2020年12月24日 クリスマス・イブ礼拝「闇を照らす光」

https://www.youtube.com/watch?v=HOYq9M1IYWI=1s

イザヤ9:1~6(旧1073頁) ルカ2:1~7(新102頁) マタイ2:13~18(新2頁)

「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」(ルカ福音書2:4)

説教者 山本裕司 牧師

 今年2020年の冬至は12月21日の月曜日で、一年で一番夜の長い時となりました。今日、12月24日の東京では、日の出は午前6時48分、日没は16時33分であり、日照時間は9時間45分しかありませんでした。しかも東京では地平線近くの太陽が高い建物の影に隠れてしまうため、日出はもっと遅く、日没はもっと早く感じられたことでしょう。まさに、自然の冬至以上の暗さと寒さを耐えている、多くの人たちがこの2020年の年の瀬、都会に溢れているのです。先に祈りましたように、疫病蔓延による大不況によって、倒産や解雇や雇い止めによって、生活がもはや成り立たないという大きな悲鳴が上がっています。最も弱い立場の非正規の人たちが真っ先に職を奪われ、ついには路上生活を強いられる、そのような境遇に陥った人も珍しくありません。

 それは日本でだけ起こっていることではありません。十年前「アラブの春」と呼ばれた民主化運動がありました。しかしそれは破綻してシリア内戦が起こりました。その時夥しいシリア人は皮肉にも最も非民主的な冬の荒れ野に投げ出されてしまったのです。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を取材したNHKBSの番組を観ましたが、その終わりなき戦闘や空爆で家を追われた数百万人の難民は、トルコなどに逃れました。そこでの彼らの生活や労働条件は最低でした。そのためさらにヨーロッパに渡ろうとする難民たちも多くいます。一人の母が大金を払ってようやく、今にも転覆しそうな満員のゴムボートに子どもたちを乗せて、命懸けで地中海に出て行くシーンが映し出されました。それは恐怖以外の何ものでありません。実際多くの老人たち子どもたちが海で凍死や溺死をしたのです。ギリシアへようやく上陸した後も、陸路、ドイツなどに向かってその母は、子どもの手を引いて野をひたすら、気の遠くなるような道を歩いて行くのです。
 あるいはシリアからレバノンに逃れた120万人の難民たちも、今コロナ禍の中でどん底の日々を送っています。コロナ感染が拡大した3月15日、レバノン政府は非常事態を宣言しました。しかし難民たちはマスクも買えず手を洗う水さえ不足し、援助も十分ではありません。その地の難民は差別され、一人の少年は遊んでいるところを誘拐され数日後ゴミために遺体が捨てられていました。体は大きく切開されていたのです。移植医療のため複数の臓器が切り取られた痕でした。あるいは自ら臓器売買や売春をする難民も多くいますが、その対価は余りにも僅かなのです。一人の男は職もなく自暴自棄となっています。彼は健気な妹たちが朝から夕まで農作業をして得た金を奪い取り、酒を買って飲み、狭いテントの中で暴れ、家族を殴りつけるのです。母親は小さな娘たちをかばって、私を殴ってと涙ながらに言う。今、氷点下の真冬を迎えた難民キャンプは、感染予防も出来ないまま、恐るべき困窮の闇の中にあります。

 今から二千年前の御子イエスの家族もまた、この季節、ホームレス同様の旅を続けていました。福音書の御言葉にあったように、当時、世界を支配していたローマ皇帝アウグストゥスが、皆故郷に帰って、住民登録をするように命令したからです。税金徴収のためでした。そのような権力者たちの貪欲によって、弱い者たちはいつの時代でも翻弄されるのです。マリアは妊娠していましたが、誰も皇帝に逆らえません。仕方なくナザレから夫ヨセフの故郷ベツレヘムに向かいました。その距離は百㎞以上ありました。ベツレヘムで二人に与えられたのは、派遣切りに遭った人やシリア難民に似て、北風吹き込む家畜小屋でした。そこで幼子イエスは冬至の直後、飼い葉桶の中にお産まれになったのです。しかしそれで、旅の話は終わりません。

 当時、ローマ皇帝の許しを得て、ユダヤの国を治めていたのはヘロデ大王でした。ヘロデは星に導かれて来た東の国の占星術の学者たちを呼び寄せました。学者たちが、ユダヤ人の王となる子を探していると聞いて、王は不安になりました。自分の身分が危ういと思ったのです。それで王は、その子が大きくなる前に、殺してしまおうと考えました。そして、ベツレヘムとその周辺の村々にいる二歳以下の男の子を一人残らず殺しました。その邪悪な計画を夢の中で天使から知らされたヨセフは、幼子イエスとマリアを連れてエジプトへ旅立ちました。聖家族は追っ手を逃れるために、普通の道を通らずに険しい道を辿りました。夜は洞窟で休みながら、西へ西へと旅をしたのです。結局、この家族は二千㎞もの逃避行を強いられたのです。シリア難民の母子同様の彼らに、その過酷な旅を耐えさせたのは、マリアの胸に抱かれた幼子イエスの命の輝きと温もりであったことでしょう。

 『9000マイルの約束』という実話をもとにしたドイツ映画があります。これは、距離的には、聖家族の旅を上回る逃避行の物語です。

 その登場人物の一人の少女リサに、その家族に起こったことを、ある人は語らせています。私はリサと。うちはママと弟の3人暮らし。パパは…、今はいない…。1944年8月、パパは戦場へ行った。クレメンス・フォレル、それがパパの名前。中尉だったの。あの日はバイエルンの駅まで、ママとお見送りに行った。列車に乗ろうとするパパに、ママは赤ちゃんができたことを教えたわ。私は絵はがきを送ってねって頼んだ。そうしたらパパは言ったの。「クリスマスまでには戻る!」それがパパを見た最後。それから一年以上が過ぎた秋、パパは未だ行方不明だった。どんなに調べても分からなかったの。ママは辛そうだった。だから私、マリアさまにお願いしたわ。「パパをおうちに帰してください」、今日はそれから7年の1952年のクリスマス・イブ。これから家族三人で教会に行くところ。ねぇパパ、あの時の約束を覚えている?「クリスマスまでには戻る!」、私は覚えているわ。

 敗戦によってソ連の捕虜となっていたクレメンスはシベリアの強制収容所に移送されました。寒さと劣悪な環境の中、アウシュビッツのユダヤ人収容所を思い出させるような、過酷極まりない労働と拷問の日々が始まりました。仲間が次々と倒れていく中で、彼はリサとの約束を胸に収容所を脱走します。しかし本当の試練はここから始まりました。東の果てのシベリアからドイツまでユーラシア大陸を、9000マイル(14484㎞)を横断しなくてはならない。彼は脱走があり得ないはずの厳冬に、しかも追跡をまくために西への道を取らず、さらに北を目指すのです。どこまで行っても四方八方、真っ白な世界でした。彼はコンパスだけを頼りに歩き続けました。そのあげく、彼が見たものは一本の木でした。彼はその木にすがりつき泣きました。生命が何もない世界で、唯一の命を抱き締めたのです。その雪原の中の一本の木とは、御子イエスの命を象徴するのではないでしょうか。

 前には何一つない大雪原、背後にはソ連軍の追跡、しかし彼に救いの手を差し伸べくれた人々も現れました。雪原の原住民は彼の命を助け逃亡者と知りながら家族同様に扱ってくれました。中央アジアでは飢えて乞食同然の彼に少年がパンを恵んでくれました。そして同じ町で一人のユダヤ人がクレメンスを自分の家に招き、風呂に入れ、新しい服を与えてくれたのです。さらに国境を通過できるように偽造パスポートまで準備してくれました。実はこのユダヤ人の兄はナチス・ドイツの犠牲になって死にました。しかし彼は困っている人がいたら助けるのが当然だと言い、ドイツ人と知っていて、クレメンスを助けようとしたのです。しかしそれが原因となって、直後心臓発作で死にました。彼もまた兄と似て、ドイツ人のために犠牲となったユダヤ人なのです。御子イエスの十字架の贖いのように。

 映画ではたびたび、祈る場面が出てきます。特に「主の祈り」がクレメンスの口からほとばしり出てきます。シベリア逃亡中持参の食料が尽きた時、「主よ、我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りました。またある時、彼は恐怖から思わず無関係な男を何度も殴りつけて殺してしまった。それを思い出して、シナゴグで彼は跪きます。「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と。その直後先ほど紹介したユダヤ人と出会うのです。クレメンスは、ただ自分は被害者だと思っていた。ソビエト人に対する憎しみで一杯だった。しかし実は自分も同じだと知ります。自分の経験した全く同じ恐怖を、ドイツ人はユダヤ人に味わわせてきたのだと知り愕然とするのです。その間、リサも父の帰りを待ち続け、祈り続けました。「マリアさま、パパを、どうか…」と。

 ラスト、1952年12月24日の夜、クリスマス・イブの教会では、キャンドルに照らされて聖歌隊が「マリヤはあゆみぬ」を歌います。リサが気配を感じてふと振り返った瞬間、「クリスマスまでには戻る」との約束の言葉が、果たされたことに気付きました。

 「マリヤはあゆみぬ」(讃美歌Ⅱ124)を、先ほど私たちも一緒に歌いました。これは、中世末期に作られた美しいドイツ・キャロルです。胸に幼子イエスを抱き、茨の森を進み行くマリアを想い作られたこの讃美歌はその中で、「キリエ・エレイソン」とリフレインされます。1節「マリヤはあゆみぬ キリエ・エレイソン、茂る森かげの いばらのこみちを。キリエ・エレイソン。」3節「いばらの枯木も キリエ・エレイソン、血にそみしあとに きよき花さきぬ。キリエ・エレイソン。」

 「主よ、憐れんでください、キリエ・エレイソン」、それはどうしても、欲望の末に、自己中心のために、憎しみ合い、殺し合う私たちの祈りです。その罪の報いを受けて、逃げ惑い、飢え渇き、闇を恐れ、寒さに震える、クレメンスを始めとする、私たちの祈りなのです。
 その祈りに応えて「クリスマスに、私は来る」との約束を果たすために、キリストは9000マイルどころではない、宇宙を貫いて天から地に降ってこられました。そして私たちを憐れみ、日用の糧と罪の赦しを、戦に平和を、寒さに温もりを、死に命を、闇に光を与えてくださるために、厳冬のクリスマスの夜、マリアの胸の中にお産まれくださいました。そのインマヌエルの御子を今、心からお迎えしましょう。

祈りましょう。 御子イエスを、私たちに与えてくださった父なる神さま。心より感謝します。一年の内で一番、日の短いこの夜、コロナ禍の世界中で、難民を始めとして、職を失い、住まいを奪われ、寒さで震えている夥しい人たちがいます。このような社会、世界を作り出している私たちの原罪を、主よ、憐れんでください。そして、どうか、今、御子イエスの光を受けて、私たちもどんなに小さくてもいいから、光の子として、夜の中に出ていくことが出来ますように。聖霊による助けを与えてください。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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