2020年4月5日 主日朝礼拝説教「僕となられた主・イエス」

エゼキエル16:1~9 ヨハネ福音書13:1~11  山本裕司 牧師

「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(ヨハネ福音書13:8)

 私たちは、この棕梠の主日に真に相応しい、ヨハネ福音書の「洗足」の記事を、今朝、読むように導かれました。主イエスが弟子たちの足を洗われた「最後の晩餐」は、ヨハネ福音書においては、過越祭の前日、初春の木曜日のことでした。その次の日、過越祭の初日の金曜日は、モーセの昔、イスラエル解放のための犠牲の動物を思い起こす日でした。ヨハネ福音書冒頭、洗礼者ヨハネが、イエスが来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(1:29)、そう指差しましたが、この小羊こそ、ユダヤの過越祭当日に屠られる犠牲のことです。この洗礼者ヨハネの呼び掛けの通り、祭りの初日、主イエスは神の小羊として、十字架につかれ血を流されたのです。そうやって、主イエスは、金曜、既に救いの力を失っているユダヤの過越祭を、御自身で更新すると、その時、屠(ほふ)られるのは、もはや動物ではない、御自身が小羊として犠牲となられ、全人類の過越を成就される、その時が来たのを悟りました。その時、主イエスの心を満たしたのは何か、恐怖であったのか、嘆きであったのか、そうではない。愛であった。そう福音書は書くのです。13:1「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」

 しかもその愛とは、「この上なく」とあります。言い換えれば「極限の愛」です。それは、空間的に言えば、私たちが道に迷い、ついに地の果てを彷徨(さまよ)っても、あるいは陰府の底に落ちても、主は探しに来て下さる。そのような空間的な極限の愛です。また時間的に言えば、その愛は一時的ではない。それに対して、私たちの愛は、一時、燃え盛ってもやがて灰となるのではないでしょうか。しかし主の愛は永遠です。ミディアンのモーセが見出した柴のように燃え尽きない愛です。そのような空間的にも時間的にも極限の愛で、主は弟子たちを、つまり私たちキリスト者を愛されました。こうヨハネ教会が語る確信を、聞いただけでも、今、ヨハネ教会から時間的には、2000年が過ぎ、空間的には、何度日曜日を迎えても、西片町教会礼拝堂と遠く離れていなければならない、私たちは励まされるのではないでしょうか。それでも、私たちは一人ではないと、この主の極みの愛は、春の日差しのように、今朝もまた私たち一人一人を照らしている、そのことに変わりはないからです。

 13:1「さて、過越祭の前のことである。イエスは…世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」

 この愛を証しするために、主は洗足をなさいました。そして、これは明日、主が十字架につき、正に極限の愛を世に現す、その先取りであります。それが、13:4a「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ…」この主の身繕いから分かると注解にありました。それによると、この「上着を脱ぎ」の「脱ぐ」(ティセーミ)とは原文のギリシア語では、既に読んだヨハネ福音書10:11に表れる動詞です。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」その「捨てる」という言葉が、ここであえて使われました。上着を脱ぐ、そこで暗示されていることは、命を脱ぎ捨てる、十字架のことです。
 また、13:4b「手ぬぐいを手に取って腰にまとわれた」とありますが、その姿は、奴隷の身なりであった、特に、その身なりでなされる洗足は、ユダヤ人が差別していた異邦人奴隷の仕事であった、そういう注釈もありました。先生(13:13)であり師(13:14)である「主」イエスが、最も低い異邦人、その僕の姿となられて弟子たちの足を水で洗われた、そして翌金曜に起こることは、もはや水ではない。御自身の血潮によって、もはや足でもない、私たちの最も汚れた魂を洗って下さる、それが主の十字架の意味なのだと、予め教えて下さるのです。

 今朝、もう一箇所、旧約エゼキエル書16章(旧1315頁)を読みました。預言者エゼキエルの見る、乙女エルサレムとは、元々、イスラエルの血統ではないと書いてあります。16:3、お前は、異邦の地カナンで生まれ、父はアモリ人、母はヘト人という異邦人であった。そういう、血筋においても、無価値なお前の臍の緒を切る者はいなかった。血まみれなのに、水で洗ってくれる者もいなかったのだ。布にくるんでくれる者もいなかったのだ。しかし、主なる神が憐れまれ、血にまみれた捨て子に向かって「生きよ」と祝福の言葉を与えて下さった。やがてエルサレムが乙女に成長した時、神はその裸を美しい衣をもって覆い、16:8、エルサレムは「神のもの」となった。こうしてお前は非常に美しくなり女王のようになった。16:15「それなのに」と主は言うのです。「花嫁エルサレムは、その美しさを頼みとして、自分の名声の故に…背信の乙女となった。」もうこの後は読むのに耐えない。この上なく堕落した女の姿が描かれます。どうしてこうなったのか。美しさを誇ったからです。その高慢によって、人は神の恩を仇で返すようになった、そう嘆かれているのです。

 ヨハネ福音書に戻ると、シモン・ペトロの番となると、彼は、13:8a「わたしの足など、決して洗わないでください」と拒みました。その気持ちはよく分かると思います。師であり、主であられるイエスの平身低頭の姿を見ることは、我慢がなりませんでした。それは弟子である自分自身の値打ちも下げることだったのです。私たちは自分の先生が偉くなっただけで誇るようなところがあります。弟子の身分もそれと連動するからです。ルカ福音書22:24では、よりによって、この「最後の晩餐」で、使徒たちが、自分たちのうちで誰が一番偉いだろうか、そういう議論をしていたと書いてあります。その議論の火種は、その晩餐の席順の問題であったと、つまり誰が上座か、下座か、そのもめ事に端を発していたのではないかと、推測する注解者もありました。日本の国会も席が決まっていて、議事堂の最も低い前方から当選回数の少ない順に並ぶらしいのです。そして、一番後方の高みに大臣経験者など大物が腕組みをして見下ろしている、そういう情景をテレビで見ます。使徒たち(つまり後の教会指導者)の心も同じであったとルカは書くのです。その価値観のまま、偉い人とは、メシアとは、王とは、いつも高い所、上座に君臨し、力を持って下々の者を支配する存在であるという、私たち人類に普遍的な理解に、弟子たちも捕らえられていると言われるのです。

 ヨハネ13:2「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」なおこの時点では、躊躇していたかもしれない、裏切りを、ユダに決断させたのは、やはり洗足だったのではないでしょうか。僕の姿を取って、低きにくだり、自分たちの汚い足を洗うイエスが、自分の描くメシア(キリスト)像と正反対だと知った時、彼は、主が脱がれた衣のように、主を捨てたのです。

 しかし主イエスはその裏切りの罪を犯す弟子たちを、この上なく愛すると、この福音書第二部、その冒頭13章1節で、真っ先に言って下さったのです。そして、13:7、この世の席順に囚われ、洗足の意味がまるで分からない、弟子たちの足を洗って回られる。その時間的にも「変わらない愛」と、どんなに逃れても「追ってくる愛」、その極限の愛以外に、この弟子たちを救う道はなかった。洗足の意味、その謙り以外に、教会が隣人を真に生かす道はないということを、弟子たちに理解させるために、主は僕となられ、最も低く、身を屈められたのです。主の洗足の意味、それが高ぶる弟子たちに、13:7「今…分かるまいが、後で、分かるようになる」、そのために、主は「模範を示した」(13:15)のです。

 今、主の愛したのは弟子たちだと言いました。しかし、その13:1b「世にいる弟子たち」という、その愛の対象を示す原文には、「弟子」という言葉はありません。「世にいる自分の者たち」が直訳です。私たちのことです。私たち洗礼を受けたキリスト者とは、「キリストのもの」という意味だからです。そして、私は先ほどのエゼキエルの預言を思い出すのです。16:8(旧1316頁)、主なる神は、血まみれの裸の捨て子と契約を結び、お前は16:8b「わたしのものとなった」と言って下さった、そして水で洗って下さったと続きます。それは洗礼を思い起こす言葉ではないでしょうか。
 ヨハネ福音書13:9の洗足の時、ペトロが、「主よ、足だけでなく、手も頭も」と求めたところ、主が「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」と言われました。これに関して、土戸清先生は、これは間違いなく「洗礼」のことを指していると断言されます。それは、洗礼は「一度だけだ」という意味が含蓄されていると。主イエスが愛の極みをもって、一度、私たちの罪を洗って下さったのなら、人は、再び、それを受ける必要はないと言われているのです。主の愛が凝縮している洗礼が、いかに重要であるか、生涯たった一度で、13:10「全身を清くする」、それほどの救いなのだと、ヨハネ教会はこの、十字架の贖いを指し示す洗足の掛け替えのない恵みを暗示しているのです。

 それほどの愛を受けたのに、そしてその洗礼式では、私たちも主を、いつまでも、どこででも、愛すると誓ったのに、私たちの愛は直ぐ変質する。教会からもどんどん遠く離れる。しかしその時間的にも空間的にも、罪を犯す私たちのために、この夜、主は上着を脱いで下さるのです。エゼキエルの預言には、そうやって、姦淫の罪を犯したエルサレムを神は怒り、着物を剥ぎ取るという情景がありました。つまり預言者に言わせれば、神に対して心変わりし、遠くに離れ去った、私たち罪人が衣を脱がねばならなかったのです。元々、異邦の野の捨て子であった、その裸に戻らねばならなかったのです。ところが、その裁きが下されようとした時、上着だけではない、下着も何もかも剥ぎ取られたのは、弟子ではなかった、命を剥ぎ取られたのは、私たちではなかった。先生であり、師であり、主であるイエスであられた。

 金曜日、主はそうやって、過越の小羊になられた。私たちがエゼキエルの神がそうであったように、天的怒りに打たれねばならなかったのに、その前に立ちはだかるようにして、その怒りを一身に受け止められ、犠牲となって下さった、そうやって、私たちの罪に対する神の裁きを、過ぎ越して下さった。私たちの汚れを、御血潮をもって、洗って下さった、そうやって、ただ恵みのみによって、13:10,私たちの全身を清くして下さった。それが洗足の主です。
 今朝、その事実を知った私たちは、聖霊の力によって、二度と神様に対して心変わりしない、遠く離れたりしない、主が身を以て私たちに示された、愛の極みに少しでも応えたい、そう願う。

祈りましょう。 主なる父なる神様、人を愛して、極みどころではない、僅かに愛しただけなのに、その報いがないと、もう許せないと、退ける、その心の貧しさを覚えます。どうか、主が示された愛と謙遜の限りを尽くされた洗足の心を、この棕梠の主日に、私たちも模範とすることが出来ますように。自分では出来ません、そのために、どうか聖霊を雨のように注いで下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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