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2020年2月27日(木) FEBC放送番組説教「小羊の婚宴に招かれ」

2020年2月27日(木)FEBC番組説教「小羊の婚宴に招かれ」

以下の説教が、FEBC特別番組で放送されました。

ヨハネ黙示録19:1~10  山本裕司 牧師

それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。(ヨハネ黙示録19:9)

 リスナーの皆さんとヨハネ黙示録を読む、その幸いに与る日となりました。何故、ヨハネ黙示録を読むことが幸いかと言いますと、それは、そこにどのような現実にも勝る希望の光を見ることが出来るからです。人間の罪が作り出す深い闇のただ中にも、神の光が届く、それを幻の内に、ヨハネと共に見ることが出来るからです。

 しかし、私たちの生きるこの現実は、見れば見るほど、暗い、そう私たちは感じます。余りにも悲惨な事件が次々に起こっています。力ある者たちがもたらす戦争や環境破壊、不正によって、弱い者たちが犠牲になっています。強者優先の金融政策が続き、著しい格差社会がこの日本にも出現しました。富裕層が豊かさを謳歌する傍らで、低賃金の若者や母子家庭、そして年金弱者の老人たちが生活苦に喘いでいます。あらゆる矛盾、不正義が横行しても、誰も裁かれない、それどこころか称賛される、この逆立ちしたこの世のどこに光が見えるのでしょうか。
 しかし実は、同じ経験を、あるいはそれ以上の暗黒を、黙示録のヨハネは目の当たりにしているのです。その時代、ローマ帝国によってキリスト者は迫害されていました。ヨハネも島流しにされたのです。一方ローマ皇帝は全世界から称えられ富み栄えるばかりである、しかしそのような逆立ちした世界は続かない。天には神がおられる、主イエスがおられる、そのお方こそ、真実で正しい裁きを行って下さる。「ハレルヤ」と賛美されるのは、ローマ・大淫婦ではなく、神であると19:1~2aで言われるのです。「その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。/その裁きは真実で正しいからである。」、その神こそが、善悪の最終的決着を付けて下さる。その事実を、既に幻の内に天に引き上げられたヨハネは見ているのです。

 使徒信条の中にこのような告白があります。主イエスは、「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。」この終末の信仰を持つ時、私たちも、パトモス島のヨハネと同様に光を見ることが出来るのです。

 19:2にあるように、神の真実の裁きがなされる、その時、この大淫婦、ローマは、神から血の復讐を受けなければならない、何故なら、神の僕たち(私たちキリスト者)の血を流したからです。それだけでもない。ローマは「地上を堕落させた」のです。教会だけが傷つけられたのではありません。実は、教会が傷つけられる時代は、地上にある心ある人たちや弱い人たちが、同時に、血を流させられる時代なのです。教会の痛みと、地上の痛みは必ず連動しています。だから、どうしても、真実の正しい裁きが求められる。それが、ここでの神の血の復讐の理由です。
 しかしそう理解しても、この黙示録の復讐讃美は、教会にしては、余りにも血生臭い話だと感じるかもしれません。19:3にはこうもありました。「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」、私たちキリスト者は、復讐心を抑えることが求めてられていることは確かです。赦しに生きなければなりません。しかしだからこそ、神が終わりの日に善悪の決着を付けて下さる、その最後の審判に望みを託すのです。だから、私たちが、帝国や皇帝に対してテロを行う必要はないと暗示されていると思います。暴力革命を目指す必要はない。使徒パウロも言います。ローマ12:19(新292頁)「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」
 神が善悪に必ず報いて下さるのです。だからこそ、今、光が見えないこの時も、天の勝利を信じて、私たちは仕返しをせず耐えよう、そう言われているのです。

 黙示録のヨハネは、その終わりの日の光を、天で、予め、見ることが許されているのです。18:21にはこうあります。「すると、ある力強い天使が、大きいひき臼のような石を取り上げ、それを海に投げ込んで、こう言った。「大いなる都、バビロンは、/このように荒々しく投げ出され、/もはや決して見られない。」(新474頁)、力強い天使は、この終わりの日に、ひき臼のような大きな都バビロン、つまりローマを海に投げ込むのです。
 ローマは一日してならずと言われます。ローマの都建設のために、多くの人々が、渾身の努力を捧げたと思います。夥しい奴隷たちが、人権を踏みにじられながら、何世代にも渡って尽くし、それが繁栄の極みのローマを建てたのです。多くの軍人たちが、その騎士道をもって皇帝に献身し、何十年と続く戦いの末に、ローマの領土を拡大したのです。ローマは一日にして成らず。しかしその富を享受する、ローマ皇帝を始めとする特権階級は、その間、何をしていたのか。貪欲の限りを尽くしていた。まさに、それは、19:2「地上を堕落させた大淫婦」です。だから、一日にて成らずの都ローマは、あに図らんや、海に投げ込まれた重いひき臼同様に、18:17「ひとときの間に」沈んでいく、消滅する、18:16「不幸だ、不幸だ」との嘆きの声に送られてです。その瞬間、急に静寂が世を充たすのです。18:22b「ひき臼の音もまた、/もはや決してお前のうちには聞かれない。」、神に逆らう都の末路は余りにも儚い。もはや波の音しか聞こえないではないか、そうやって、悪魔に支配された都の喧噪は一瞬にして消える。それに入れ替わって、19:1「大群衆の大声のようなものが」響き渡るのです。「ハレルヤ」と。これは消えない、永遠の歌です。
 実は意外なことに、新約聖書で、ハレルヤ「神を褒め称えよ」という賛美が記されるのは、この黙示録だけだそうです。旧約の詩編では数多く歌われました。それが、この終わりの日に、何度も響き渡るのです。19:3「ハレルヤ」、19:4「アーメン、ハレルヤ」19:6「ハレルヤ」、神の小羊が悪魔に勝ったからです。人の悪と罪に主なる神が勝ったからです。
 
 19:6「わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、/全能者であり、/わたしたちの神である主が王となられた。」、無音のローマとここでも対照的です。水の轟き、雷のような声です。皇帝への称賛の声は消え、新たに、神の栄光を賛美する大声が天地に響き渡る、そうやって終わりの時、救いの完成の時を迎えるのです。

 その神の支配の中で訪れるのは、19:7、小羊の婚礼の日です。花嫁も用意を整えた。この花嫁とは、21章2節(新477頁)で明らかにされます。それは聖なる都、新しいエルサレムです。都ローマにそれは取って代わる。それは明らかに教会のことです。神の小羊であられるイエスと教会の婚礼の日です。7~8「わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」とあります。正しい行いこそ、花嫁の衣装なのです。
 あるいは、9節では「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」とあります。これは皇帝礼拝を拒み、キリストに対する信仰を保ち続けた者のことです。その者たちが、小羊の婚宴に招かれるのです。キリスト教禁制下のローマの都の一角で、密かに、その小羊の宴、聖餐を守り続けて来た者たち、つまり教会員たちがいました。聖餐は、声が外に漏れないような地下室で行われたのかもしれない。蝋燭の灯りだけを頼りとするような、暗い室内で、密かに行われる宴でした。宴と言っても、そこに用意されるのも、本当に細やかなパンとワインだったに違いありませ。ローマ宮廷で夜な夜な、催されいた豪華絢爛な宴とは比較にならないような貧しいものでした。しかしこれこそが、人間のなす真の宴であると信じたキリスト者たちがいたのです。その者たちが幸いだとここで呼ばれるのです。
 本当に幸いな宴に与ってきたのは、ローマの貴族たちではない。どこが楽しくて、そんな小さなパンと杯に執着するのか、と馬鹿にされるような、生き方を守ってきた者たちが、ついに、この終わりの日に、公の席に出る日を迎える。神の国の大宴会に招かれるのです。もはや客ではない。自分たちがいつの間にか、神の花嫁となる。終わりの日にそれ程の喜びが与えられる。純潔の衣装をまとった純白の花嫁となる、もう誰憚ることもない、地下室から皆で出てくる、幽閉の島から出てくる、そして新しい天地で、再臨のキリストの花嫁として、新しいエルサレム・教会が立ち上がる日が来る。そこで、神の国の婚礼の大宴会が始まる。その光の日、終末の日が必ず来る。

 だから、今、この闇に耐えようではないか。闇の中の細やかな主の食卓、これもまた小羊の婚宴と覚え、守り続けようではないか、8b、それが、終わりの日の婚宴の日の、私たちの、輝ける麻の衣、花嫁衣装の用意を調える毎日なのだ、そこにこの隠れ家でなされる小さな聖餐は繋がっているのだ。そうヨハネは天使から幻を見せられる。その時、19:10、余りの喜びのために、ヨハネは、思わず、天使を拝もうとする、それを天使からたしなめられる、神を礼拝せよと、しかしそれほどの喜び、本当にハレルヤと叫び声を上げたのではいかと思う、その感動を味わっているのです。
 やがて、この幻が去り、荒涼とした大地、パトモス島に天から引き戻されたに違いないヨハネは、しかし、その暗い牢獄の中で、それ以来この光の幻を思い出して、耐えることが出来たと確信します。
 そして今も、虐げられている子どもたち、母たちが、老人たちが、この神の勝利、真実の裁きが成される日が来ることを覚えて、耐えて欲しいと、神は願っておられるのです。私たちもそれぞれに強い者たちがもたらす不正義に脅かされて生活しています。時にそれら小さな理不尽にも、復讐をしたくなる私たちです。しかしその怒りの心を悪魔は利用する。権力者と同様に、私たちが持っている原罪がそこで刺激され、私たち自身が、この世の闇を益々深くする破壊をもたらすかもしれないのです。しかしそれをもし、しないで済むとしたら、そして、諦めず、少しでも、主の命じられた、平和を作り出す幸に生きることが出来るとしたら、それはこのヨハネが見ている終末、神の国の到来を知ったからです。
 その終わりを待つ今は、その日、7b、神の小羊イエスの花嫁となる歓喜の時のために、用意を整えている時なのです。19:8、その婚宴の時着る、麻の衣、それは「正しい行い」と書いてあります。その花嫁衣装を繕って生きるのが、今、その婚礼の日を待つ私たちの信仰生活なのです。

祈りましょう。 主なる神様、私たちの心は曇り、あなたの真の裁きの幻を見ることが出来ず、いたずらに怒り、復讐に生きようとするこの罪を、戒めて下さい。御子が裁き主として、来て下さる、その終わりの日に望みを繋ぎ、少しでも平和を作り出すために戦う私たち、新しいエルサレムである教会とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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