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2020年3月1日 主日朝礼拝説教「家は香油の香りで充ち」

2020年3月1日 主日朝礼拝説教「家は香油の香りで充ち」

ヨハネ福音書12:1~11  説教者 山本裕司 牧師

「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」(ヨハネ福音書12:7)

 主イエスが再びベタニア村に行かれた時のことでした。その折りラザロとその姉妹の家で、イエス様のために夕食が用意されました(ヨハネ12:1~2)。これはイエス様への「感謝会」だったのではないでしょうか。イエス様がラザロを復活させて下さったからです。その席で印象深い出来事が起きました。ラザロの姉妹マリアがナルドの香油を主イエスの御足に塗り、自分の髪で拭ったのです。ナルドとはヒマラヤの高地に生育する植物で、古代からインド人が薬草や香料に用いてきました。名はサンスクリット語で「芳(かぐわ)しい」を意味するそうです。遠路輸入されたもので大変高価なものでした。それが1リトラ(326グラム)塗られた時、ユダが、何故この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人に施さなかったのかと咎めました(12:5)。三百デナリオンとは一労働者の年収に当たります。

 香りとは贅沢品です。女性が高価な香水を得た時、一滴一滴を惜しんで使うのではないでしょうか。その一滴も、衣食足りて、その次に、ようやく香りがくるのではないでしょうか。香りは少しも腹の足しにならないからです。香りは目に見えません。風が吹くと儚くどこかに飛ばされてしまう。そう思うとここでユダが「もっと確かなものを」と、社会福祉のためにと、そう主張した気持ちが分かると思います。しかしその香油を御足に受けている主は言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」(12:7)

 私はこの「香油の物語」を特別に愛してきた者の一人です。それは45年前北森嘉蔵先生の『神の痛みの神学』を読んだからです。それによると、この物語の並行記事では直前に、貧しい者への施しに生きることこそ、主を愛することであるという教えがあるのです(マタイ25:34~40)。だからこの時弟子たちは言った「なぜ、こんな無駄使いをするのか。/高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」(マタイ26:8b~9)と。それは先の主の言葉を応用したことに他ならない。だから弟子たちは当然、イエス様よりお褒めの言葉を頂けるものと思った。しかしそうではなかったのです。イエス様はマリアの方を誉め、その理由を「わたしを葬る準備をしてくれたから」と言われた、そう指摘して北森先生はこう続けられるのです。

 「我々はこの言葉に至って、始めてこの出来事の真相を示される。この真相を知って我々は、あたかも電気に撃たれた如く根底より震撼させられるのである。注意せよ、今イエスは葬られんとしてい給う。神の独子が、つまり神御自身が、今葬られようとしている!この真相を示された我々は、もはや一切のことを忘れるであろう。我々はもはや他のいかなる事柄にも関心をもち得なくなるであろう。神が痛んでおられる。この事実の前では他のいかなる現実の痛みも色あせるであろう。現実の痛みを一切忘却するほどに神の痛みに関心をもつ者のみが、真に神の痛みを見た者である。…福音に仕える者はこの女のごとくならざるを得ない。」

 この北森先生の言葉は、教会にとって福音も社会問題も両方大切だ、という当たり前のような話ではありません。御子の十字架の死の前に、つまり「神の痛み」の前に、人間の一切の痛みは色あせる、とまで言ってのけるのです。新型コロナウイルスもそうですが、これほどの人間の痛みが渦巻く世において、どうしてそんなことが言えるのかと私たちは訝るほどです。やがて北森先生は1970年の所謂、万博問題に端を発する、教会の社会的責任を問う戦いの中で、徹底的に社会派から攻撃されるようになりました。問題提起者から平手打ちの暴力を受けるまでになったのです。

 しかし主ははっきり言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」(ヨハネ12:7)と。

 ユダの心について、福音書記者はナレーターのようにこう書いています。「彼(ユダ)がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(12:6)。その金を何に使っていたのでしょうか。皆から信頼され会計係を任されるほどの弟子であったのですから、遊びに使ったとは思われません。これは推測ですが、ユダはイエス様を政治的メシアと理解していたのではないでしょうか。ローマ帝国に支配されている、その痛みの中にあるユダヤ人を解放する革命家としてのイエスを期待していたのではないでしょうか。ユダは「主の共同体」の会計で、武装蜂起のための剣を買い集めていたかもしれない。そういう「神のもの」を「人間の業」に流用したことを「盗み」とヨハネは表現したのかもしれません。ユダは良かれと思ってしたのです。しかし主の御心では、人間の痛みを真に癒やすものは剣ではなかった。神の痛みこそが、人の痛みを根本的に癒やすのであります。しかしユダは剣に代表される人間の力に頼った。それは目に見える力しか信じなかったということです。

 ユダは使徒パウロの信仰を知らなかったのです。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリント二4:18)

 目に見えないものとは、主イエスの愛、慰め、何よりも罪の赦しです。それは美しい。しかしそれは一瞬の香りのようなもので、霞のように消えてゆく。それで社会が変わるわけではない。武器のリアリズムこそ世を救うのだ。ユダは何度も意見したかもしれない。そのユダの心において、この世で一番現実的なものは何か、それは金です。ある人は言いました。ユダはマリアにこの香油を三百デナリオンで売れば良いと言った。そのユダの道はやがて主イエスを銀貨三〇枚で売ることに続いていくと。ユダもイエスを愛していたと思います。しかし北森先生は言った。「他の全てのものが色あせてしまうほどに」、その主イエスに集中する愛がここで求められていた。それが信仰です。

 ベタニアの夕食、そこにユダと正反対の人たちがいました。ラザロと姉妹たちです。その時マリアは主の御足に油を塗り、自分の髪で拭いました。当時女性の黒髪は女の命であった、それは誰にも触らせないものであった、そう言われます。その髪で主の御足を拭った。そこにあるのは、主の御足に対する、全てを忘れるほどの愛です。主はその御足を用いてベタニアに来られました。それがそもそも主イエスの命懸けの行為だったのです。主はかつて、何故都エルサレムからヨルダン川の向こう側へ行かれたかと言うと、それはユダヤ人が主を石で打ち殺そうとしたからです(ヨハネ10:40)。避難された。そこからエルサレム近くのベタニアに戻るということは、弟子たちが警告したように、死を覚悟しなければ出来ないことでした(11:8、11:16)。しかし主の御足はベタニアに向かう。そこでラザロを復活させたことで、益々ユダヤ人の主イエスに対する殺意は決定的となりました。やがて主は公然とユダヤ人の間を歩くことも出来ない状態になり、感謝もろくに受ける暇もなく、辺境エフライムへと難を逃れる(11:54)。しかし主は、過越祭が近づいた時、再びベタニアに来られたのです。そしてラザロたちにとって念願であった感謝の晩餐が開かれたのです。それは荒れ野を越える長い旅でした。その旅で、主の御足は砂埃でひどく汚れていたことでしょう。その御足の汚れとは、人の殺意、罪の汚れが形をとってしまったものなのではないでしょうか。

 この感謝会後、主は都に向かいます。ヨハネ福音書は御受難の物語をここから語り始めるのです。主はその御足を引きずりながら、十字架を背負いゴルゴタの丘に上られる。そして御足に釘を刺されるのです。そこから御血潮が全て注ぎ出された。その主の私たちに対するご献身を象徴する御足、その御足の痛みに、マリアもまた自分の持っている最高のものを全て献げて応えようとしたのです。その時「家は香油の香りでいっぱいになった」(12:3)。マリアの感謝、マリアの献身、マリアの愛が香りとなって満ち溢れたのです。それは礼拝の香りです。

 ある牧師は、いくら献金をしたら良いのですかと問われた時、痛いと思う金額を献げなさい、そう指導されたそうです。神の痛みに少しでも応えるために。

 同じ死であってもラザロの死は、逆に「…もうにおいます」(11:39)とマルタが言ったように「死臭」が墓から溢れ出た。しかしそれと対照的に、主の葬りは、ナルドの名の通り、芳しい香りと結び付く。主イエスは死をもって死を滅ぼすからです。主の死は、死に対する勝利であって、そこから溢れてくるのは、復活の命の芳しい香りなのです。しかも主はその香りを独り占めするのではない。既にその永遠の命の香りをもって、ラザロの死を討ち滅ぼし、ラザロの死臭を吹き飛ばして下さったのです。主はそうやって、自らの死の痛みを通して、人の痛みを癒やそうとされるのです。

 ある人は言います。マリアの行為を浪費と言うなら、主イエスの行為も、どうして浪費ではないであろうかと。私たちは、主の命に、御血潮に、本当に値する存在なのでしょうか。一時、主への感謝を口にした人が、やがてもう何も語らなくなる、そうやって主の食卓の前を去って行く、そういうことがあるのではないでしょうか。私たちの信仰こそ、一吹きの風で消えていく香りに似ている。この会堂に残る私たちの心も似ている。しかし主はそのような私たちに、ご自身の全てを注ぎ出して下さるのです。それがたとえ浪費に見えてもです。何故でしょうか。理由は一つ、私たちへの愛の故に。私たちの痛みを可愛そうに思ったからです。この神の愛にマリアは全人類を代表して、全身全霊をもって、応えようとしているのです。

 マリアだけではありません。マルタもそうです。「給仕をしていた」(12:2a)と訳されますが、これは「奉仕」の意味であり、マルタはここで主の弟子となっているのです。そして肝心のラザロは「イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」(12:2b)。彼は何も言いません。しかし主イエスと共に食卓にいます。それが実はラザロの大いなる証しなのです。主の晩餐に共に座るということは、彼にとって命懸けのことだからです。実際「祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである」(12:10~11)と記されています。イエスが命を生み出す神御自身であることの生き証人を、抹殺したいのです。既にここで、主の食卓(聖餐)に共に座ることは、命を主に献げる殉教の覚悟なくして、出来ることではなかったと暗示されているのです。

 この兄弟姉妹はそうやって身も心も主に献げました。どうしてそんなことが出来たのでしょうか。繰り返し申します。主イエスが先ずお命を捨てる痛みをもって、この家族を愛して下さったからです。神の御子が命を差し出す畏るべき浪費、それに何とか応えようとする私たちの浪費、それが私たちの献身なのです。繰り返します。私たちの人間の痛みを真に癒やすのは、神の痛みのみ。だから私たちはマリアと共に、主の死に、主の痛みに、全てを忘れるほど集中するのです。そのことをユダに、つまり社会派にも知って欲しいと思う。

 祈りましょう。 主なる父なる神様、御子が私たちのために、命を献げて下さった、そのあなたのお痛みに、少しでも応える私たちとならせて下さい。コロナウイルス感染予防のために、この第一主日、私たちは食卓に杯とパンを用意出来ませんでした。まさに心痛む朝ですが、心では等しく、御子のご献身に応える、私たちの感謝の献げ物を、芳しい香りとして、主よ、お受け取り下さい。

 〈この後、声に出すことは出来なかったが、心で私たちは歌った。「主は命を 惜しまず捨て その身を裂き 血を流した。この犠牲こそが 人を生かす。その主に私は どう応えよう。」『讃美歌21』513、1節)


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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