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2020年2月23日 主日朝礼拝「死を命に、悪を善に、変える神」

2020年2月23日 主日礼拝「死を命に、悪を善に、変える神」

ヨハネ福音書11:45~57 山本裕司 牧師

 「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」(ヨハネ福音書11:50)

 主イエスはベタニアの墓前で「ラザロ、出てきなさい」と「大声」で叫ばれました(ヨハネ11:43)。これは私たちの「小さな声」と対照的です。いえ、私たちも時に大声を出します。しかしそれは益々薄っぺらな言葉、何も生み出さない、つまり「小さな言葉」でしかないことが殆どです。主の御声はそうではありません。厚みある大きな言葉です。この大声が一度発せられれば、それが現実となる言葉です。死臭漂うラザロの墓前のイエスの大声、それは天地創造の神の言葉「光あれ」に匹敵する力ある言葉です。もっとはっきり言えば、まさに創造主が、今、死の闇の墓で命の光を再創造したと言ってよい。あるいは、奴隷の国エジプトから民を解放した主、その御名「わたしはある、わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)、その神が、人を死の虜から解放したと言ってよい。父と御子は一体だからであります。

 真の大声、神の「言」(ヨハネ1:1)そのものであるお方が、まさに、「ここにある」のです。何と言う福音でしょうか。その大声を聞き、お姿を目撃した者たちは、どんなに歓喜したことであろうかと思う。ところが、「あに図らんや」、「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」(ヨハネ11:53)と続くのです。そして私たちは今週レントの期節に入るこの時とぴたりと重なり合うように、物語においても「過越祭」(11:55)が近づいたことが知らされるのです。そして、12章から、ヨハネ福音書「第二部」と言うべき、主イエスの最後の一週間、受難週の記事に早くも突入して行くのです。

 そうであれば、この11章を境に、光と命と自由の物語から、一気に闇と死と虜の物語に変わる。そう読むべきでしょうか。そうではありません。この後の物語は、全て過越祭を中心に推移します。「過ぎ越す」という、そのいわれは、やはり出エジプト記の物語に遡る犠牲の物語、小羊の犠牲によって、イスラエルに自由が訪れた物語です。ある学者は、ヨハネ福音書の「コア」は、ユダヤの過ぎ越しの信仰にある、と指摘します。その意味とは、何故、ラザロに新生と自由解放が与えられたのかと言うと、それはここに新しい過ぎ越しが出現するからである。そうヨハネ福音書は言おうとしているのです。今度は、動物の犠牲ではない。神の子イエスが、犠牲の小羊となられる。そして、十字架の血を掲げて、ラザロを捕らえた闇と死の力を過ぎ越させるのです。その過ぎ越しこそ、主の大声が「真」を宿す、その根拠となる。それはラザロだけでない、全人類のために過ぎ越しとなる。そこにヨハネがどうしても人々に宣べ伝えようとした、主イエスの福音の意味が明らかにされるのであります。

 この物語では、その救いの秘儀を予め預言した者がいたと言われます。どんなに信仰深い預言者なのでしょうか。そうではありません。その者とは、紀元18年から37年間、大祭司であったカイアファでした。「最高法院」(11:47)とありますが、今で言う国会と内閣と裁判所、加えて日本基督教団総会が一つになったような、ユダヤ最高権力です。カイアファはそのサンヘドリン議長です。彼の任期中に、洗礼者ヨハネが斬首されました。主イエスは十字架につけられました。ペンテコステ後、原始教会が伝道を開始した時、その初期キリスト者たちを迫害したのも、この大祭司カイアファでした。教会にとって忘れることが出来ない人物なのです。その彼がユダヤ社会の最高権力者として、主イエスを法的に裁いているのです。その71人で構成される最高法院(サンヘドリン)の議論が、ヨハネ11:47~50に記されています。

 その前に、ラザロの復活を目撃したユダヤ人の多くは、神の大声をお持ちのイエス様を信じました(11:45)。これは、この福音書を執筆した原始ヨハネ教会の「ユダヤ人キリスト者」の萌芽を暗示しています。それに対して、もう一方のユダヤ人、サンヘドリン議員であるファリサイ派の人々や祭司長たちは大変困りました。その理由がこう議論されています。「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(11:48)。そういう危機感です。当時、ユダヤはローマ帝国に支配されていました。そのため大祭司も帝国から派遣されたユダヤ総督が任命権を持つのです。それはユダヤの宗教的独立の侵害ですが、その屈辱を受け入れて、国もユダヤ宗教も、帝国からようやく公認されたのです。それはかつての明治憲法に似て、帝国の安寧(アンネイ)秩序を犯さない限り、ユダヤ教の信教の自由は許されたということです。ところがユダヤ教の一派としか思えないキリスト教が広まり、多くのユダヤ人がそれを信じるようになった時どうなるか。キリスト教会はそれこそ、ローマの安寧秩序を犯してでも、自分たちの信仰の純粋性を守ろうとするに違いない。教会は我々と異なり、そういう融通の利かない異端だ。もしかしたらそれをローマ帝国は、帝国と上手にお付き合いをしている我々と混同するかもしれない。そして教会だけでなく「神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(11:48)。そう恐れたのです。

 大日本帝国においても、大戦中似たことが起こりました。「日本基督教団」が1940(S15)年に施行された宗教団体法によって合同した時、「ホーリネス」という信仰に対して非常に正直であった小教派も日本基督教団に加わりました。やがて特に再臨のキリストと天皇の世界統治の問題を巡って、政府から教会は弾圧を受けるようになる。その時、正統を自認する日本基督教団主流派は、自分たちと彼らの信仰は違うと、ホーリネスの伝統をもつ教会を切り捨てたのです。結局、百名以上の牧師たちが逮捕され、獄死者も何人もおられます。教団はホーリネス系牧師を辞職させ、教会を解散させ、自分たちへの迫害から逃れました。それから40年後、1984年、私たち日本基督教団は、その誤りを認めてホーリネスの関係者とその家族を教団総会に招いて公式に謝罪しました。

 その心に似て、大祭司カイアファがこう言ったのです。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(11:50)。これがイエスを処刑する理由です。そうやってユダヤを帝国から守るのだと言った。この時、カイアファは勝ち誇ったように、「あなたがたは何も分かっていない」(11:49b)と言った。これが知恵だと胸を張ったのです。それは、1943(S18)年、その裁判において教団指導者が、ホーリネス派が再臨を説き国体に反することを言うのは、学的程度が低いからだと弁解した、その事実を思い出させるのではないでしょうか。
 しかしヨハネ福音書は、この大祭司の言葉をこう解釈するのです。「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである」(11:51)。イエスを殺すのだ。そして我々は生き残るのだ。これこそ知恵だと、そう言った時に、福音書は、これはカイアファの知恵ではないと言ったのです。そうではなくて、これは彼が自分でも知らない内に預言したのだ、つまり「神の知恵」なのだ。カイアファは「無知」だと断じた。しかしカイアファが何も分からないまま言ったことと、神様の深い知恵がここで重なる。まるで、表と裏が一枚の紙を作るように、知と無知が一つの真実の言葉を生み出した。どうしてそんなことが出来るのか。神の畏るべき知恵によったのであります。

 私は今から45年前、私の友人と、彼は「基督兄弟団」というホーリネス系教会に通う熱血青年でしたが、一緒に聖書を読んでいた。その時突然彼が「ああ深いかな」と叫ぶように言った。その彼の目の輝き、大声、その喜びに満ちた音楽のような響きを今でも忘れられません。これは口語訳による使徒パウロの言葉です。「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは究めがたく、その道は測りがたい」(ローマ11:33)。そう言って続けます。「だれが、主の心を知っていたか」(11:34)と。「ああ深いかな」、使徒パウロはここで福音の深さを語っているのです。イエス・キリストの福音を知った者は、「ああ深いかな!」と感嘆の大声を上げる他はないのです。

 創世記の終わりに族長ヤコブの息子たちの物語があります。兄たちは、父ヤコブに溺愛される弟ヨセフを妬み、襲いかかり荒れ野の穴に捨てた。しかしヨセフは数奇な運命を経て、奴隷の身からエジプト首相にまで出世を遂げる。その時その地方一帯に大飢饉が起こります。しかしエジプトには、ヨセフの知恵によって、備蓄穀物が溢れていた。カナンの兄たちはその食料を求めてエジプトにやって来る。そして死んだと思っていた弟ヨセフと再会するのです。弟を虐めた記憶に悩み、ヨセフの前にひれ伏す兄たちに、ヨセフが最後に言った言葉がこれです。

 「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(創世記50:20)。

 ある人は、この言葉に聖書全体のテーマが言い表されていると書いています。兄たちは悪をたくらみ、ヨセフを殺したも同然のことをしました。しかし兄たちのこの「悪」が、ヤコブの一家を、さらに多くの者を飢餓から救う「善」に変えられてしまったのです。

 カイアファだけでなく、私たち人間は皆、自ら知恵深いと自惚れる中で、御子イエスに「悪をたくらんだ」存在です。しかし、「あに図らんや」、その悪を神様は「十字架の贖い」という良き業に変えて下さった。人間の「あに図らんや」に対して、神の「あに図らんや」が勝つ。この十字架があったから、闇に光が創造され、多くの人の命が救われ、死の虜から解放されたのです。ああ深いかな、と叫ばずにおれない、人間の思いを遥かに超えた神の知恵が現れるのです。

 さらにヨハネ教会福音書記者は、一人の人間が死ぬことによって、国民が救われるのだと言う、カイアファの言葉を、もっと広げて解釈します。「国民のためばかりでなく」と、「散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」(ヨハネ11:52)。もうここでは、出エジプトの第一の過ぎ越しとも違う。ユダヤ民族だけを救うのではありません。この春の受難週に起こる、2度目の過ぎ越しは、もうユダヤ国民だけを救うのではありません。その貴い血は、全世界の人々を主にあって一つにするのです。一つなる普遍的教会が生まれる。新しい過ぎ越しによってです。私たちは皆、どの国民であっても、犠牲の小羊の死によって、等しく罪が贖われた存在なのです。その一点で結び付く。自分は知恵深いなどと自惚れていると、日本基督教団のように、バラバラになるのです。私もあなたも、ただ主の十字架によって罪が赦され、ホーリネスの人々が信じ抜いた「再臨主」によって、ラザロ同様に復活させて頂ける者です。皆、神の深い知恵によって、一つなる世界教会に属する神の子にされたのだ、西片町教会もまた、この二千年前のヨハネ教会にルーツを持つ。このような素晴らしい教会に私たちが招かれたことを心から感謝しましょう。

祈りましょう。 主なる父なる神様、あなたの小羊・御子の犠牲によって、一つとなって礼拝を献げることが出来た恵みに感謝します。しかしその「光と命と自由」を私たちに与えるために、御子が「闇と死と虜」を経験されたことを覚え、レントの日々、心からの謙りをもって過ごす者とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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