを通して、私たちは誰の上にも注がれているイエスの愛を、指し示すことは出来る。それは決して小さなことではない。この井上先生の言葉を読んで改めて私は、キング牧師の言葉を思い出しました。「何故、我々は自分の敵を愛するべきなのか、その第一の理由とは明白である。憎しみに対して憎しみをもって報いることは、憎しみを増すのみであり、既に星のない夜になお深い暗黒を加えるからである。暗黒は暗黒を駆逐することは出来ず、ただ光だけは出来るのだ。憎しみは憎しみを駆逐することは出来ないのであって、ただ愛だけが出来る。」

 「世」(15:18)とは原語では「コスモス」です。昔、カール・セーガンという天文学者が『コスモス』という本を書きました。それによると私たちの住む太陽系は銀河に属しますが、その位置は銀河の端のほう、銀河系中心部から3万光年も離れた、銀河から伸びているうず状の腕の先近くにあるそうです。そこは銀河の辺境であり星密度が低い所です。もし銀河の中心部に一つの惑星があって、そこに生物がいたとしたら、彼らは私たちのことをかわいそうに思うだろう、そうセーガンは言います。何故なら彼らの夜空は、星々で燃え立つようであろう。我々は晴れ渡った夜でも、数千個の星しか見ることは出来ない。しかし銀河の中心では、10億個の何百万倍もの星が肉眼で見えるはずだ。その3万光年先では太陽が沈んでも夜は来ない。星の光で満ち溢れるからだ、そう言うのです。私は青年時代そう聞いた時、それは「神の国」の光のイメージそのものではないかと呟いた、そして詩編詩人の言葉を思い出したのです。

 「わたしは言う『 闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。』/ 闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。」(詩編139:11~12)

 確かに「コスモス」の闇は余りにも濃い、それに対して私たちキリスト者の発する光は余りにも小さいとしか言えません。しかし小さくても良い、それが星であるなら、その数が増えていけば、コスモスに夜は来なくなる。小さな星も集まれば、いつか夜も昼も共に光を放つようになる。憎しみの暗黒を拭い払う愛の光の銀河となる、だからあなたも、その小さな星の一粒であることに絶望しないで欲しい、その「御声」が宇宙の彼方からここまで響いてくるのではないでしょうか。

 山本周五郎には有名な『さぶ』という友情を描いた作品があります。江戸下町のふすま屋で働く二人がいました。一人はハンサムで器用な英二です。もう一人は不器用ですが誠実なさぶです。失敗してはめそめそしているさぶを英二は親友として励まし続けました。ところがこの英二に災難が襲います。両替屋綿文に出入りの仕事をしていた時、高価な古金襴の切が紛失して、英二の道具箱から出てきました。英二には全く身に覚えのないことでした。しかし彼は店を追い出されてしまう。誰かにはめられたのだ、英二は自棄になって飲んだくれ、綿分に殴り込みをかけ、結局人足寄場の島送りとなります。英二の心の中にあるのは復讐の炎のみです。許せないと、ここを出たら綿文の屋敷に火をつけてやる、もう誰も信じないと憎しみの夜の中に閉じ籠もりました。
 その行方を探し出して訪ねて来たのがさぶでした。しかし英二は彼を受け入れない。余りにもさぶが親切なので、英二には疑いの心さえ生まれる。さぶが俺を貶めたのではないだろうかと。やがてさぶの書き置きが出てきます。「おらが悪かった、英ちゃんが島送りになったのはおらの罪だ」と。これを発見して英二はやはりあいつだったのかと怒りを再燃させる。しかし真相はそうではありません。さぶはあの事件の時、親友の災難を防ぐことが出来なかったことに責任を感じ、それを自分の罪だと悩んできただけでした。やがてこの二人の友情は更に深まることが予想されてこの物語は終わります。

 憎しみの闇の中に落ち込んだ英二に、再び光を与えたのはさぶの変わらない友情です。主は言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)。主イエスは何も悪いことをなさらなかったのに、私たちの罪をみな御自分の責任として受け止めて、十字架で負って下さいました。そしてこう続けられたのです。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15:15)と。
 年を取るにつれて友だちの有り難さが身に染みてきます。利害打算で結びついているような関係が「世」です。作家の描く英二が疑ったように、この者たちは今はにこにこして寄ってくるが、いざとなったらさっさと自分を捨てるのだろう、それがひしひしと感じられる、それが「世」(コスモス)です。そういう中で友だちとは、自分が損しても助けてくれる人のことです。誰も信じられなくなった英二の心の暗黒を、親友さぶが小さな星となって照らし続けました。
 むろん山本周五郎の意図は、ただ単に道徳の教師のように、さぶのような理想的人間となれと教訓を垂れる、そういうことではない、それは確かです。彼は人の心の闇をよく承知している作家でした。それはさぶと共に寄場の英二を献身的に支え、やがて妻となるおすえこそ、古金襴の真犯人であった、そう描くことによって感じられてきます。人間はどんなに表面美しく装われても、その内にエゴイズムの暗黒が拡がる、そう描かれます。そしてさぶもきっとその闇から自由ではない、一つ間違えればさぶでも、例えば嫉妬から英二を貶めていたかもしれない、それはこの物語の行間からも暗示されます。

 使徒パウロは言いました。ローマ3:10~12「正しい者はいない。一人もいない。/ 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。/…善を行う者はいない。ただの一人もいない。正しい者はいない。一人もいない。」

 これを言い換えれば、友のために死ねる者は一人もいないということです。同時に神を探し求める者もいないとパウロは言いました。その罪深さを知れば知るほど、どうして主は私を友と呼んで下さり、私のために死んで下さったのだろうかと思います。未だ何か他より見所があったのだろうかと思うかもしれません。元々真面目だったからだとか、人より宗教性が備わっていたのだ、そんなふうに自分を思うかもしれません。しかし主は言われます。ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」つまり実は私たちの側に理由はないのです。一方的な恵みの選びによって、主は私たちを友だちにして下さったのです。

 掟を守らず、暗黒に暗黒で上塗りするように生きても、そうやって皆から捨てられても、主イエスだけは私たちを捨てない。「友」だからです。そして私たちの罪を御自身で背負って下さり、罪を赦して下さる。その「いつくし深い友なるイエスは」私たちに、だからあなたたちも愛の掟に生きなさいと、ここで「命令」(15:17b)されるのです。憎しみに生きることが、実はどんなにつまらないことか。主は「これらのことを話したのは…あなたがたの喜びが満たされるためである。」(15:11)と言われました。私たちを喜びで満たすものは、友情です、愛です、憎しみではない。光です、闇ではない。英二と結ばれたい一心で彼に濡れ衣を着せたおすえを、英二はここで赦すことが出来ました。それが出来たのは、彼に寄場での3年間の経験があったからです。彼は自分が世界一不幸だと思っていた。しかし彼はその島で、自分以上に、人生の絶望と悲しみを知っている、多くの囚人と出会ったのです。その中で彼は人の心というものをだんだんと学んでいきました。そこに山本周五郎が得意とする、青年の「精神的成長物語」が描かれています。英二が知った心、それは人間とは自分も含めて皆弱いということです。パウロの言い方では人は皆罪人だということです。だからこそ互いに赦し合うのです。それこそが、イエスの友として頂いた私たちが、学ばなければならない「掟」です。赦し合うことが愛の「掟」だったのです。

  15:17「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 この「世」(コスモス)は罪の真っ暗闇です。しかしそこに小さくていい、いえ、小さくしかあり得ないけれども、イエスが友となって下さった私たちは、小さな星を置いて歩くのです。私たちも誰かの友だちとなるのです。友情は赦し合わなければ決して続きません。その愛と赦しが集まれば、暗黒のコスモスも、やがて銀河の中心のように、もはや夜が来ても夜ではない、愛の光で満たされる「神の国」に似て来るであろう。「五十歩百歩」でいいではないか。僅かな差であっても、立って、ここから出てかける(14:31b、15:16)、愛に向かって一歩でいい、進もうとする、その歩みを止めなければ、もしかしたらいつの日か、この地球も3万光年だって進むかもしれない。銀河の中心に行くかもしれない。再臨の主が終末の日に、そこまで私たちを導いて下さる、文字通りの満天の星の下に!、それは何と見事な夜空であることでしょう。

祈りましょう。 主よ、私たちの憎しみの炎より、もっと大きな聖霊の炎によって、この期節、私たちの心の闇を照らして下さい。御子が私たちを選び、見捨てず、友となって下さった、その恵みを覚えて、私たちもまた、主にある友情の輪を広げていくことが出来ますように。そして銀河の中心のような光が降り注ぐ地球を求めて、ここから出てかけて行くことが出来ますように。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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