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2020年4月19日 主日朝礼拝説教「復活信仰の力」

2020年4月19日 主日朝礼拝説教「復活信仰の力」

https://www.youtube.com/watch?v=RXEpLyzippM&t=1s

ヨハネ福音書13:12~20  説教 山本裕司 牧師

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ福音書13:15)

 今読んでいますヨハネ福音書13章より、主の御受難と復活を主題とする、ヨハネ福音書第2部に入りました。主はこの受難週に最後の晩餐を開いて下さり、そこで弟子たちの足を洗って下さいました。それは当時の奴隷の仕事であり、この福音書13:13にあるように、「先生」とか「主」と呼ばれるイエスの振る舞いに、弟子たちは大変戸惑いました。偉い人とはいつも上座に君臨し、自らが享受している平和や富を下々に「トリクルダウン」する、それが古今東西の王の振る舞いだったからです。この「トリクルダウン」という言葉を現政府はその初期に主張していたように記憶しますが、今は何も言いません。「トリクルダウン」とは、「富裕層や大企業が豊かになると、富が国民全体にしたたり落ちる(trickle)」という仮説だそうです。そうであれば偉い人は頂点にいて頂かなければなりません。この発想は封建主義や身分制を思わせますが、それがこの民主主義のはずの現在でも平気で主張されたのです。それほど、偉い人は上座に着く、それは大昔から今に至るまで人類普遍の原理となっているのではないでしょうか。
 しかし主イエスはまるで逆の姿、洗足を行って下さり、弟子たちに「模範」をお示し下さったのです。ヨハネ福音書13:14~15「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。/わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」この「下」からのあり方が、真の平和と富を、全ての人に行き渡らせる、唯一のやり方であると言っておられる、そう確信します。

 この洗足の記事の中で、特別に取り上げられる弟子こそユダでした。その時代、ユダヤをそれこそ頂きから支配しているのがローマ帝国でした。しかし、師イエスこそがそれに勝る高き軍馬の上からローマを見下し駆逐する。そうやって平和と富をユダヤに「上から」回復させる、そうユダはイエスに期待をかけていました。しかし今朝の御言葉を解説してある牧師は、互いに仕え合う心を失った歴史で起こったことはこうだと指摘されています。それは民を飢えさせていながら王宮で暮らす王を革命家は怒り、王を追放する。そうやって新しく国家元首となった元革命家が、今度は取って代わって高く聳える王宮に住むというような歴史が繰り返されてきた。しかもその時、以前の王以上に悪政を行うということが、近代、現代で絶え間なく生じてきた。これは古代社会の話だけでないということです。しかもこのことは、いまなお私たちのごく身近な組織において、また広く地球規模でなされている。ところが2000年前の王制や奴隷制が当然のこととされていた古代社会において、主イエスは本当に驚嘆すべき模範を示されたのです。」そう先生は書きました。本当にそうだと思いました。

 しかし、いつも「上」を目指す私たちには、結局この「下からの模範」の意味が分からないのではないでしょうか。ユダに裏切りを決断させたのは、やはり洗足だったと思います。僕の姿を取って自分たちの汚い足を洗うイエスが、トリクルダウンの思想に取りつかれていたユダは、これはダメだと、裏切りを決断する他はなかったのです。

 今朝与えられたヨハネ福音書13:18bにこうありました。「『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。」主がここで引用された詩編41編10節の原文はこうです。「わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。」ユダに代表される私たちの心は威張っているのです。高く立って人を足蹴にするのです。それが自分を生かす、平和と富をもたらす強さだと思うのです。しかし、その御自分を足蹴にする、文字通り汚れた私たちの足を主は跪いて洗って下さるのです。足蹴にするとは主を十字架につける罪のことです。主は自分を十字架につける者の罪を、御血潮をもって洗って下さるのです。それこそが洗足が指し示す洗礼に込められた恵みなのです。

 私は、このヨハネ福音書は紀元30年の主イエスの物語と、紀元80年頃のヨハネ教会の戦いを重ね合わせて描いていると、こまれでも説明してきました。この晩餐における洗足の記事は、その時代のヨハネ教会の聖礼典・聖餐と洗礼が二重写しとなっているのです。この古代ユダの歴史とは、それこそ力を求める弟子ユダのあり方そのものでした。それは紀元70年頃、ローマ帝国からの独立を求めるユダヤ戦争となったのです。その悲惨を極めた戦争は、ローマ軍のエルサレム占領と神殿の破壊をもって終わりました。その時、炎上する都エルサレムからヤムニアに逃れた指導者たちは、そこでファリサイ的律法主義を統合の要とする、最高法院(サンヘドリン)と会堂(シナゴーグ)を据えました。それによってユダヤ教と民族互助を確立したのです。その会堂の中にはやはりエルサレムからの逃れて来た、主イエスを信じるユダヤ人たちも加わっていましたが、やがてサンヘドリンは、イエスへの信仰を異端と定め、ナザレ派を会堂から追放したのです。神殿と都を失ったユダヤ民族にとって、会堂こそ霊的にも肉体的にも命の砦でした。その共同体からの追放とは、ユダヤ人にとって死に等しいことだったのです。それに耐えるためには、まさにラザロを復活させた主の言葉を信じる他はなかったと思います。ヨハネ11:25「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」この御言葉を頼りとしてキリスト者ユダヤ人たちはヨハネ教会を建て、このヨハネ福音書を書きました。ですからこの福音書の至る所に、ヤムニアの最高法院や会堂との激しい葛藤、戦いによって生じた傷跡が刻み込まれているのです。

 それは例えばヨハネ福音書9章に見られます。生まれつきの盲人が主イエスによって目を開いて頂きました。それは肉体的な目が開いたと言うより、イエスが「世の光である」(8:12)事実を見る、その信仰の眼差しが開いたことを意味します。今朝の箇所で言えば、13:19「『わたしはある』(この神の御名を持つのがイエスであるということを)あなたがたが信じる」、その信仰の眼差しが開いたということです。その時かつての盲人とその両親に会堂のユダヤ人は尋問しました。両親は誰によって息子の目が開かれたか知っています。でもユダヤ人にその事実を言えません。そこを読んでみましょう。9:19b(新185頁)「それが、どうして今は目が見えるのか。」と問う会堂のユダヤ人に対して、両親は、9:21~22「…だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。…/両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。」
 つまりこの両親は主イエスをもう信じ初めていながら、会堂追放を恐れて隠れキリシタンのようになった、そのヨハネ教会の時代の人たちを代表するのです。しかしそのような会堂内の隠れナザレ派を、最高法院はかつて徳川幕府が踏み絵を用いたように、18祈願を用いて摘発したのです。そうやってキリスト者であることがばれて追放された者も多かったのです。あるいは、目を開いて頂いた息子のように、9:38「主よ信じます」と告白して、9:34b、35a「外に追い出された」者もいました。それら寄る辺なきユダヤ人を集めてヨハネの群れは、洗礼と聖餐を中心とする教会を形成していったのです。ユダヤ共同体を失ったユダヤ人たちにとって、ヨハネ教会に入会出来たことは、どんなに嬉しいことだったでしょうか。

 しかしそうやって洗礼と聖餐、つまりその源流である洗足と晩餐に与ったとも言えるヨハネ教会員の中から裏切り者が出る、その痛烈は事件と、弟子ユダの姿とを重ね合わせてここで物語ろうと福音書はしているのです。そして裏切りは決して50年前の受難週にだけ起こったのではない、今のヨハネ教会において、13:18「わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった」、それが起こっていると言うのです。50年前のユダのように、御受難のイエスに似て、弱く貧しい底辺組織ヨハネ教会に失望して、去った者たちもいたと思います。あるいはヨハネ福音書16:2で主はこう預言されました。追放されるだけじゃない。「しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と。その死の恐怖に負けて、会堂に復帰した者も多かったと思います。復帰するためには、彼らのいわば踏み絵である、18祈願の中の第12を会堂で声に出して祈らねばならなかったのです。「ナザレ人たち(つまりキリスト教徒たち)は瞬時に滅ぼされるように。彼らは生命の書から抹殺されるように。」この呪いの祈りを捧げて会堂に戻って行ったのです。そして遠藤周作さんの『沈黙』でも描かれていたように、ついに踏み絵を踏んだ宣教師たちが、一転して幕府の隠れキリシタン摘発の協力者となった、それと同様に元ヨハネ教会メンバーが、最高法院による教会弾圧の協力者となった。そのことをもって自分が本当に転向したことを証明した者もあったと思います。まさに裏切りです。そうやってヨハネ教会の人々が夜密かに集まって祈っていたアジトが、共に聖礼典に与った教会員によって密告される。それがユダの姿と重なるのです。ユダは、18:1以下(新203頁)ですが、主が弟子たちと祈りの場としていた園を当然よく知っていました。そこに弟子ユダは兵士や、サンヘドリンの下役たちを引き連れてきて主を逮捕させたのです。ヨハネ教会においても、弟子に匹敵する牧師か長老が密告者となった、その痛恨の経験をしたと想像されるのです。それを見て多くの信徒も雪崩を打って脱落した。そのような教会壊滅の危機的時代に、このヨハネ福音書は教会員を励ますためにも編纂されたと考えられています。50年前、主イエスはユダの裏切りの時何と言われたか、今こそ思い出そうではないかと。その心をもって、この福音書の受難物語は書かれたと言われるのです。

 弟子の中から裏切り者が現れる、そうであればその弟子を選んだ主イエスの選びに問題があったのでしょうか。時々、大臣が不祥事を起こすと首相の任免責任が問われますが、これはイエスの任命責任、つまり主が人を見る目がないことが、このような結果を招いたのでしょうか。そうではないと主イエスは言われたのです。13:18(新195頁)「わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。」ユダだけではありません。ペトロも他の弟子たちも裏切ったのです。主イエスは洗礼を受けても聖餐にあずかっても、いざとなれば主を裏切らずにおれないのが弟子たちである、それを知っておられたのです。知っておられたから、主は洗足をここで予めして下さったのです。主が身を低くするとはそのような意味なのです。高い所に君臨して駄目な部下を見下しさっさと裁き切り捨てる、そういうやり方ではなくて、その駄目な弟子より背を低くしてその汚れた足を洗って下さる。主は弟子の失敗を全て自らが負って下さる。つまり僕となって下さるのです。そのような意味で、最初から任命責任を取って下さっていのです。それが十字架の意味です。洗礼を受けた時はあんなに喜んだのに直ぐ心変わりする、そういう身勝手な私たちです。そのことを百も承知の上で、その罪人の責任を全て負って下さる、その御覚悟の上で私たちを主の民として選んで下さったのです。そうやって私たちの生き方の模範を示して下さったのです。
 13:14~15「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。/わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」

 自分が自分の王様である、自分の快不快が行動原理の上から目線、そのような生き方ではなく、たとい自分が損をしてもヨハネ教会に踏み止まって、主と教会と隣人に仕えて生きて欲しい、その自らを低くする生き方は結局決して損ではないと主は教えて下さっているのです。13:17「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」と。会堂の18祈願ではキリスト者は呪われると言われるが、主はそうではない逆だと、幸いだと、祝福だと約束されます。さらに模範の勧めとは、十字架の主を模範とすることで終わるのでは実はないのです。十字架の後に復活する主を模範とすることでもあるのです。本当に高く上りたいのなら先ず低く下りなさいと、そこに真の平和と富がこの世に「ボトムアップ」される。

 だから私を模範として少しでも変わって欲しい。あなたたちの場合は一方的に清い人が汚い人の足を洗うのではない。皆、どこかで神を裏切って生きているのだから、威張らず、13:14「互いに足を洗い合わなければならない」、それが教会ではないか。洗足とは赦しであり愛のことです。互いの弱さ、罪を、赦し合い、愛し合う時だけ、教会はこの崩壊の危機に耐えることが出来る、それ以外に方法はない。そうすれば呪いではなく、幸いと栄光の道を歩むことが出来る。復活という最も高くなる道を上ることが出来る。そうこの主の御言葉をもってヨハネ教会は生き延びたのです。西片町教会もこのヨハネ教会の伝統を受け継いだのです。主を模範として生き抜きましょう。

祈りましょう。 主なる父なる神様、私たちは今ウイルスによって危機的状況にありますが、この時こそ御子を模範として、互いに僕となって仕え合うこと以外には、教会を守る術はないことを心に刻む者とならせて下さい。その末に私たちもまた高く上げられる復活へ至ることを信じることが出来ますように。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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