2020年3月8日 主日朝礼拝説教「平和の王イエスが来る」

ヨハネ福音書12:12~19 ゼカリヤ9:9~10 山本裕司 牧師

 「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、/なつめやしの枝を持って迎えに出た。」(ヨハネ福音書12:12~13a)
 
 私たちは、今、40日間に亘るレントの期節を過ごしています。この暦の変わり目の期節に、ずっと読んできたヨハネ福音書もまた「時」の大きな変わり目を語る箇所に至りました。それが暗示されているのが、先ほど朗読頂いた、ヨハネ福音書12:16「イエスが栄光を受けられたとき」という言葉です。これまで、この福音書は、「時は来てない」という意味を、要所要所に置いてきました。例えば7章において、仮庵祭が近付いた時、主の肉の兄弟たちが、この祭りの機会に、都エルサレムに上り、御自身が存在をはっきり示しなさいと、求めた。その時主イエスは「わたしの時はまだ来てない」(7:6、10)と二度繰り返されたのです。しかし主イエスは、この過越祭の時、都エルサレムに上られます。それは先に、弟たちが、公に御自身を世に示しなさいと求められた、それを実行されたのです。時は満ちたからです。
 その時、大勢の群衆は、12:13「なつめやしの枝を持って迎えた」とありました。この植物の名は口語訳では「棕櫚」と訳されました。そこから受難週初日を「棕櫚の主日」と呼ぶ教会暦が生まれました。この主が都に入城された時、枝が道に敷かれたという言葉が他の福音書にもありますが、何の植物であったかが書かれてあるのは、このヨハネ福音書のみです。
 この「なつめやし」に関して注解者が参照することを求めるのは「マカバイ記」です。新共同訳聖書「続編付き」に収められている、聖書正典に準ずる文書です。紀元前2世紀、シリアから悪の元凶アンティオコス・エピファネス王が現れ、ヘレニズム文化を強制しました。そしてユダヤとその宗教を徹底的に弾圧したのです。アンティオコスはエルサレム神殿を略奪し、聖所を汚しました。さらに王は、〈エルサレムに2万2千の兵と共にムシア人アポロニオスを派遣した。アポロニオスは、エルサレムに着くと、さも友好的であるかのように振る舞い、安息日が来るのを待った。〉安息日が来た時攻撃を命じ、安息日律法のために手出しが出来ないユダヤ兵士を全員刺し殺し、女と子どもは奴隷として売り飛ばした。その大量殺戮の日、この書の題名となった男、ユダ・マカバイは10人の同士と山地に逃げ込み、野の獣のような生活を送って、時の満ちるのを待った。その間、ある母親と7人の兄弟の殉教という事件も起こりました。彼等は律法で禁止されている豚肉を食べることを強要され、一人一人、拷問にかけられる。母の面前で、豚肉を食べることを拒んだ息子たちは、身体のあちこちを削ぎ落とされ、最後はかまどの中に息のある内に入れられ焼き殺された。最後までそれを直視させられつつ、なお息子一人一人に信仰を奮い立たせ耐えるように勧めた母親も殺された。
 そのような残虐な殺戮が随所で起こった末、ついに、ユダ・マカバイが同志と共に立ち上がる。「主よ、すべての人々に踏みにじられている民に目を留め、不敬虔な者どもによって汚された神殿を憐れみ、破壊され廃墟同然の都を慈しみ、あなたに訴える血の叫びに耳を傾けて下さい。」そう祈って、彼はゲリラ戦に打って出る。それは、不思議と、連戦連勝の破竹の勢いとなった。王アンティオコス・エピファネスは怒り狂い「エルサレムをユダヤ人の共同墓地にする」と誓い、戦車隊に進軍を命じましたが、疾走する戦車から振り落とされ、あらゆる関節が外れ、その肉は生きながらに崩れた。彼は力尽き、略奪した神殿返還を約束する。しかし彼は、他人に課した同等の報いを受け、激痛の中、無惨な死をもってその一生を閉じた。そう物語の顛末が記されています。
 かくして紀元前142年、神殿と都を奪還したユダ・マカバイは大歓声に迎えられて都エルサレムに凱旋し、神殿を浄めました。まさにその時、彼は「なつめやし」の葉を高々と掲げたのです。この紀元前140年以後鋳造されたユダヤコインには、その民族独立記念として「なつめやし」が描かれています。つまり、なつめやしとは、ナショナリズムの象徴でした。
 主イエスが都に入城された時、群衆が「なつめやしの枝を持って迎えた」のは、民族的英雄ユダ・マカバイとイエスとを重ね合わせたからです。13「迎え出た」と、他の福音書にはない言葉もありますが、それは凱旋将軍が入城するのを、人々が城門の内側で待っていて迎える、その情景をヨハネは特に強調しているのです。ヨハネ福音書は思弁的、神学的な書物で、イエスの歴史的事実を伝えていないと見なされてきました。一番史実を伝えているのは、マルコ福音書だと言われています。私もそう思ってきました。ところが驚くべきことに、土戸清先生は、このヨハネが記す、イエス様のエルサレム入城の記事が、史実に最も近いことが研究によって明らかになったと指摘します。ヨハネは最古の原資料を参照したのだと。そこには、共観福音書にはない「なつめやし」とか「迎える」という言葉によって、主イエスは、まさに民族的英雄マカバイの再来として都民に迎えられた。それが歴史的事実であったと言われているのです。

 主イエスの時代、ユダヤはマカバイが戦ったシリアよりも強力なローマ帝国によって支配されていました。そのローマを駆逐する軍事的指導者としてのイエスを人々は迎えたのです。この群衆がなつめやしの枝を振って、ユダ・マカバイの再来と、主イエスを確信して出迎えた最大の理由は、主イエスが12:17「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。」このことであったと、これもヨハネは他の福音書にはないことを指摘します。まさに、あのマカバイの時代のように、ローマ帝国の支配の中で死んだようになっているエルサレムです。それを甦らせる力が、このイエスにはある。マカバイ同様に軍事力によって、ラザロのように、死んだ国を復活させることが出来る。そう歓喜する群衆を見て、ファリサイ派の人々は、12:19「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」と言って、マカバイ的英雄(と彼らが思った)イエスにかなう者はいない、世を上げてあの男について行った、そう自分たちの著しい人気低迷を歎くのです。

 しかし、ヨハネ福音書が、注意深くフィリサイ派が言葉を記すように、イエスについて行ったのは「世」であった。「世をあげて」です。これはこの世の話だとヨハネは言うのです。主イエスは、このヨハネ福音書は繰り返し「わたしはこの世に属していない。」(8:23、18:36)と表明されました。主の入城を、世をあげての出迎え、それは根本的な誤解に基づいている。従って、この棕櫚の主日から始まった受難週が終わる前に、この群衆が、手のひらを返すようにして、もう一度「世をあげて」です。こぞって、イエスを「十字架につけろ」と叫んだのです。期待が大きいほど、それに反した時、その憎しみは大きい。相手に自分勝手な理想像を当てはめ大歓迎をしますが、やがて期待外れであったことが分かった時、その人を激しく憎む、可愛さ余って憎さ百倍です。それは私たちの身近でしょっちゅう見受うけられる心です。しかしその移り気が主を十字架につけたのです。だから何も、12:19で、ここでファリサイ派の人々はそんなに心配する必要はなかったのです。マカバイ的王、それは誤解でした。しかし彼等がその誤解に基づいて言った言葉が、実は、彼も知らない内に、実は真相を突いていた。「世をあげてあの男について行ったではないか。」、そうです、やがて、罪の世が、悔い改めて、主イエスに、こぞってついて行った、そうやって世界中に教会が建つのです。同様に、自分勝手にイエスを軍事的英雄として、12:13「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」という群衆の詩編賛歌も、実は、彼等が全く思いも及ばない形で、真相を突いた歌であった。まさに、「主の名によって」です。「わたしはある。わたしはあるといういう者だ。」そのモーセが教えて頂いた御名を帯びた神の子・王が、入城された。それはこの世が期待している王ではない。しかしまさに、彼らが知らずに讃美した通り、救いの主であられた。そして、彼等が期待したであろう復活ということも、軍事的な意味における都再生の出来事ではなくて、それを遥かに凌駕する、次の日曜日早朝に起こる、それに続く死人の甦りを、主の御復活を、自分たちでも知らない内に指し示していたのであります。だから主は、この入城において、群衆の讃美「ホサナ」を受け入れて下さったのです。

 しかしマカバイとは違う、そのことははっきりさせるために、主は軍馬ではなく、驢馬の子に乗って来られました。注解者は等しく、驢馬はいつも重荷を負って頭を垂れている姿から謙遜を、そして平和を象徴する動物と言います。主は、これから数日後、驢馬のように、私たちの罪の重荷そのものである十字架を負い、首項垂れてゴルゴタに上って下さるのです。そういうお方だから、私たちの無知の讃美、愚かな祈りを受け入れて下さるのです。そして私たちの祈りを、そのままではないでしょう。しかし、もっと深いやり方で叶えて下さる。〈実は無知のために言葉にすることが出来なかった。しかし自分でも知らない内に願っている、私たちの真の祈りに、主は応えて下さる。〉群衆は讃美しました。13「ホサナ」と。それは「どうか今お救い下さい」そういう意味だそうです。主は軍事力によって救うことはしない。しかしやっぱり、この讃美「どうか今お救い下さい」この祈りに応えて下さるのです。

 先に、主が栄光を受けられる時が来たと指摘しましたが、その栄光とは、人々が期待していた、英雄マカバイと全く異なる戦いの末、お受けになられたものでした。それは、次週読む、12:23以下です。主はご自身が栄光を受ける時が来た、と言われて続けられました。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」ご自身が、死ぬことを通してと。
 ユダ・マカバイの勝利は報復戦争によってでした。ユダヤ人に対する拷問と殺戮、その憤怒こそ彼の戦いのバネでした。やがて、彼の怒りに打たれるように、宿敵アンティオコス・エピファネスは、その戦争の最中、先にも申しましたように、五臓六腑に激痛が走った。それは拷問に対する報いであった。また彼はユダヤ人を切り刻んだ報いを受けて、戦車から落ち、あらゆる関節が外れた。やっただけのこと、同等の報いが彼を襲った。そうしなければ悪行(あくぎょう)を償うことは出来ないからです。
 主イエスの戦いにおいても似たことが起こりました。しかしそれは罪人、権力者に及んだのではなかった。この受難週において、その報いは、王の王であられるイエス御自身に及んだ。主は十字架に着かれる時、まさに五臓六腑に激痛が走ったに違いない。そして御自身の体重で、ありとあらゆる関節が外れてしまわれたに違いない。それは、私たち人間が受けなければならない罪の報いを、御自身が代わって受けて下さったことを表しているのです。そうやって、主イエスは、ユダ・マカバイと全く正反対のやり方で、私たちのホサナ「どうか今お救い下さい」、その祈りを叶えて下さった。人の罪に報復する、そのような軍馬に跨がる王ではなく、驢馬の子に乗って、人の無知、罪の重荷を御自身がみな背負って下さる、そのような救い主となって下さったのです。それが主の栄光でした。

 今、私たちは、思い掛けない試練のただ中に投げ込まれました。丁度9年前の3月11日から始まったあの原発事故による放射能汚染の再来を思わせる事態です。放射能同様に、新型ウイルスの発生も、その止まらない拡大も、ここでは深く検証は出来ませんが、おそらく人間の貪欲と係わっているのではないでしょうか。経済的繁栄や文明を表す都市の過密こそ、ウイルスを蔓延させる理由であることは明らかです。過密、つまり大勢こそ力だと思ってきた、その裁きを今私たちは受けているのではないか。あらゆる集会は満席を求められてきたのです。人数は力であると。礼拝もそうです。ところが、今、週報で注意されるように「散らばって座って下さい」とある。皮肉にも礼拝は、小数でなければ出来ないことが求められるのです。あるいは、東京オリンピック開催のために、日本におけるウイルス感染の広がりを曖昧にしたかった。そのために国は検査をサボタージュした、そういう恐るべき推測もあります。他人事ではない。これに類した人間の飽くなき欲望に、私たちもこれまで安易に与してきたのではないか、教会もそのような「この世」の力を結局許してきたのではないか、その私たち都民の罪をこのレントの日々悔い改めたいと思います。その罪の結果として、あの9年前以上の礼拝や諸集会の制限を受けるという、あってはならない事態を迎えました。この放射能汚染とウイルスによって、当たり前だと思ってきた日常生活、教会活動の崩壊というこの状況を、神様からの警告と受け止めたいと思います。秋には、日韓合同修養会が開催される予定ですが、それを、主イエスが軍馬ではなく驢馬の子に乗って来られた、その生き方こそが、世を救ったことを覚え、私たちの生き方、文明のあり方の根本的な転換、悔い改めの機会に出来たらと思います。

祈りましょう。 主イエス・キリストの父なる神様、私たちはこの礼拝で、大声でホサナとあなたを讃美することも出来ないような惨めな試練のただ中にありますが、どうかあなたの憐れみの中で、私たちの心の中の褒め歌を受け入れて下さいますように。どうか今、私たちに残されている唯一の集会、この朝礼拝を、あなたが守って下さり、このレントの日々、小数であっても、ここで平和の王であられる御子を礼拝し続け、ここに来ることの出来ない兄弟姉妹たちのことを覚えて祈り続ける、私たち西片町教会とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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