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2020年4月26日 主日朝礼拝説教「裏切りの夜に勝つ復活の朝」

2020年4月26日 主日礼拝説教「裏切りの夜に勝つ復活の朝」

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ヨハネ福音書13:21~30(新195頁) 説教者 山本裕司 牧師

「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」(ヨハネ福音書13:30)

 今朝、私たちに与えられたヨハネ福音書13:21は「イエスはこう話し終えると」と書き始められていました。何を話し終えられたかと言うと、それは先週読みました、13:20です。

「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 ここで主は「はっきり言っておく」と前置きされました。原文は「アーメン、アーメン」(本当の本当という意味)です。主イエスは人を遣わされる、それは弟子たちのことです。また後の時代の教会長老や教師のことです。主の御昇天後、世に残され教会を建てるために主から選ばれた者たちのことです。この福音書では、特に「ヨハネ福音書」を書いたヨハネ教会の指導者たちこそ、主が伝道のために遣わされた人々です。主はその教会長老を受け入れる人は、主イエスを受け入れることと同じなのだと言われました。イエス様を受け入れるということは、イエス様を聖人や王様として受け入れることでは決してありません。この直前に主イエスは言われました。「『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」(13:19b)。「わたしはある」とは神の御名です。「イエスは神ご自身である」、そのことを一所懸命伝えている伝道者を受け入れなさいと、それが御子イエスと、御子をお遣わし下さった父なる神を受け入れることになる、そう主は話し終えられました。しかしその時の主イエスのお気持ちというのは穏やかでなかったのです。
 
「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』」(13:21)

 注解者は、この心騒ぐ主イエスのお姿は、この福音書を書いた半世紀後のヨハネ教会の人々と重なると指摘します。当時、ヨハネ教会は迫害下の地下教会として命脈を保っていました。そして聖餐を守ることを何よりも喜びとしてきた。しかし、その共に聖餐に与ってきた者たちの中から裏切り者が出るという痛烈な経験をしたのです。それが、13:26ですが、主はワインを浸したパンを弟子ユダに与えることによって、彼が裏切ることを示されました。同じことが半世紀後のヨハネ教会でも起こっていたと推測されるのです。しかもその者は、普通の信徒だったというのではなくて、ユダがそうであったように、教会長老や伝道者であったのかもしれないのです。

 イエス様は預言された。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(13:21b)。お弟子たちは互いに顔を見合わせていた。誰がそれと分からないのです。イエス様がヒントをいろいろと与えられる。「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ…」(13:26)、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(13:27b)、そうユダに言われました。ところが座に着いている弟子たちは「なぜユダにこう言われたのか分からなかった」(13:28)そしてある者は「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思ったのです(13:29)。誰もユダが裏切るとは想像することが出来なかったのです。ユダは会計係でした。会計は一番信頼されている人がなるものです。またユダは特にいつも正論を述べる優れた弟子だったのではないでしょうか。

 この「貧しい人に何か施すように…」(13:29b)という弟子たちの言葉から連想されるのは、ヨハネ福音書12章(新191頁)の、ベタニアでの香油の出来事です。マリアが深い愛を込めて高価なナルドの香油をイエス様の足に塗りました。それは一人の年収に等しい値打ちだったのです。ユダはその時、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」そうマリアを咎めました。これは正論ではないでしょうか。しかし福音書記者は「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」そうユダの本心を明示しています。13:29の弟子たち同様、弟子なら誰も否定出来ない、貧しい人への配慮を訴えながら、実はその目的は別のところにある、実は、貧しい人のことなど何も考えていなかった、そう指摘されるのです。

 先ほども引用しましたが、13:20、主の御言葉を、三段論法で言えば、主の弟子を受け入れる人は、主イエスご自身を受け入れ、そして、天の父なる神を受け入れることとなると。このように、神と直結するのが弟子です。教会長老です。それは何という身に余る光栄でしょうか。その中でも特に雄弁な弟子ユダを、誰が疑うでしょうか。

 しかし主イエスは違いました。何故なら、イエスは「わたしはある」と名乗ることが出来る神ご自身だからです。「人は目に映ること(上辺)を見るが、主は心によって見る」(サムエル上16:7b)と旧約聖書は語ります。

 戻りますと、ヨハネ13:21(新195頁)、再び主は「はっきり言っておく」「アーメン、アーメン」(本当の本当)と言われました。神と結ばれているはずの弟子の「一人がわたしを裏切ろうとしている」(13:21b)。これこそが、隠されてきたユダのアーメン・本心だと主は断言されたのです。「何でもお見通しさ」と得意になって言われたのではありません。「心を騒がせ」(13:21a)て言われたのです。狼狽とも恐れとも訳せます。主イエスにとって、人の「アーメン」の心が見えてしまうことは、恐怖以外の何ものでもなかったのです。
 それに比して、私たちは何ともないのです。上辺だけの正義を振りかざし、偉そうなことを言って議論を支配する。しかしそれを言うのは、正義とあべこべの暗い動機が隠されている。それでいて、そんなことは皆がやっていることだと、「大人」になるとはそういうことだと、何の後ろめたさも感じない。あるいは自分でさえもその深層心理に気付かずに、相変わらず、自分は義人だと思っているかもしれません。使徒パウロは言いました。「義人はいない、ひとりもいない」(口語訳・ローマ3:10)と。私たちの心の底にあるユダ的罪が、主を十字架に付けたのです。主がその私たちの心の奥底を見た時の、恐怖心を私たちが本当に知った時、初めて私たちもついに本気で、「アーメン」の心をもって、悔い改める人になれるのではないでしょうか。

 「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」(13:30)。最後の晩餐であったのだから、夜であるのは当然かもしれません。ただでさえ暗い一室で、外に漏れないように、小さな灯火を灯しながらの聖餐であったかもしれない。讃美歌を大声で歌うことも、今の私たちのように、はばかられる教会です。その小ささ低さに希望も未来も感じられなかったのでしょうか。何よりも大事なことは、イエスが「わたしはある、わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)とのあのモーセが神から教えて頂いた、神と一体であるという「アーメン」です。最も小さく低くなられた洗足の主が、十字架の主が、天地創造の神と一体であられる、それにどうしても「アーメン」をもって応え切れなかったのです。その不信仰を、ヨハネ福音書は「夜」と呼んだのです。教会長老の一人が聖餐を抜け出して当局へと急ぐ。闇は疫病のように拡がり感染していく。「あなたのためなら命を捨てます」(13:37b)と立派な言葉を持つペトロもまた、やはり上辺だけであったことが暴露される。繰り返します。13:20、弟子とは、御子と父と結ばれていると言って頂いたのに、皆「上辺の人」だったのです。地下教会は崩壊寸前までいったかもしれない。そのいう夜の物語であります。

 「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」(13:30)、「夜」とは、ヨハネ福音書において「ヨハネの夜」と呼ばれるほど含蓄のある言葉だと指摘されます。例えば、ずっと戻ってしまいますが、3:1以下(新167頁)、議員ニコデモがイエス様を訪ねたのも、「ある夜」(3:2)と書かれてあります。彼はイエス様を深く尊敬しています。しかし主イエスは「天から降って来た者」(3:13)、神的権威を持つ「人の子」、さらに「独り子」(3:16)と、神と一体であられることが明らかになる。しかしニコデモにはそれがどうしても分からない。イエスを偉大な教師とは理解出来る、しかしヨハネは、それも不信仰の夜、「闇」(3:19)だと言うのです。それだけでは、結局、「事が起こったとき」(13:19)、主を裏切る者となるからです。

 ユダがそうでした。ユダはおそらく、イエスが戦争に強いダビデ的メシア、王であると期待したのだと思います。それもまた夜なのです。人を真実に照らすのは「わたしは世の光である」(8:12)と宣言された主イエスです。その自己紹介の補語「世の光」を取れば、「わたしはある」との神の御名がここにも出現する。上辺だけ輝くような神でない。イエスは、跪いて弟子たちの足を洗い十字架につかれる。そのような僕の姿をおとりになる。しかしそのお方こそ、その本質において「わたしはある」と名乗ることが許される唯一の御存在、神御自身であられ、だから同時に、永遠の命を有する復活の主であられる。それを信じる信仰のみによって、私たちはついに夜を超えて、朝を迎えることが出来るのであります。

 今朝の説教題を私はこの復活節に合わせて「裏切りの夜に勝つ復活の朝」としました。その題に従って、復活の物語をここで思い出したいと思いますが、それは20:1(新209頁)から始まります。私たちは、復活の物語は朝から始まると思っています。他の3つの福音書がみなそうだからです。ところがヨハネ福音書は「まだ暗いうちに」(20:1)と始まるのです。それはマグダラのマリアの希望なき夜の心を表すのです。そして「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」(20:9)。その弟子たちの不信仰の「暗さ」が続きます。そして、20:19(新210頁)は、その日曜日の夕方ですが、そこでも指摘されるのも、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」そこにあるのも、復活を信じることが出来ない、弟子たちの夜の心です。この不信仰こそ、私たちの現実です。

 それにもかかわらず、復活の主は諦めない、そういう話になっていくのです。先生が出来の悪い生徒を馬鹿にして匙を投げる、そういう教師の上から目線ではない。洗足の主は、不信仰な私たちに僕のように仕えて下さるのです。何とか真理へ目を開かせようと、弟子たちを訪ねて下さる、空の墓を見せて下さる。墓前で泣くマグダラのマリアに、夕べの弟子たちの前に現れて下さる。この上ない愛の故に(13:1)。そしてご自身の手の釘跡と脇腹の傷口に、不信心の代表、後に「疑い深いトマス」と呼ばれる彼の手を入れるように促すのです。本当は、見ないで信じることが幸い(20:29)なのに、弟子たちが一歩でも光の世界に踏み出してくれることを願って。ある意味妥協です。釘跡と脇腹をせっせとトマスに見せて下さったのです。主は真の教育者でもあられると思います。赤点ばかりの教え子を何とか引き上げようとして下さるのです。

 そうやって、福音書は21章(新211頁)を迎える。ティベリアス湖畔で、3度目ですが、復活の主は諦めずまた弟子たちに会って下さる。もう詳しく話すゆとりはありません。「その夜は何もとれなかった」(21:3b)とあります。虚無の夜です。しかしその直後「…イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」(21:4)、未だ、イエスの真実が分からない。しかしそれでも福音書記者はついに「既に夜が明けたころ」(21:4a)と、おそらく歓喜して綴ったと思う。そしてイエス様が岸辺で、せっせと炭火をおこし、魚を焼いて下さり、パンも用意して下さる。それから弟子たちを迎える。イエスは「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(21:12a)と言われた。その時、ついに福音書記者は、もう晩餐ではない、「朝食」のことを書いた。だからもう「弟子たちはだれも『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」(21:12b)。ついに弟子たちに確かなる三位一体の信仰と復活信仰が生まれた。それを「朝」と「光」と、ヨハネ福音書は喜びに溢れて呼びました。

 思い返せばこの福音書冒頭は「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」(1:5、共同訳)です。洗足と十字架の主が、ついに、このどうしようもないう私たちの原罪の「夜」に勝った。復活を信じられない、だからイエスが「わたしはある、わたしはあるという者だ」、その神と一体のお方である、それにアーメンと応えられなかった。その不信仰の夜が、ついに終わった。朝が夜に勝った。主がもう上辺だけでない、私たちの心の奥底まで支配して下さる、「アーメン、アーメン」、本当の本当の信仰が私たちにも生まれたのです。

 ヨハネ教会は、指導者の裏切り脱落によって、瀕死の状態に陥っていました。しかしそのような夜、イースターを迎える度に、彼らは自分たちの編纂したヨハネ福音書を何度も読んで甦る経験をしたと思う。今、私たちも新型コロナウイルスのために先の見えない夜の中にありますが、そこにも復活の主は来て下さる、望みを失う不信仰の夜の中にも、復活の主は来て下さる。1度しかしないよとは言われない、何度でも訪ねて下さる。その主の愛が書かれている、偉大な書・ヨハネ福音書を何度でも読んで、私たちも朝を迎えたいと願う。

 祈りましょう。 主なる神様、私たちの裏切りの罪を、御子イエスの十字架の故にお赦し下さり、御子のお甦りの光で、私たちの心の奥底までも照らして下さった、その恵みに感謝します。もはや上辺だけではない、アーメン、アーメン、本当だ、本当だと御子から呼んで頂ける、信仰者に私たちを変えて下さい。主の御名によって祈ります。アーメン!!


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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