2020年2月16日 礼拝説教「わたしは復活であり、命である」

民数記11:23 ヨハネ福音書11:17~37

説教者 山本裕司 牧師

主はモーセに言われた。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」(民数記11:23)

マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。/イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ福音書11:24~25)

 ベタニアのラザロとその姉妹マルタとマリアの家族構成について、私たちは何となくラザロは弟だと思って読んでいるかもしれませんが、はっきりはしません。「姉妹」の方は、これは皆、マルタは姉でマリアは妹であると確信しているところがあります。両親は亡くなったのか姿を現しません。マルタは家の「主婦」として振る舞っていることが伝わってきます。イエス様と弟子たちが訪問された時、接待にせわしく働いたのはマルタです。彼女はイエス様にマリアのことを言い付けます。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(ルカ福音書10:40)。ラザロは弟で頼りにならない。兄であったとしても、病弱だったのではないでしょうか。一方、親代わりの姉の保護のもと、のびのびと育ったのはマリアです。幾つになっても妹のままです。そういう環境の中で、益々姉としての気質がマルタには身に付いていったと思います。

 この姉妹が愛したラザロが死んでしまう。もう4日もたちました。その間、姉妹はお悔やみに来る人たちの接待に明け暮れ、疲れ果てていたと思います。やはりこの時も、マルタだけが接待して、マリアは自分の気持ちに正直に、呆然と座り込んでいただけかもしれません。そういう時の姉とは、益々気丈に振る舞わなければならないのです。涙も流さなかったかもしれません。ラザロが危篤の時、姉妹は直ぐイエス様に使いを出しました。直ぐ来て下さい。「あなたの愛しておられる者が病気なのです」(ヨハネ福音書11:3)と。しかしイエス様は遅い。結局死後4日が過ぎ、葬式の終わりも近づいていました。その時姉妹に、イエス様が、今来られたとの伝えがあったのです(11:20)。マルタはマリアを見て、目で、お迎えに行きなさいと合図したかもしれない。でもマリアは動こうとしません。この時の姉妹は、双子のように気持ちは同じだった。イエス様に早く来て欲しかった。こんなに待ち焦がれたことはなかったと思います。マリアは、未だ生き返るかもしれないと言い伝えられてきた、3日目までは、毎日村の「境界」まで通っていたかもしれません。イエス様が地平線の向こうから現れるのを背伸びして見張った。それは歴史の悲惨に翻弄された旧約の民が、「神の子、メシア」の到来を待ち望み続けた、その姿と重なります。

 しかし絶望の4日目が来て、マリアは砂埃で白くなった髪を払いながら、とぼとぼと家に帰って「座っていた」(11:20b)のです。「イエス様が到着されました」、そう聞いても、もうマリアはそっぽを向いて動かない、イエス様は酷すぎると。頬はプーッとふくれていたのではないでしょうか。余談ですが、何故、人は、特に女性は、怒ると頬を膨らませるのでしょうか。ネットで調べたら、やはりフグ同様に威嚇するために、少しでも自分を大きく見せる習性とか、口の中につばを溜めて、攻撃の準備をしている。あるいは怒ると呼吸が荒くなりますが、怒った時は、同時に口を真一文字に結んでしまう。だから息の出所がないために、頬が膨らんでしまう、そういう説明もありました。
 そうであれば、私たち信仰者にとっては、何度祈っても願いが叶えられない時、祈ろうと思っても、もう口が開かない、それは私たちにも身に覚えがあるのではないでしょうか。むしろ口を開けば神様に悪態をつきそうで、口を真一文字に閉じる、そこで言葉が出口を失い、口の中一杯に膨れ上がってしまう、マリアはそうだったのではないでしょうか。似た経験を詩編詩人は歌っています。

 「わたしは言いました。『わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。』/わたしは口を閉ざして沈黙し/あまりに黙していたので苦しみがつのり/心は内に熱し、呻いて火と燃えた。」(詩編39:2~4a)

 姉マルタは小さい頃から感情を抑えることを教えられてきた。やらねばならないことは、好き嫌いを超えてすることが出来る、そういう女性だったのです。だから不満を隠し礼儀を尽くして、遅れて来たイエス様を迎えに行って言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(11:21)。主は言いました。「あなたの兄弟は復活する」(11:23)。そう聞いた時、マルタはもう耐えられなかった、抑えて来た感情が噴出して言い返した。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(11:24)。そんな会堂の教えはユダヤ人なら誰でも知っていますと。

 これは神学的には「未来的終末論」と言います。遙か彼方の未来、その「終わりの日」に復活する、それがどうしたんですか!、そうマルタは言いたいのです。問題は今です、と。先生、今の悲惨の前に、そんな未来の教えのどこに慰めがあると思っているのですか、と。しかし主はマルタの絶望を振り払うように、言われました。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(11:25)。

 この御言葉は、これまでヨハネ福音書が繰り返し語ってきた、「わたしは~である」という主の自己顕示です。私は良い羊飼いである。私は世の光である。私は命のパンである。この「補語」を取り去った原型は「わたしはある」(出エジプト記3:14a)という、モーセが聞いた神の御名です。つまり主イエスは「命の創造主」と一体であられる。だからマルタにこう言うことがお出来になる神的権威をお持ちなのであります。「わたしは復活であり、命である。」これは現在形です。主イエスは、つまりヨハネ教会は、SFのようであったユダヤの未来の教えが、「今、ここで現実のことになりました」と宣言するのです。今ここに、復活がある、命がある。もう未来を待つ必要はない。未来形を現在形に変えてしまう神の子、旧約の民が長く待ち望んできた「メシア」がついに「村境」に立った。こう書いたヨハネ教会の信仰とは「現在的終末論」でありました。

 「イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた」(11:30)。墓というのは、村の境界線の「外」にあるのです。村境とは、死者と生者の住む場所を分ける「境界」です。先ほどから私は「境界」と申しました。どういう漢字を思い浮かべたでしょうか。村境としての「境界」とは、日本語を使う者には「教会」を連想させるのではないでしょうか。「チャーチ」もまた、天と地の「ボーダー」です。主イエスはそこに立たれた。その瞬間、行き止まりの洞穴であったはずの「墓」で、天と地が繋がるのです。「人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。』」(11:41)。そこは、マルタの言う聞き飽きたユダヤの教理ではない、天の未聞の福音が宣言される場です。そのボーダーの「教会」に人は行かなければならないのではないでしょうか。だからマルタとマリアは、家で主を迎えたのではない、境界まで自分の方から来たのではないでしょうか。ヨハネ教会は、ここに来なさい、自分の周知の世界、古い約束、そこから出て、この天地の境界、天地を繋ぐ主イエス・キリストの御体である教会に来なさい。そこで、未聞未見の天の約束「あなたの兄弟は復活する」、その新約の福音を聞こうではないか、そう招いているのではないでしょうか。

 話は戻りますが、マルタは家に帰ってマリアに伝えます。「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした(11:28)。それまで頬を膨らませ、すねていた妹マリアは、その言葉を聞いた途端、弾かれたように立ち上がって、イエス様の所に走って行きました。この姿もまた妹らしい。この会衆席にも姉たちがいます。その姉たちが愛している妹のことを思い出すと、このマリアの姿が目に浮かぶのではないでしょうか。ありのままの妹です。しかし同時に、ある人は「教会」に走って行く信仰者の姿が、このマリアの姿に映し出されていると言いました。そうやってマリアは、主の足もとにひれ伏し(礼拝です)、姉と同じことを、しかし泣きながら、言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、あたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(11:32)。その時マリアたちはっとしました。イエス様のお顔が真っ赤なのを。そこにあるのは憤りです。何に怒られたのか。このマリアを泣かせるものに対してです。死に対してです。そして興奮して言われました。「どこに葬ったのか」、ユダヤ人たちは「主よ、来て、御覧ください」(11:34)と言いました。「墓を見よ」と、この現実を直視せよと促したのです。

 「墓」とは私たちの行き詰まりです。死の絶対的な支配の中で人は虜になる。主イエスは、人の痛みを、自分の痛みとして感じられました。死と暗闇の支配下に押し込められたラザロと姉妹たち、泣くマリア、その時、主は「涙を流され」(11:35)とあります。ここにあるのは、神の子の御感情です。マリアが泣く時、イエスも泣かれるのです。「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた」(11:38)ともある。主の頬は怒りでパンパンに膨れ上がっていたのではないでしょうか。

 人が病気になって死んだことが何だと、当たり前のことが起こっただけではないか、空は今日も晴れ渡っているではないか。遙かなる未来、その終わりの日に甦ると教えられたではないか、それで満足しなさい。そう言って、葬式に参列する者たちは、死の悲しみを知らない。その闇を見ようとしないと言っても良い。だから泣かない、憤らない。その社会的要請によって、姉マルタも我慢を強いられているのです。11:21と、11:32で、姉妹は同じことを言った。「イエス様がここにいて下されば」と。でもその後は、マルタとマリアは違う。マルタは泣かず、マリアは泣いた。その時、マリアと一緒に来たユダヤ人も初めて泣いたとあります(11:33)。マリアが泣いた時、ユダヤ人ももらい泣きして、ああ本当は、死などあってはならいと初めて感じたのです。もう死が当たり前だと思えなくなった。ユダヤ人も会堂の「未来的終末論」の限界を知った。やはりここで、ひどいことが起こっていると、あってはならないことが起こっている。それを正直に認めて良いのです。そしてイエスが、涙を流されたと続く(11:35)。マリアが泣き、ユダヤ人が泣き、イエスも泣く姿を見て、初めてマルタも一緒に泣いたのではないでしょうか。この墓前の境界にいる皆が泣いたのです。そこに真の葬儀が生まれたと言っても良い。死は、私たち人間の希望も光も愛も、時に信仰も、全てを破壊する、悪魔の働きであり、決して容認出来るものではないのです。「グリーフワーク」では、大切な人を亡くした悲しみを、表現することが奨励されます。泣くこと、怒ること、呻くこと、それを通らなければ人は真に慰められはしないと言われるのです。

 人間が原罪を持った時、地上に悪魔が用意したものが、死と闇です。人間をその洞穴の中に入れ石で塞ぎ(11:38)、もう決して出て来られないように閉じ込める、その敵・死と罪と悪魔に対して、主は憤られた。それに蹂躙される人間の痛み、それを思って涙を流された。神の聖なる御感情です。死の支配に対して憤る神なのです。だから主は、その悪しきものに、頬を膨らませて戦いを挑まれたのです。愛するマリアを、そして全人類を泣かせるものを、主は決して許しはしないのであります。主はその石を取りのけなさい、と命じられる(11:39)。そして父に祈り、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた(11:43)。そうやって、主は以下の御言葉を、今ここで現実化するために戦われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」(11:4)。神が勝利するのです。その勝利の中で、ラザロは行き詰まりの闇の墓から、神の栄光のもとに引きずり出されるのです。
 ヨハネ福音書が冒頭で語ったように、「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」(口語訳)。主イエスは、墓で、死と闇と戦って下さった。そして勝利された。その瞬間、この教会(境界)の上で天が開け、神の栄光が差し込み、新約の時代が幕を開けたと言って良い。未来形が現在形となる時代が人類に到来した。このように、私たちの神とは、今ここにおける「勝利者」なのであります。

 私たちの教会も、墓に愛する者を何人も葬ってきました。これからもそれをするでしょう。しかしその度に思い出すべきことは、主は私たちと共に泣いて下さる、死を憤って下さる、それが私たちに対する愛です(11:36)。その愛をもって墓の闇のただ中に、御手を伸ばして下さる。それは民数記で言われる「神の長い御手」であります。そして「出て来なさい」と大声で呼んで下さる。どんなに深い洞穴でも、その御声は届く、復活の長い御手は届く。そこから栄光が迸り出て、その死の暗黒を命の光で照らす。主にあって墓は天と繋がるボーダーとなる。そここそ教会であります。私たちはその事実を、マルタと共に、今朝、信じ告白したい。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(11:27)。

祈りましょう。 主なる父なる神様、私たちはなお、愛する者の復活を見ることは出来ませんが、復活は最早遠い未来のことでない、御子の御復活の勝利において、今ここに、現実のこととなっている、その福音を信じ、涙を拭うことが出来ますように。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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