2020年5月17日 主日朝礼拝説教「わたしは道、真理、命」
https://www.youtube.com/watch?v=tusOR6AkmII&t=1s
出エジプト記20:2~5a(旧126頁) ヨハネ福音書14:4~14(新196頁)
説教者 牧師 山本裕司
フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。…」(ヨハネ福音書14:8~9a)
先週、NHK-BSで「スペイン風邪100年前の教訓」という番組がありました。1918年に発生した「スペイン風邪」は、第一次世界大戦の戦局拡大に伴い兵士を介して世界中に拡大しました。春の大流行の第一波が収束した直後、秋から強毒化した第二波が襲い、さらに次の年の第三波と感染爆発は続きました。世界で数千万人が、日本でも45万人が感染死したと推測されます。
ここで西片町教会の皆様にお伝えしたいことは、今年秋に東京開催予定であった第22回日韓合同修養会は、残念ですが延期と決まったことです。秋にさらに拡大する可能性が高いと指摘される第二波を警戒してのことです。その番組の中である歴史学者が、その時代のことをこうコメントしました。第一次大戦はドイツ帝国の降伏により終結したが、戦勝国によるパリ講和会議において、平和主義者・米国大統領ウィルソンは、ドイツへの寛大な処置を求めました。しかしドイツへの過酷な賠償を求めるフランスとの対立が激化した時、ウィルソンはスペイン風邪に罹るのです。そのため会議に欠席し、復帰しても精彩を欠き、結局フランスの提案通りになりました。そのため戦後ドイツの経済的困窮と劣等感は決定的となったのです。それに乗じて台頭した者こそヒトラーであったと学者は言うのです。つまりウイルスこそヒトラーと第二次世界大戦を生み出したとの指摘です。そうであれば、私たちも今回の新型コロナウイルスを単なる肉体的病気とだけ捕らえるのではなく、私たちの内なるコロナへの影響も警戒しなければならないのです。内なるコロナ、それは人間の「原罪」です。その原罪(高慢)が、ウイルスによって機会を得て悪の感染爆発を引き起こすのです。その火事場泥棒的政治権力や「自粛警察」などの暴走に対して、教会は見張りの使命を怠ってはなりません。
NHK-BS「独裁者ヒトラー 演説の魔力」という番組も観ました。若きヒトラーの率いるナチス党員は、敗戦後5年のミュンヘン一揆に参加しました。しかしこのクーデターは半日で鎮圧され、ヒトラーら首謀者は逮捕されたのです。ヒトラーはこの運動が簡単に制圧された経験から出獄後選んだ武器こそ「演説」だったと番組は指摘するのです。ヒトラーの演説は大衆を熱狂させた。特に心酔したのは若者たちであり、現在90歳を超えた老人の一人は、当時の陶酔を振り返り、その演説はベートーヴェンの第九に匹敵したと言います。その演説などによるパンデミックは凄まじく、キリスト者も軒並み感染しました。その人気に乗じて、敗戦以来ドイツを苦しめ続けた経済低迷、失業問題などをヒトラーは克服し強いドイツが復興したのです。この成功に感謝したキリスト者たちもヒトラーとドイツ民族のために尽くすことが、父なる神に応える道であると信じるようになりました。
主イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6a)。この中の「真理」に関して既にこういう主の言葉がありした。「真理はあなたたちを自由にする」(8:32)。主イエスという真理、神の言葉の真理に固着しないと、私たちは自由を失い何者かの奴隷となると言われているのです。一時的な人間の栄光に幻惑され、諸共奈落に突き落とされてしまうのです。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)。主イエスは父なる神に至る唯一の道である、他はないと宣言されたのです。そう主が言われた矢先、弟子フィリポは「主よ、わたしたちに御父をお示しください」(14:8)と求めました。これは「愚問」とある注解者は苛立ちを隠しません。この求めは、イエスのみが道である、それを信じない心から発せられたからです。御父をお示しください、つまり自分を究極的に救うお方、そのお方に至る道順を、フィリポはイエス先生に教えて欲しいと求めているだけです。そこに既に彼の不信仰が表れているのです。主イエスは「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」(14:9a)、そう残念がられ「信じないのか」(14:10)と問われました。
このフィリポの不信仰について何と説明したらよいでしょうか。それはフィリポの思いとは、父なる神に至る道順を教えてくれる先生であれば、誰でも良い、イエスでなくても良いという意味なのです。言い換えれば、聖書の中からただ一教訓を取り出して良しとする人は多いと思います。例えばこの頃、若者たちの間でもよく口にされるパウロの言葉があります。「神は…あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはしない」(コリント一10:13)。そう言って励ましを受ける、それは決して悪いことではありません。しかしそこでもう一歩踏み込んで考えて欲しいことは、私たちに本当に耐えられないような試練は来ないのかということです。コロナ問題一つとってもPCR検査が制限され、放置され、やがて肺炎が重症化して死んでしまった人が多く現れました。家族はそれに耐えられるでしょうか。これを語った使徒パウロ自身が斬首されたのです。それでもパウロは、何故耐えられない試練はないと言えたのでしょうか。それはこの続きの言葉が大切です。「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」この「道」とは何か、誰か、このことが一番問われるのです。そうでなければ、この使徒パウロの言葉は、世に無限にある気の利いた言葉「格言」の一つに堕してしまうのです。主イエスは言われました。「わたしが道である」と。主イエスこそが「逃れの道」です。唯一の真理と命への道です。その道の存在を知っているから、パウロはどんな試練にも耐えられると、信じ難いことを言えたのです。
「わたしは道であり、真理であり、命である。」ここに再びヨハネ福音書における神の御名が登場します。道、真理、命という「補語」を取り去れば、英語で言えば「I am」、「わたしはある」とのモーセが聞いた神の御名がここにも表れます。だからフィリポの求めに、主は、それは本当に不十分な求めだという意味を言われて続けられました。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(14:9b)と。そして「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか」(14:10a)。父なる神とイエスは一体であると断言されました。
そうであれば、フィリポの「御父をお示しください」(14:8)、その願いとは改めて本当に愚問です。例えて言えば、ある人が山本牧師を訪ねて西片町教会に来たので私が出て行くと、山本牧師はどこにいますかと問うので、いや私がその山本ですと答えるのですが、訪問者はいやそんなわけがない、あなたのような貧相な男が山本牧師のわけがないのであって、本人をお示しくださいと願う。いや貧相だろうと何だろうと、私は山本です、「わたしはある、わたしはある、本当にここにあるのです」と一所懸命自分で自分を指差す、このような滑稽なことと、主イエスとフィリポの対話は近いのです。勿論主イエスは貧相なお方ではありません。しかし主イエスはもう十字架の道を歩み始めておられるのです。十字架で本当に弱く悲惨なお姿をおとりになる。しかしそのイエスこそ、御名「わたしはある、わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)、そう父と共に名乗ることが許される、父なる神と一体の子であられる、それをフィリポは信じることが求められているのです。この十字架につかれる主ご自身が、父に至る唯一の「道」そのものであり、イエスと会うことは父と会うこと、父と会うことはイエスと会うことなのです。
ところが私たちはなお十字架の道でなく、栄光に輝く道を求めるのです。カール・バルトは、ヒトラーに人々が熱狂していた時、人々から訝られるほど神学研究、真理追究に没頭した時代がありました。それは主が言われた「真理はあなたたちを自由にする」(8:32)、この御言葉を肝に銘じたからに違いありません。真理そのものであるキリストに集中する時のみ、ヒトラーから自由になる、その確信からでした。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」この御言葉を読んだ時、実に多くの人が思い出すのは、ドイツ告白教会が生み出した「バルメン宣言」です。1930年代、ドイツにおいて政権を掌握したヒトラーは民族主義を標榜し、ユダヤ人大量虐殺を行い世界大戦へ邁進しました。その時多くのプロテスタント教会は「ドイツ的キリスト者」を名乗りナチスに追随しました。この緊急事態に抵抗する「告白教会」の信仰告白が「バルメン宣言」(1934年)でした。それはこの起草者であるバルトが、主イエスが道である、その唯一性に固着したところから生まれたものです。その第一項はこうです。
「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並べて(注:キーワードはこれ!)、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。」
こう始まって第六項まで続く宣言は、その項目毎に、唯一の典拠として聖書が引用されます。この第一項に表れる御言葉、それは第一項というだけでなく、「バルメン宣言」全体を代表する言葉と言うべきですが、それこそ今朝の主の御言葉なのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」そして、第二もやはりヨハネ福音書からでした。「わたしは羊の門である」(10:7)。これ一つとっても、今私たちが読んでいるヨハネ福音書がいかに偉大な書であるかが分かると思う。
ドイツの劣等感を払拭する大復興を成し遂げたヒトラーを、教会も賛美するようになりました。勿論、そこでイエスが道である、イエスは門である、この御言葉を露骨に否定する教会はなかったと思います。しかし当時、牧師任職のための按手礼式文の中に、主イエスとその御言葉に仕えるとの約束と「並べて」、このような誓いが求められるようになりました。「私はドイツ帝国と民族の指導者である総督アドルフ・ヒトラーに忠実に服従します。」牧師たちは皆、イエスが道であることは知っていました。しかしイエスのみ、ではなくなったのです。神に至る道は、イエスだけでなくヒトラーへの服従によって得られると理解するようになったのです。いえむしろ、イエスの道も、先ほどのフィリポのように、せいぜい多くの道の一つとなり、今はそれよりもヒトラーとその国家に従うことの方がより決定的な「道」であると考えるようになったのです。
それに対して、告白教会は「バルメン宣言」をもって、否、と断じました。そして、教会はイエス・キリストだけが神と命に至る道であり門であることを、先ずヨハネ福音書の御言葉を掲げて訴えたのです。それは十戒の第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3)、この原意「あなたはわたしと並べて他のいかなる神々を持ってはならない」、これと同じ意味です。1940年、バルトは『教会教義学』第2巻、まさに「神論」の中でこう書きました。「神はただひとりであるという真理とぶつかって、アドルフ・ヒトラーの第三帝国は滅びてしまうであろう。」これは政治的発言としてなされたものではなく、純粋な神学研究『教会教義学』の中に書かれている言葉です。つまりバルトの神学研究と政治的発言は表裏一体だったのです。そのような洞察をバルトに与えた言葉こそ、十戒とワンセットのヨハネ福音書なのです。ヨハネ福音書なしには、教会は存続し得なかったと言わねばなりません。
「わたしは道であり、真理であり、命である。」ただお一人の神と一体であられるイエスは、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」(14:13a)、そう言うことが出来る神の名「わたしはある」をもつお方です。主は、私たちがフィリポのように「愚問」を連発しても、不信仰でも、罪を犯しても、十字架の贖いによって御父を示してくださる、そう約束してくださる道、真理、命、そのものであられるのです。この余りにも素晴らしい御子を今朝も共に礼拝をすることが出来た私たちの幸いを思う。
祈りましょう。 主イエス・キリストの父なる神様、私たち罪人を、真理と命へ導いてくださるただ一筋の道としての御子を、お遣わしくださった恵みに感謝します。御子の道に逃れて、私たちを襲ういかなる試練にも耐えることが出来ますように。あなたは御名によって祈りを叶えてくださるお方であると信じます。どうかコロナウイルスの災いから私たちを救ってください、またそれと連動して起こる、私たちの内なるコロナの感染爆発からも、この日本と世界を守ってください。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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