2020年5月3日 主日朝礼拝説教「新しい掟」
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出エジプト20:1~17(旧126頁) ヨハネ福音書13:31~38(新195頁)
説教 牧師 山本裕司
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ福音書13:34)
「ヨハネ福音書」を生み出したヨハネ教会は、受難のただ中にありました。教会への愛が失われたのです。そのため、教会が崩壊寸前までいったと推測されるのです。その経験が、彼らが編纂した「ヨハネ福音書」の受難物語に投影されていると指摘されます。弟子ユダの主イエスへの裏切りと似たことが、50年後のヨハネの教会においても起こったのではないかと語ってきました。ヨハネ福音書13:27(新195頁)には、主からワインを浸したパン切れをユダが受け取ると、彼の中にサタンが入ったと書かれてありました。サタンの仕事、それは何よりも愛を奪うことです。愛喪失のユダが、祈りの園を大祭司に告げた、それと似て、アジトを密告されるという経験を、地下教会・ヨハネ教会もしたのかもしれません。そのため教会の牧師、長老たちが一網打尽にされる。やがて、かろうじて難を逃れた信者たちに、信じられない噂が伝えられるのです。牧師や長老が、裁判の席でイエスを知らないと三度誓ったと。やはりイエスと教会に対する愛を失ったのです。13:38b「…鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」、それは、ペトロだけに言われたのではなかった、主は半世紀後の我々のことも預言されたのだ、その当事者意識の激痛が、受難物語の行間に刻み込まれていると思われるのです。
この緊急事態の中で、ヨハネ福音書を編纂したユダヤ人たちは、13:34に記される掟を、どのような気持ちで、ここに引用したのでしょうか。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
「新しい掟」と主は言われました。注解から学ぶと新約聖書のギリシア語には、「新しい」という言葉は「ネオス」と「カイノス」と二つある、「ネオス」とは時間的な新しさを言う時に使われるそうです。しかしここでは、その言葉は避けられていて、「カイノス」が用いられています。これは質的・内実的な新しさを意味しているそうです。いつの時代にも愛の掟は存在してきました。しかし、百年、千年と、ネオスとしてどれほど歳月が新しくなっても、主イエスの言われる、新しい掟は生じなかったのです。ただ主なる神が、手ずから、私たちに「掟」を与えて下さる時だけ、それは、真に質的、内実的な新しさ、「カイノス」を得る掟となると聖書は言うのです。
先ほど、もう一箇所、旧約聖書の十戒(出エジプト20:1~17、旧126頁)を朗読しました。これは、時代としては古い掟です。紀元前1200年前に与えられた戒めです。しかしこれは決して古い掟ではありません。何故なら、主なる神が文字通り手ずからモーセに与えられた戒めだからです。神の指で刻まれた十戒の石版は「二枚」(出エジプト31:18)でワンセットでした。その意味は、一枚目に神についての戒め、つまり信仰の掟が記され、二枚目に、人間関係、倫理の掟が記されていたと推定するのが自然です。その二枚目の石版に記されていたであろう倫理の戒めは、「父母を敬え」から始まり、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「貪るな」と続きます。主イエスはこの戒めをまとめて愛の掟という意味を言われました(マタイ22:40)。しかしこれらの倫理道徳は、明治天皇が、1890(M23)年に公布した「教育勅語」の中にも似た形で出て来きます。そこにも「父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲睦まじく、友達とは互いに信じ合い、行動は慎み深くしなさい」とあります。この教育勅語は敗戦後、1947(S22)年5月3日に施行された日本国憲法に反するとされ、1948(S23)年に廃止されました。ところが、最近になって、かの有名な森友学園は教育勅語を園児に暗誦させていました。あるいは、国会でその園長との関係を問われた、時の防衛大臣が「教育勅語の核の部分は取り戻すべき」と答弁しました。また現文科大臣の事務所にはこの「教育勅語」の掛け軸が掲げられていると、前川喜平さんが指摘しています。この勅語には、「他人に博愛の手を差し伸べなさい」ともあり、やはりこれも、愛の掟とも言えますが、これらの道徳が、大日本帝国において果たして実現したでしょうか。隣国に博愛の手を差し伸べたでしょうか。友達として互いに信じ合うことが出来たでしょうか。行動は慎み深かったでしょうか。話は逆で、隣国に土足で踏み込み、差別し侵略し蹂躙したのではないでしょうか。「夫婦は仲睦まじく」とありますが、従軍慰安婦問題はどうなのでしょうか。何故、この勅語の求める立派な愛の戒め、倫理道徳は、国の総体においては全く実現しなかったのでしょうか。
それは、時の防衛大臣が暗示した、今、取り戻すべき勅語の「核の部分」、それこそが、その道徳の実現を阻んだのではないでしょうか。それは私の推測では、「もし危急の事態が生じたら、…永遠に続く皇室の運命を助けるようにしさい。」こここそ、勅語の核であり大前提の道徳であった、それこそが、この掟を古くした最大の原因なのではないでしょうか。
十戒の新しさの根拠とは、一枚目の石版にあると確信します。出エジプト20:2(旧126頁)、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」この神様の自己紹介、この前文こそ、十戒の核・コアです。「奴隷の家から導き出す」主のお姿が記されていますが、それは高い所から、何か綱でも投げてやって、自分は何も苦労しない、そういう救いを主はされたのでない、そう左近淑先生は教えて下さいました。そうではなく、主は奴隷の苦しみと同じ地平に身を落とし、痛みを共に負って下さって、救って下さったのです。この主のあり方は、やがて、私たちのために、天の高みを捨てて最も貧しき飼い葉桶に生まれ、さらに低き十字架で死んで下さった、主イエスのお姿として可視化されました。
この十戒序文の神の自己紹介「わたしは主」、その御名ヤハウエは、出エジプト3.:14(旧97頁)「わたしはある。わたしはあるという者だ」と同意です。そして私たちはこれまで、ここで何度聞いてきたでしょうか、このヨハネ福音書において、この御名「わたしはある」、これはそのまま、イエスの御名だということをです。主は何度もご自身のことを、「わたしはある」(ヨハネ福音書13:19)と呼ばれ、この出エジプトの主ヤハウエと、ご自身が一体であられることを明らかにされてきました。左近先生は、この出エジプト記3:14の御名をこう私訳されました。「わたしはいる、わたしはいる、わたしは本当にあなたと共にいるのです。」これもまた主イエスの別名インマヌエル、その御名そのものです。
十戒前文「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」私たちはユダのように、直ぐサタンの奴隷となって、愛を喪失します。そのために、「行動は慎み深くしなさい」、その教育勅語を守ることが出来ませんでした。高ぶるのです。自分を神とさえするのです。天皇を戴く神の国と呼んで、バベルの塔のように高く昇り隣国を見下した。しかし第一戒はこうです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3)。左近先生は、これは戒めと言っても高飛車に私たちに上から強制する掟ではないと言いました。まさに、明治天皇が求めた掟「慎み深く生きる」、それを本当に実行されたのは神の子のみであると確信します。使徒パウロが言いました。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、/かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、/へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6~8)。
そうやって博愛をこの世に唯一もたらせた神、それがイエス・キリストなのです。従って三位一体の神の「勅語」、この十戒は決して「…するな、してはならない」と言うような命令の言葉では元々ないと左近先生は言われます。「あるはずがない」という意味の言葉なのだそうです。「こういうことは起こりえないはずだね」と。それを先生は「深い期待」と呼びました。何故なら、私はあなたのために身を投げ捨てる神、あなたがどんな所に行っても探しに行く神だ、こんな神はいない、どこにもいない、それをあなたはよく知っているね、だから他の神々の所へ行くはずがないね。それが第一戒の意味なのです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
そして、主なる神にこれほど愛されて、満たされたのだから、これ以上高ぶって、人を殺すわけがないね、姦淫する理由はないね、隣国の領土や資源を盗もうとする貪欲はおきない、その悪事を隠すために偽証する必要もないね、そうやって、十戒の二枚目の石版、その倫理も、一枚目に連動して、自然に守るようになる。このような、力ある戒めを「新しい掟」と呼ぶのであります。
主イエスはこの十戒の心と共通の「新しい掟」を、改めて教会に教えて下さったのです。その新しさの根拠とは、ヨハネ福音書13:34b(新196頁)にあります。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しあいなさい。」この主イエスの限りない愛に根ざす、この掟にこそ、質的、内実的な新しさ、カイノスが生まれたのです。
ヨハネ教会はこのヨハネ福音書の他に、ヨハネの手紙も生み出しました。そのヨハネ一3:16(新444頁)はこうです。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」ヨハネは、主イエスが十字架で命を捨てられるまで、自分たちは、愛というものを知らなかった、と告白するのです。私たちと同様に、愛というものを知っているような気にはなっていたのでしょうが、しかし本当には何も知らなかったのです。それではどんなに愛せよと戒められても、私たちはその掟を実行することは出来ないのです。
ヨハネ福音書に戻れば、13:37(新196頁)、ペトロは言いました。あなたのためなら命を捨てますと。愛とは命を捨てることだと、ペトロも理屈では知っていたのです。明治天皇も「博愛」を知っていたのです。教会指導者も皆知っていたのです。しかしペトロは受難週の夜、命を捨てるどころか、自分の命を守るために主と群れを見捨てた。自分の語る掟、その愛の高さに、自分自身は少しも堪えることが出来ない、その恐るべき矛盾、それこそが、私たちの「古い掟」なのです。
新しい愛の掟とは、主イエスによって、恩寵によって与えられるものです。ヨハネ福音書13:34「わたしがあなたがたを愛したように…」という基礎に支えられている愛です。神御自身の方が、ペトロのために命を捨てて下さるのです。それは歴史的に大日本帝国で起こったことと全く逆ではないでしょうか。神も教会も真に愛することがどうしても出来ない、その裏切りに生きる私たちです。しかしそれでもそこに注がれる主の愛、この愛を本当に知った時、私たちも変わる。自分でもその主の愛の千分の一、万分の一でもいいから、愛の掟の新しさに生きてみたいと思うようになるのではないか。その思いの中で、ヨハネ教会も崩壊を免れに違いないと思います。
主はペトロにこうも預言されました。13:36「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」「後で」と主は言われました。それはいつか、13:19(新195頁)にもこうありました。「事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。」十字架と復活の「事が起こる」、「その後」、イエスが御名「わたしはある」を戴く神御自身であることを人はついに信じるようになるのです。「その後」です。その時あなたは「私について来ることが出来るようになる」、そう主は約束して下さったのです。
「新しい掟」、それはただイエスの愛を模範としようと言うだけに止まらないと思います。主はこうも暗示しておられると想像しました。13:27、あなたが、私の与えるワインを浸したパン切れを受ける時、ユダにあったことと逆のことが起こると、その時入るのはもはやサタンではい、その聖餐によって三位一体の神の愛が、あなたの魂の中に豊かに注ぎ込まれる。その時、あなたも立ち直って、新しい掟を果たす弟子に変わるであろう。そうやって、主の愛が私たちの心に注ぎ込まれる時、やがてその愛が私たちの心からも溢れ出てくる。コップに水が満たされた時、それが自然に外に溢れ出すように。それは何と素晴らしい神の子らに与えられる奇跡でしょう!
祈りましょう。 主よ、この疫病蔓延のただ中こそ、私たちに益々必要なのは、新しい掟であることを思い、それを祈り求める西片町教会とならせて下さい。自分の力であなたも隣人も教会も愛することが出来ない罪人です。どうか御子の十字架の愛を受けた感謝をもって、新しい掟に生きる決心をすることが出来るように、聖霊を私たちの器に溢れるまで注いで下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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