2020年5月31日 聖霊降臨日説教「気合いを入れよ!」

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ヨハネ福音書14:25~31(新197頁)

説教者 牧師 山本裕司

「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ福音書14:26)

 今朝、私たちがその御降臨を祝う聖霊の大切なお働きについて、主イエスは上記の御言葉を以て教えてくださいました。聖霊はイエス様が僅か三年の間、地上で語ってくださった御言葉を、お振る舞いを、永遠に教会に教え続ける働きをしてくださるのです。この「思い起こさせる」という言葉は、福音書で既に何度か出て来ました。
 イエス様がエルサレムで所謂、宮清めをされた時、主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2:19)とユダヤ人たちに答えました。そういう物語の中にヨハネ福音書はト書きのように記すのです。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。/イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(2:21~22)。ここに「思い出し」と同じ言葉がありました。あるいは、主が受難週初日ろばの子に乗って入城された時、群衆がなつめやしの枝を持って「ホサナ」と叫んで出迎えました。そして次です。「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」(12:16)。やはり「思い出した」とあります。この二箇所ともイエス様の地上でのお振る舞いが、最初それを肉眼で目撃した弟子たちには意味不明であったことが書かれてあります。しかし2章では復活の時です。12章では栄光を受けられた時です。その時弟子たちは「思い出す」ことが出来ました。それはただ何となく思い出したと言う意味ではなく、そのお言葉、お振る舞いの深い意味が分かって、記憶された、心に刻印されたということです。

 ヨハネ福音書では、復活と栄光、それは聖霊降臨と一つのことです。その時「弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(2:22)。思い起こすこと、信じること「想起と信仰」です。それを私たちに与えてくださる神こそ聖霊様だと、主イエスは教えてくださいました。

 「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14:26)

 私はこれまでヨハネ福音書は、イエス様が地上でお働きくださった時代と、それから半世紀後のヨハネ教会の試練の時代とを重ね合わせて物語っていると、その構造を指摘してきました。ヨハネ教会員にとってイエス様は五十年も昔の人です。ところがこの教会が編纂したヨハネ福音書には、まるで昨日の出来事のように、イエス様のお言葉、お働きがリアルに書かれてあります。それ以上にその「意味」です。2章で言えば、三日で建て直される神殿とは、御自分の体のことだったと、そのお言葉の意味を正しくヨハネ教会は理解したのです。12章で言えば、イエスは王として入城されたのに、軍馬ではなく、ろばの子に乗って入城された、その意味もヨハネ教会は、それは「真の平和の王」として入城されたのだと分かったのです。他の箇所もそうです。主は、謎のようなことを言われたり、振る舞われたりされた、その信仰的意味内容を、このヨハネ福音書は正確に捉えることが出来ました。

 特に大切なのは教会教義となりました「三位一体」です。その一番の典拠となる「書」こそ、このヨハネ福音書です。「三位一体」とは、私たちの知恵では捕らえきれない神のお姿です。現在の神学者でも分からなくなるらしく、時に否定したり疑ったりする教えです。「キリスト教系カルト」も必ずこれを否定します。私はそのようなカルト被害者の青年を説得する時、やはりヨハネ福音書を開きます。あなたの通っている「協会」を建てた、明らかに人間である○○教祖は、イエス以上の救い主だと君は言うけれども、ヨハネ福音書を開いてご覧と、開くといきなり「言(イエス)は神であった」(1:1)と書かれてあるではないか。また主イエスはこの福音書で何度も、モーセが聞いた神の御名「わたしはある」(8:24、13:19)と御自身を呼ばれました。三位一体とは、さらに父と子に加えて、今朝私たちが迎えた、聖霊なる神が含まれる。それでいて「唯一の神」であられることには何も変わりはないという、不思議な教えです。しかしこれが神の真実のお姿だとヨハネ教会は分かりました。どうしてそんな凄い知恵を得たのでしょうか。彼らが現在の神学者以上に天才的な学識があったからでしょうか。そうではありません。ただ聖霊体験をしたからです。

 「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14:26)

 私たちも同じです。私たちがどうして信仰を告白して洗礼を受けることが出来たのでしょうか。一所懸命聖書を読んだり、入門講座を受けたりしたこともあるでしょう。しかしそれだけでは足りない。聖霊が来てくださる時、未だ謎のところはあるけれども、それを超えて、信じることが奇跡のように出来たのです。
 
 「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」(14:29)。「事が起こった時」、それは主が十字架につかれる時です。主イエスの死です。しかしその時、その十字架こそ弟子たちに、そして全人類に平和を与える御業であった。そうこの「不条理」極まりない殺人事件、これが「福音」そのものであると、信じることが出来る、そう私たちに教えてくれる、納得させてくださるのが聖霊なのです。聖霊様とは何とありがたいお方でしょう!

 主は今「去って行く」(14:28a)と決別を告げておられます。弟子たちは、それを聞いて「心を騒がせ」「おびえ」(14:27b)ました。だから主は、聖霊として「戻って来る」(14:28a)と励ましてくださり、同時にこう約束されました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(14:27a)。

 イエス様をもう肉眼で見ることは出来ません。五十年後のヨハネの時代もそうでした。二千年後の私たちもそうです。迫害下のヨハネ教会は、官憲による取り締まりを察知した時、今週は主日に集まらないようにと密かに連絡を取り合ったと思います。今、私たちもコロナ問題で似た経験をしています。教会は、この世の力の前にいつの時代も弱い、しかしそこで主は、心を騒がせなくていい、おびえなくてもいい(14:27b)と、何故なら主は天へと去られるけれども、そのことを通して「聖霊と平和」を地上に残す、そう約束してくださったからであります。

 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(14:27a)
 
 私はこのコロナ問題の中で、多くの人と同様に、アルベール・カミュの『ペスト』を読みました。それは今のコロナ禍の預言のような書です。それは主人公の医師リウーが、4月16日の朝、一匹の死んだ鼠に躓くところから始まります。やがてオランの町中で、血まみれの大量の鼠たちが死んでいくのです。それに連れて猫が町から姿を消した。続いて市民の間からも死者が出るようになっていきました。最初これが恐るべき疫病であることを認めない無責任な行政や専門家によって対策は遅れ、感染爆発が起こります。そして発動される都市封鎖、患者の隔離、医療の敗北、薬の無力、あらゆる日常の喜びの追放、夥しい犠牲者によって儀礼を尽くした埋葬は不可能となりました。私たちも類似の経験を、この春にしたのです。それだけでも一読に値しますが、この作品はそれに留まるものではありません。

 カミュにとって「ペスト」とは、彼の哲学的問題「不条理」の隠喩(メタファー)です。「罪の問題」と言い換えることも出来ます。ある時、ボランティアとして医師リウーに協力するタルーが告白を始めます。「僕はこの伝染病を知るずっと前から、とっくにペストで苦しんでいたんだ」と。彼の父親は次席検事で、息子を愛する実直な人でした。タルーが17歳になった時、父親は彼を法曹界の跡継ぎにしようとしたのかもしれません、重罪裁判所の法廷に招くのです。その時父は家庭での姿と異なり威厳に満ちていた。父はそこで怯える貧弱な二十歳くらいの被告人に、胸を張って死刑を求刑した。タルー少年はそれに衝撃を受け、それから心の病気になった。もはや父を尊敬することは出来なくなった。彼はこう言います。僕はこの社会が死刑宣告の上に成り立っていると知ったと。つまり彼の言うペストとは「死刑宣告」のことなのです。ペストとは人間を殺す「
全てのもの」のことです。そしてタルーは殺人と戦うために、ヨーロッパ各国の政治運動に身を投じました。ところが彼はハンガリーで、ついに実際の捕らえられた敵に対する銃殺刑を目撃します。タルーは平和を求める革命運動の中で、数多くの粛正と死刑があることを知りました。その「平和運動」も父親と同じだったのです。かつての犠牲者たちが死刑執行人に豹変することを見ました。敵も味方もない「我々はみなペスト患者である」、そこで僕は心の平和を失った、そういう告白です。
 
 このカミュの「ペスト」は、ナチ・ドイツ軍の占領という、まさにペスト同様の監禁状態からフランスが解放されて三年目に出版されました。人々は勝利に酔いドイツに対する復讐心に燃えていた。しかしカミュはそこで冷静になることを求めているのです。革命も戦争もみな平和のためと言われるが、無数の殺人と死刑の上に成り立っている。「僕たちはみなペストに感染している」、これは明らかに聖書で言う「原罪」のことです。ではペストから解放されるためにはどうしたらよいのか、それを模索していこうとカミュは呼び掛けているのです。「連帯」して共通の敵ペストに「反抗」し続けようではないか、その志が彼の作品を貫いているのです。

 先に引用しましたが、主は受難週初日、ろばの子に乗って入城されました(12:14)。その出来事の意味が、聖霊降臨によって教会はついに分かったのだと言いました。主は軍馬ではなくろばの子に乗って入城された。そうやって、「世が与えるように与えるものではない」(14:27)「平和」を私たちに残そうとされたのです。主は人類というペスト患者に対する神の死刑宣告を、永遠に廃棄するために、ご自身が死刑になられました。そうやってペストなき世界を、世が与えるものでない平和を、聖霊と共に主は私たちに残してくださったのです。

 物語では、年が明けた1月上旬、疫病は急速にその力を弱めていきました。生きた猫や鼠が再び見られるようになります。1月25日、知事は「緊急事態宣言」を解き一部の市民たちは歓喜して町に繰り出しました。しかしその時、献身的に病者に仕えてきたタルーは、ペストに罹ります。作者はこの死と戦うタルーの最期の姿を、主の御受難の場面と重ね合わせるように描いている、そう指摘するのは宮田光雄先生です。内なるペストに「反抗」し続けたタルーは、ついにそれに殉じました。そして2月のある晴れた朝の明け方、まるでタルーの死と引き換えのように、長く閉鎖されてきた市の門が九ヶ月振りに開くのです。その日、あらゆる人々は立ち上がり家から出て来て、広場という広場で踊り始めました。夜になると、祝賀の花火が何十発も上がり港を照らした。タルーの最期を、主の死による人間救済と解放に重ね合わせるのは、無神論者カミュの意図には反するかもしれません。しかし私は、家に監禁されたような日々の中で、物語がここに至った時の、体が震えて止まらないほどの感動を忘れることが出来ないのです。

 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(14:27)
 
 ヨハネ福音書14章、その終わりの主のお言葉はこうでした。「さあ、立て。ここから出かけよう」(31b)。主はこうお弟子たちが、立つこと、出て行くことを求められました。力強いお言葉です。スポーツ選手が試合に臨む直前肩を組んで、気合いを入れるのを見ることがあります。それが終わると選手たちは奮い立って自らのポジションに全速力で走って行く。それに似て私たちもまた「世の支配者」(14:30)と戦うのです。「この世」が主張する似非平和に「反抗」するのです。軍馬に跨がって敵を殺して作る平和でない。もう殺し合わなくてよい、「主の平和」(14:27)を求めて教会は戦うのです。私たちだけでは出来ません。ペスト患者である私たちだけでは、「立つ」ことも「出かける」ことも出来ません。主はだから今朝、私たちに「気合い」を入れてくださる。私たちの内外に巣くうペストを、気合いである聖霊の風は吹き飛ばしてくださる。炎で焼き滅ぼしてくださる。だから教会は、心を騒がせない、おびえない(14:27b)、監禁状態から解放され、立ち、出かけることが出来る。「世」のものでない、「主の平和」(14:27)を作り出すために。ペンテコステは何と素晴らしいお祭りでしょう!

 祈りましょう。 主なる父なる神様、我が内なるペストに「反抗」する力を与えてください。そのために、御子が約束くださった、気合いを、霊を、我が内に充満させてください。そして世に出て行く勇気を教会に与えてください。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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