2020年3月29日 主日朝礼拝説教「神の誉れか、人の誉れか」

イザヤ6:10~13 ヨハネ福音書12:37~46 山本裕司 牧師

「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」(ヨハネ福音書12:43)

 続けて読んできて、今朝至ったヨハネ福音書の箇所は、この福音書第一部、主の宣教の御業が語られている記事の締め括りの所です。13章からは、福音書は集中的に、主の御受難と復活を語る第二部に入ります。今朗読した一節にこうありました。「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」(12:37)。「目の前で」とあります。主イエスは、密かに伝道の業をされたのではありません。目の前です。誰も見逃すはずがないというところで、主は「多くのしるし」をなさった。その「しるし」が、この福音書前半に多く記されているのです。ある人はそこに記された「しるし」の数々を、今、この第一部の終わりに当たって、ヨハネ福音書は、走馬燈のように、読者に思い出させようとしていると、印象深く書いています。私たちも主日毎に、この美しい礼拝堂で聞いた、この福音書の美しい言葉を思い出しつつ、今朝の礼拝にあずかりたいと思います。

 祭りの時、主は都エルサレムに上られ、例えば、ベトザタの池で、38年、病気に苦しんでいる人を癒やして下さいました。確かに癒しは素晴らしい、でもそれも「しるし」です。何か別のものを指し示す役割を、その奇跡は担っていました。福音書はベトザタの池の物語の終わりに「(イエス)は、御自身を神と等しいものとされた」(5:18)と書いています。ヨハネ教会が、誰よりも先んじて知った真理、やがて教会を教会たらしめる「三位一体」の信仰に繋がる真理、それこそ「イエスは主なる神である」ということです。これを一人でも多くの人に、同胞ユダヤ人にも、異邦人を代表するギリシア人にも信じてもらいたい、信仰告白をする人になって欲しい。その目的のために、この福音書は書かれています。癒やしの奇跡は、その「信仰」を指し示すところに、一番大きな意味がありました。そのことが、この第一部締め括りの記事で、もう一度確認されるのです。「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」(12:45)。父なる神と、子なる神が「一体」であることを、主は「叫んで」(12:44)宣言されたのです。

 やがて秋の仮庵祭もやってくる。この祭りは水注ぎの祭りであり、光の祭りであった。その祭りが最も盛大に祝われる時、主は立ち上がって大声で言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、…その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:37~38)
 その時、神殿に姦通の現場で捕らえられた女が、男たちに連れてこられる。イエスよ、この女をどうしたらいいのか、と。しかし、主イエスの促しによって、男たちは自分も同じなのだと、罪を犯してきたのだと、気付かせられ、去ってしまった時、主は言われた。女がこれまでただ一度も聞いたことがなかった、柔らかな男の声で。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」と。愛に渇ききっていた女の砂漠のような心に、今主の愛が、春の雨のように降り注いでいる。女の干からびた魂を潤していく。それは女が愛に甦った瞬間だったと思う。

 さらに、主は言われる。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ。」(8:12)主は、生まれつきの盲人を、シロアムの池に行かせお癒やしになられた。その渇いた魂を水で潤わして下さり、同時に、その心の暗黒を光で照らして下さった。ラザロもまた墓の闇の中に置かれたのに「ラザロよ出てきなさい」との主の、やはり大声によって、光の中に、命の中に、呼び戻されました。そのことを、もう一度、ここで、主は明らかにされた。「わたしは光として世に来た」(12:46b)と。みな、隠しようもない衆目の内に行われた「しるし」です。

 ところが、「 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。」(12:37)これが福音書前半の「結論」となったと言われるのです。こんなことが、あってよいのでしょうか。神の恵みのしるしが、これだけ公にされたのに、イエスは主なり、その信仰が生まれることはなかった。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。

 しかしその驚くべきか不信仰は、既に、神が預言者イザヤに伝えていたことが実現したことだった、という話になっていくのです。「彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。『神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』」(12:39~40)

 目の前で神の恵みのしるしが行われても、それを見ることが出来ない。心は頑なで受け入れない。神に立ち帰らない。それは、神が元々したことなのだ、そう言われている。これは謎のような言葉ですが、それは決して神様が意地悪だったからではありません。「イエスが神である」、それが私たち人間には理解出来ない。そのようなお姿をもってしか、御子を、父なる神は、この世に、お遣わしになることはなさらなかった、そういう意味です。
 
 御子が産まれたのは、飼い葉桶の中でした。それは神の「誉れ」から、最も遠い姿でした。しかしそれは、私たち罪人を救うことが出来るのは、そのような低きに降る救い主以外にはいないからです。それが、もう一つの預言者イザヤの引用に込められています。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか」(12:38)。これは、受難週の時、必ず読まれる、イザヤ書53章の御言葉です。
 「…乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。…彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:2~5)

 主イエスが雨のような潤いを私たちに与えて下さる、光を私たちに与えて下さる、その奇跡は、この見栄えなきお姿の中から、生まれてくる。誰も飼い葉桶の赤子が光とは思えない。誰も十字架の死刑囚が渇かない水であるとは思えない。そうなることをよく承知の上で、なお父はそういう形でしか、御子をお遣わしにはならない。何故なら、頑で目塞がれている私たち人間は「彼の受けた傷によって」しか、癒やされない存在だからであります。

 さらに人間が、この御子を受け入れることの出来ない理由を、福音書はこうも書いている。イザヤの預言では、人はイエスを信じることが出来ないはずだ「とはいえ」(12:42)とあって、議員の中にもイエスを信じる者は多かった、と続きます。しかしそれは先のイザヤの預言を、残念ながら覆すところまではいかない。「ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった」(12:42b)。イエスのしるしを目撃し、御言葉を聞き、やがてこの男が待ち望んできたメシアではないか、と思った議員たちも多かったのです。この議員たちとは、イエス様の時代であれば、ユダヤ最高法院議員ということとなり、その地位、名誉は最上でした。あるいは、それから半世紀後のヨハネ福音書が書かれた時代であれば、ユダヤ会堂(シナゴーグ)役員を意味したそうです。そのヨハネの時代の会堂で、イエスを信じる者は、異端宣告され会堂から追放されることと決定されたのです。
 イエス様への信仰が、人生の春に心の中に芽生えてくる、しかし、種蒔く人の譬えで主イエスがお語り下さったように、「ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、/この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」(マルコ4:18~19)。富の誘惑が、神の言葉の成長を上から重石のように塞ぐ。「イエスは神」と信仰告白をする時、会堂追放となる、その人が会堂役員であったら、そこで、彼が失うものは余りにも大きかったのです。その富をイエスと引き替えに捨てることは、どうしても出来ない。

 さらにどうしてかというと、ヨハネ福音書はこう指摘します。「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」(12:43)。この「誉れ」とは「栄光」と同じ言葉です。「好む」とは「愛する」という言葉です。ですからここは、本当に強い言葉だと思います。「神の栄光より、人の栄光を愛した。」そう訳すことが可能です。宗教改革者の合い言葉は、「ソリ・デオ・グロリア」(Soli Deo gloria)「ただ神にのみ栄光」でした。人からの誉め言葉や地位、つまりこの世の栄光です。それを愛した時、信仰を公に告白することは出来ないのです。人間はかくも目先の光に惑わされる者だった。だからこそです。もう一度言います。このような愚かな私たちだから、主イエスは、飼い葉桶に生まれ、十字架につく他はなかった。そのようにして、人の不信仰の罪を、その闇を、その茨の冠を、十字架の上から輝く神の栄光で照らし、吹き飛ばす他はなかったのです。

 コロナウイルスのために、私たちの心は灰色に塞ぎがちです。しかし、教会の庭に出ると、既に春がそこに満たされている。今朝の招詞が思い出されます。

 「万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。/ 主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです」(詩編84:2~3)。

 皆さんが毎年楽しみにしている、八重桜の花が咲き始めています。あるいは、「ヒイラギ」の木からも青い芽が吹き出してきました。思い出すと、昔、この木は、ただやせ衰え、黒ずみ、一度も花を咲かせたことがなかったのです。ところがある年、初めて白い花を一面につけ、目を見張ったことがあります。それは、以前、教会の南側にあった建物によって、日の光が教会庭には入らなかったからです。ところが、それが建て替えられた時、数㍍の建造物のない空間が生まれました。そこから日の光が、一日の短い間ですが、庭に入るようになったのです。そのため、これまで死んだような黒ずんだ葉でしかなかったところに、春になると、瑞々しい新緑の葉が茂るようになってきた。そしてある冬、花を初めて咲かせたのです。
 このヒイラギの新緑を見ながら改めて思います。神の栄光は存在すると。既に御子イエスが飼い葉桶に生まれ、十字架について下さったからです。だから、救いの光はもうこの世界に充満しています。しかし人間が自ら、その誉れ・栄光を追い求める時、神の光は遮(さえぎ)られてしまい、見えない。あの譬えで言えば、神の言葉の新芽は茨によって上から覆われてしまう。そうやって、人は自らの栄光を誇る。しかし、一番大事なものは何か。人を真に生かす光とは何か。それは、この世の誉れではない。神からの栄光です。一日数時間であっても、その光が射し込んだ時、ヒイラギが生き返ったように。私たちも同じです。一日の僅かな時間でも、神の光が、その人生の中に差し込む時、私たちは甦るのではないでしょうか。

 人間が自らの栄光を求める、その罪が、御子の光をついに消したと思う瞬間、しかし、神の私たち罪人を救済する、凄まじい霊的栄光が、十字架から、四方八方に放射されたのです。その霊的光は、私たちのバベルの塔を、その霊的力で崩してしまう。同時に、たとえ、最高法院議員、あるいは会堂役員という最上の名誉であっても、持てる者たちの、この世の栄光が、実はどれ程、みすぼらしいものか、空しい光か、それを暴露する。主の栄光とは、そのような凄まじい光線なのです。その十字架の栄光は3日後の春の朝に、主の墓石をも打ち砕き、その墓穴から、命の光がほとばしり出て来る、そして、かつて、黒く死んだようになっていたヒイラギのような私たちを、復活の光によって甦らせて下さる。そのことを思って、ウイルスによって、春なのに寒く暗い、まさにこのレントの期節ですが、そこにこそ、御子の光は輝き始める、その救いを信じて、顔を上げたい、そのように願います。

祈りましょう。 主なる父なる神様、どのような高い壁もいつか崩される時を迎えるように、私たちの罪も主イエスの贖いによって、打ち崩されてしまう、その恵みを心から感謝します。その時初めて見えてくる、十字架と復活の主の栄光を、この礼拝堂に集まることは出来なくても、皆で見る、私たち西片町教会の群れとならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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