2020年3月22日 主日朝礼拝説教「主のもとに引き寄せられ」
ハバクク2:5 ヨハネ福音書12:27~36a 山本裕司 牧師
イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。…」(ヨハネ福音書12:35)
レントの期節に相応しい、ヨハネ福音書に記される主の御受難の預言を毎主日、読んでいます。先週読みました、12:23で、主は御自身が一粒の麦として、地に落ち、そして死ぬ、そう言われるのです。しかし、それは多くの実を生み出すためだと教えて下さいました。しかし今朝、そのことを本当に良く分かっておられる主御自身が、12:27で言われたのは「今、わたしは心騒ぐ」ということです。ルカ福音書における「ゲツセマネの祈り」を、私たちは知っています。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔…イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕(ルカ22:42~44)
今朝のヨハネ福音書12:27以下は、ヨハネ版の「ゲツセマネの祈り」と言われている箇所です。ヨハネ12:27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」、十字架の時のことです。しかしその「時」とは、主にとって可能であれば避けたい、そういう時であったことが分かります。それは、ただ肉体的な痛みを恐れたのではありません。それは御心の痛みです。主の十字架とは、私たちの罪を贖うためでした。本来、私たち罪人が、神に裁かれるはずであったのです。しかし、イエスは神の子であられたのに、闇の子のような私たちの罪を一身に負って下さるのです。そうやって、私たちが神の裁かれなくてもよいようにして下さった。しかしそのために主は有罪の宣告を受けたのです。罪人が神に裁かれる、それがどれ程恐ろしいことか、その暗闇を本当に理解した上で、死に赴いたのは、全人類の中で主イエスだけだと言ってよいと思います。それが、心騒いだ理由です。ルカの描写では、汗が血のように地面に滴り落ちる祈りとりました。しかしその一粒の麦としての犠牲なしに、主イエスは私たちを「光の子」することはお出来にならなかったのです。
これに対して、群衆はこう問いました。12:34「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない(死ななければならないとの意味)、とどうして言われるのですか。…」このヨハネ福音書は、主イエスの時代と、それから半世紀後のヨハネ教会の時代の戦いを重ね合わせて描いています。そうであれば、ヨハネ教会の時代、会堂(シナゴーグ)に属する、つまり普通のユダヤ人が、主の十字架を高く掲げるヨハネ教会に問わずにおれなかったのです。「人の子」とは旧約聖書に登場するメシアのことです。超越的王の称号で、終末の時、天の軍勢を率いて悪を滅ぼす「永遠」の存在でした。だから、ユダヤ会堂は問う、お前たち教会が主張するイエスが「人の子」であるなら、永遠に生きるはずなのにと。ところが、33節、イエスは「死を遂げる」と言う。どうしても分からないと、イエス様の時代でも、ヨハネ教会の時代でも、会堂のユダヤ人たちは問わずにおれないのです。主イエスも31節で、「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される」と言われました。つまり主は確かに「人の子」として、この世と戦い、勝利して下さる、それは同じだ。しかしそのやり方は、ユダヤ人が、最悪の敗北と覚える十字架の死をもって、それを実現させる、と言われているのです。これ以外に、この世の暗闇に支配された人間に、光を与える道はないと、ユダヤ会堂の問いにヨハネ教会のユダヤ人たちは主イエスの言葉を以て答えた、それが今朝の御言葉なのです。
主は光に関しては、12:35節で言われました。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。/光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
「光は、いましばらく、あなたがたの間にある」と言われました。これは光である主イエスが、数日後の金曜日、十字架について死なれる。そのために、光は消えてしまう、そのことを言っておられるように思えます。確かに主が十字架につかれた時、昼の12時であったのに、日蝕のように、全地は暗くなったと記されています。その十字架の暗闇がやって来る前に、あなた方は光のあるうちに光を信じなさい。そう言う意味にも取れますが、実はそうではないと思いました。何故かと言うと、既に言いましたように、主イエスが本当に私たちに光をもたらすのは、十字架によってだからです。この十字架の時こそ、28節、神の栄光、まさに救いの光が現れる時だと主は言われているのです。そうであればこの35節、暗闇とは、この十字架の死から、むしろほとばしり出る光を信じない、ユダヤ会堂を初めとする私たちの不信仰の心の闇のことではないでしょうか。むしろ十字架は闇であると、敗北であると、これはイエスが、「永遠」に生きるはずであったメシアでなかった証拠である、そう思う。つまりこの十字架の主こそが、「光である」、勝利である、それを信じることが出来ない、その私たちの不信仰こそ「暗闇」なのだと、主イエスは、そして後のヨハネ教会は言うのです。
「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。」(12:35)
昔の旅人にとって、日没はとても怖かったと思います。夜になる前に宿に着かないと、荒れ野で一夜を過ごさねばならない。何に襲われるか分からないのです。それでも進もうとすれば、道が見えない、だから自分がどこへ行くかも分からない、その恐怖にかられながら、釣瓶落としのように日は落ち、どんどん背後から迫ってくる暗闇に追いつかれないように、競争するように急ぐことが、旅人には求められたのです。追い迫る不信仰の暗闇は速い。うかうかしていると、私たちを、何も見えない、つまり福音の真理が見えない、夜が覆い包んでしまう。永遠の強者「人の子」のメシア理解に留まる会堂のユダヤ人だけではありません。私たちも同じです。自分を生かすものは、誰もが認める、31「この世の支配者」(この世の君)の力です。そのリアルな力の前に、ヨハネ教会が伝える主の十字架の福音は、吹けば飛ぶような幻想であると思う。「十字架の死のどこが救いなのかと。夢のようなことを語る教会に来て何の御利益があるのかと。イエスが私のために十字架で死んでくれた、教会青年として楽しんでいた頃は、そんなこともあるのかと思ったこともあった。しかし社会に出てみれば、そんな考えは全く通用しない。結局、自分を生かすものは、世の力だと、31「この世の支配者」つまり金だ。一度、洗礼を受けて光に照らされた私たちにも、後から暗闇は凄い勢いで迫ってくる。私は大人になることは、そういう誘惑を受けることではないかと思います。「人の子」イエスの救いが非現実的にしか感じられなくなる。そういう中で、教会で説教を聞くことがだんだん馬鹿らしくなる。礼拝に早足で行こうという意欲も失わる。そうやって、人生の夕暮れ時に、ついに、暗闇に追いつかれるのです。未だ「光の子」(12:36)であった、その若い時の純情を失う。主イエスはそういう私たちの人生の旅をここで本当に心配しておられるのです。
ところで今朝の説教題は「主のもとに引き寄せられて」としました。これはこの主の御言葉から得た題です。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(12:32)、この「引き寄せる」という言葉が、他の聖書でどう使われているか調べました。その一つが、先ほど朗読頂きました、ハバクク書2:5(旧1466頁)「確かに富は人を欺く。高ぶる者は目指すところに達しない。彼は陰府のように喉を広げ/死のように飽くことがない。彼はすべての国を自分のもとに集め/すべての民を自分のもとに引き寄せる。」富こそ、ブラックホールのように全てを自分のもとに、引き寄せる、呑み込む、その引力から免れる者は誰もいないと言われるのです。しかしこの預言者の人間洞察に、主イエスは逆らうようにして、いや、そうではない。全ての人を引き寄せるのは、富ではなくて、わたしだ、と言われます。このイエスこそ、最強の引力を有する宇宙的ライトホールだと、その光の渦を作るために、自分は十字架につくのだ、そう言っておられるのです。もう一箇所、それは新約と同じ心を持った預言者イザヤの言葉ですが、「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが/深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。」(54:7)、そうやがて来る栄光のイエスの引力を預言したのです。
先週読みましたが、12:20~21、それこそ、もうユダヤ人だけではない、ギリシア人をも、つまり異邦人全体が、主イエスに引き寄せられていく、その物語がありました。全人類が何故か、イエスに引き寄せられるのです。どうしてか、それは、イザヤは主の「深い憐れみ」の故にと言っているのです。やがて、異邦人の使徒と呼ばれたパウロはローマの信徒への手紙1:16~17(新273頁)でこう語りました。「…福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力(引力と言ってよい)だからです。/…「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」「正しい者は信仰によって生きる」この言葉は、先ほど読んだハバクク書の言葉の直前からの引用です。ですからやっぱり、ハバククも、新約の心を以て言うのです。2:4(旧1466頁)「神に従う人は信仰によって生きる。」ハバククは、確かに全ての民が富に引きつけられる、その現実の中で、しかし、神からの託宣を受けて、2:2(旧1465頁)でこうも言っています。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。」この時の神様の思いっていうのは、町の電光掲示板のように、御言葉を出来る限り大きく「掲げよ」ということです。走りながらでも読めるようにと。その大きくはっきりと板に書かねばならない言葉、それは何かというと、それこそ、「人は信仰によって生きる」、この御言葉を読みながら走るのだ、そう言っています。そうしなければ、暗闇に追い付かれてしまうと。主の十字架による罪の贖いを信じる信仰によってだけ私たちは生きる、この福音の言葉を読みながら走る。ユダヤ人もギリシア人も、どんなに足がのろい人も、罪を犯しても、大丈夫です。「義人は信仰によって生きる。」、改革者ルターが再発見した福音「行いではない。信仰のみによって救われる」、この大きく掲げられた御言葉、その福音を読みながら走れば、私たちは、どんなに躓いても、弱くても、直ぐこの世の君、その富に、引き寄せられそうになっても、しかし主イエスの十字架の死、この贖罪の引力がもう一度、私たちを引き戻してくれるであろう。だから追い迫る暗闇に負けない。私たちは、その十字架の信仰によって生きる。ユダヤ人だけでない、ギリシア人も異邦人もです、私たちもです、つまり罪人もです。全ての人が引き寄せられる。ヨハネ12:31~32「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。/たしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
主イエスが地上から「上げられる」とは、やはり、十字架のことです。確かに十字架につけば地上の上に吊し上げられるのです。十字架は暗闇に落ちることだと私たちは思っている。しかしそうではない、この十字架こそ栄光であり、万人の救いであり、完全な勝利である、それが、この「上げられる」という言葉においても、暗示されているのです。何と感謝なことでしょう。
祈りましょう。 主イエス・キリストの父なる神様、どうか十字架の光に照らされて、子どもの時も青年時代も、晩年になっても、歩む私たちとならせて下さい。その人生行路に、いつも聖書の言葉を高く掲げて下さり、この礼拝において、それを読みつつ、暗闇に追いつかれない、光の子としての人生の旅を終わりまで全うさせて下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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