2020年5月10日 主日朝礼拝説教「あなたの家を用意する主」

https://www.youtube.com/watch?v=FHFoLmNVceE&t=1s

イザヤ書43:3~7(旧1130頁) ヨハネ福音書14:1~6(新196頁)
説教者 牧師 山本裕司

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(ヨハネ福音書14:1)

 ヨハネ福音書は14章より3章にも及ぶ主イエスの「告別説教」が始まります。主イエスは、既に「わたしは行く所がある」と告げられました。弟子たちはそう聞いただけで動揺し、ペトロはイエス様に迫って、「主よ、どこへ行かれるのですか」、そう問わずにおられませんでした。彼は、命を捨てても、あなたについて行きますと願いましたが、主は直ぐ、あなたはついて来ることは出来ないとお断りになりました(13:36)。一方この時、ユダは主の群れの最後の「居場所」となる園に、敵を導こうとしています。ペトロは結局、預言の通りイエスを三度否認します。弟子たちの群れはかくして崩壊しようとしている。バラバラになろうとしています。それから五十年後を生きるこの福音書を書いたヨハネ教会も、この受難週の出来事を再現しているかのような経験をしていました。地下教会・ヨハネ教会の悩みも脱落者の問題であったと推定されます。家の教会の場所が密告されたかもしれません。そのためローマ兵に襲われ、信者たちは散り散りにされる。そうやって自分たちの居場所、家が失われるのです。

 私たちは今「ステイホーム」を要請され、この主日も、家に留まるように求められています。しかしだからこそ、私たちは招詞で聞いた詩人の歌が万感胸に迫って聞こえてくるのではないでしょうか。

 「万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。…いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら/まして、あなたを賛美することができるなら」(84:2~3、5)。

 オンライン礼拝はあるにしても、この主日の朝、私たちの祈りの家・教会堂にステイする、その幸いを自分は喪失している、その心許ない思いの中にある方々も多いと思います。あるいは「ステイホーム」を求められる、その家は地獄である、ということが起こっています。逃げ場を失った家族の悲鳴があがっています。ステイホームでコロナ感染を免れても、私たちの「内なるコロナ」が家に蔓延しているのです。出勤が出来ないで苛立つ男の暴力に四六時中、三密の狭い家で怯えている子どもたち女性たちがいます。ステイホームの掛け声の下、弱く小さい者たちの「ホーム」は益々奪われているのではないでしょうか。

 昔、渋谷で起こった凄惨な事件を思い出しました。歯学部を目指す三浪の予備校生が、妹に「兄さんには夢がない」と言われて激怒し、妹をバラバラにしてしまった、そういう事件です。彼もまたエリート一家の中で夢だけでなく、居場所がなかったのではないでしょうか。正月の予定は受験合宿だけだった。彼にとって家とは、妹をバラバラにする前から、バラバラだったのではないでしょうか。
 
 弟子たちの群れも、ヨハネ教会も空中分解しそうでした。私たちも今この不安と無縁ではないと思います。そのような心の私たちに対して、主は、告別説教冒頭で「心を騒がせるな」(ヨハネ14:1)と命じられました。「騒ぐ」と訳された言葉は注解によると、嵐の海が激しく波立ち乱れる様、「バラバラに千切れる」という意味を持つそうです。アジトを急襲されてバラバラに四方八方に逃げて行った教会員たち、ついに家を失ったと心乱れる者たちに、主イエスは、ただ騒ぐなと、頑張れと、命じられたのではありません。騒がなくても良いようにしてくださるのであります。

 「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(14:2~3)。

 あなたたちの居場所をわたしが作ろう。この主の一言を、渋谷の彼が聞く機会が一度でもあったらと思います。そうしたら、妹をバラバラにする必要はなかったと思う。主は、あなたたちの家を用意するために行くと言われたのです。弟子たちを見捨てて行ってしまうのではない。その逆です。あなたたちと永遠に共にいる家を用意するために私は一人で行く、と。ペトロがついて行けない、その所とは、明らかにゴルゴタへの道です。主は御自身が一人で十字架につかれることによって、私たちの家を用意してくださるのです。

 私たちが家を持たない、そのわけは単に三浪したとか、夢がないとか言うことを遙かに超えています。それは次々に、そのような疎外、ホームレス、孤独地獄を生み出している大本の問題と言わねばなりません。それは私たちが真の故郷・神を失っているからであると聖書は訴えるのです。

 居場所喪失の物語とは、創世記の最初から記されている、人間の根源的問題です。パラダイス・ロスト、失楽園の問題です。どうして、神と隣人との豊かな交わりの家そのものであったエデンの園を、人は失ったのでしょうか。それは禁断の実を食べたからです。それは自分の創造主である神を人が捨てたことを意味します。それは同時に、人が神となる自己神格化の道でした。その原罪こそ「我が内なるコロナ」であります。人は自分の分を弁えず、神を超えて高くなろうとします。「コロナ」(冠)をかぶる。それはバベルの塔の物語となって神話的に描かれることになりました。その結果、内なるコロナは「三密」によって感染爆発を起こし、言葉が互いに通じなくなったと神話にはあります。当然のことです。自分が神だと高ぶる者が、人の話を謙遜に聞くわけがないからです。渋谷で妹を木刀で殴打した後も、一時間も二人は議論したと伝えられています。しかしついに分かり合うことはなかった。それで寒さを訴える妹を絞め殺してバラバラにしたと言うのです。何ということでしょうか。バベルの塔は崩れ、人々は言葉が通じないまま、四方八方にバラバラに散っていきました(創世記11:9)。

 だから主は、心が千々に乱れる弟子たちに求められたのは一事です。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネ14:1)。父と子に対する「信仰のみ」であります。私たちも神を信じない時、内なるコロナに蝕まれ、神とも隣人ともバラバラになるのです。居場所・共同体を失うのです。主はそのように自己神格化した私たちの罪を贖い、私たちを神と和解させ、同時に隣人と和解させてくださいます。愛の中に、私たちを取り戻してくださる。そのために、十字架への道を一人で進んでくださいました。

 私たちは何故、私たちの家、この美しい礼拝堂を建てたのでしょうか。それはバラバラだった私たちが一つの家に集まるためです。教会の仕事とは専ら集会を作ることです。だからコロナ問題で礼拝堂に集まれなくなった時、私たちが皆様にお願いしたことは、主日の午前10時30分に、この放送の前に集まって欲しいということです。録音されるのだから、いつでもいいではないかと思われるかもしれません。勿論、時間がとれない時は、別の日時に聞いてくださることはとても嬉しいことです。でも出来るだけ日曜日の午前10時30分~11時30分に、礼拝時間を共有しましょう。その努力によって体は離れていても、教会共同体、祈りの家の交わりを作ることが出来る。そこで内なるコロナ感染による孤独が拭われる。そこに真の「ステイホーム」の幸いが与えられるのです。

 主は約束してくださいました。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(14:3)。そしてこう続けられたのです。「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」ここに「わたしのいる」と訳された言葉は、再び登場した神の御名です。英語で言えば「I am」です。出エジプト記3:14の神の言葉を、皆様はもう暗記してしまわれたと思います。大切な御言葉は暗記した方が良いと思います。それは万事休すというその瞬間に、その御言葉が記憶の底から甦ってきて、私たちを救うからです。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」

 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(ヨハネ14:18)。神の御名「わたしはある」は、この素晴らしい約束をも含蓄するのです。あなたは一人ではない。わたしはいる、わたしはいる、あなたもそこにいる、だからあなたはもうみなしごではない。もう一度言います。この御言葉を、その渋谷の青年が、西片町教会教会学校が毎週しているように、暗記する機会があったらと思う。教会の伝道の貧しさを思います。教会の教育も伝道も、私たちが「バラバラ事件」を起こさないためにあるのです。

 主イエスは「わたしはある」、この御名を自らの名とされました。まさに御子のみが許される「自己神格化」をされたのです。それは原罪ではない。主イエスは、禁断の木の実を食べた私たち人間のように、父より上に昇って御座を奪う、そのようなバベル的高慢に生きることはないからです。全く逆です。父と子がどれほど深い愛と信頼に結ばれているか、それがこの福音書を読むとひしひしと感じられます。主は言われました。「 わたしと父とは一つである」(10:30)。こうも言われました。「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」(5:30)。こうして、父に徹底的に服従されたのです。それが神の子の道でした。ペトロだろうと誰であろうと、罪人にはついて行けない道を主は進まれます。どんなに避けたいことであっても、父のご命令に従って御自身を犠牲とされる道です。
 父にだけではない、この愚かな私たちよりも低くなられ、僕となってくださって、御血潮をもって、私たちの「内なるコロナ」を洗い流してくださる。その洗足に代表される僕の道を神の子は歩んでくださるのです。そうやって神と隣人とに結ばれる「交わりの家」教会を、私たちがみなしごでないことを知る家を、主は用意してくださる、作り出してくださるのです。

 もう一つ説明を加えれば、主は「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(14:3a)と言われました。主は十字架、復活を経た昇天後のいつ戻ってきてくださるのでしょうか。これは私たち少し長く教会に来ている者たちは、終わりの日に起こる主の再臨の時のことだと思いがちです。それも含まれているかもしれませんが、学者たちが指摘するのは、これは聖霊降臨のことを言っておられるとのことです。主の十字架と復活への道、それは「イエスは、この世から父のもとへ移る」(13:1)時です。爾来、この世では主イエスを肉眼で見ることは出来なくなります。それも弟子たちが「心を騒がせる」(14:1)理由となりましたが、しかし御子は、そんなに心を騒がせる必要はないと、父から遣わされ(14:15)、聖霊として戻ってくる、そして教会という家を用意してくださる、その家で御子を肉眼で見ることは出来ませんが、聖霊として変わらず臨在されているのです。

 使徒言行録の物語では、やはり聖霊の降臨によって、教会が生まれたとあります。この三位一体の神によって用意された家、それが教会です。そこにはもう、私たちの「内なるコロナ」、その原罪の力も及ばない。十字架によって罪を赦された者同士が、どんなにその家で「三密」しても原罪の感染力は失われている。そうやって、聖霊の風が家に吹きわたり、コロナを吹き飛ばしてくれるであろう。教会とは単なる宗教団体ではありません。主が命懸けで与えてくださった、エデンの園に匹敵する故郷、原罪を寄せ付けない家です。それが今用意される、だから今の試練に弟子たちよ、堪えて欲しい。半世紀後のヨハネ教会も耐えて欲しい。人間にとって教会ほど素晴らしい居場所はない、そこに互いに深い愛に結ばれた「三密」の神がおられる。その「三位一体」の神の愛の交わりの中に、私たちも招かれるです。今、なお体は離されている主日ですが、それでも霊によって、教会という家で私たちも神に倣って「三密」をする、それには変わりがない、一人ではない、みなしごではない、その励ましを受けましょう。

祈りましょう。 主なる父なる神様、御子が用意くださったこの家の恵みを、今ステイを強いられている自分の家にも満たすことが出来ますように。そこで自分が神になる道を退け、あなたのみを拝しつつ、愛と赦しに満ちた家庭を築くことが出来ますように。そうやって、私たちの家を崩壊から守ることが出来ますように、聖霊様の風を吹きわたらせてください。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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