2020年12月20日 主日朝礼拝「老人たちのクリスマス」

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ゼカリヤ8:1~4(旧1486頁) ルカ福音書1:5~20(新99頁)

万軍の主はこう言われる。エルサレムの広場には/再び、老爺、老婆が座すようになる/それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。(ゼカリヤ8:4)

「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」(ルカ1:18)

説教者 山本裕司 牧師

 例年であればこのクリスマス礼拝の朝、この礼拝堂は教会学校の子どもたちが加わることによって満員だったと思います。教会員の皆様には毎年申し訳ないと思いながら、その子どもたちにいわば上座を譲って頂いて、後ろに座って頂くことになりがちでした。礼拝後も子どものたちの歓声で華やぐ愛餐会、そしてパパママたちも参加してくださるページェントが開催されてきました。しかしコロナ感染拡大のために合同礼拝は出来ませんでした。あるいはこの季節家庭でも、クリスマスの飾り付けをして、子どもたちへのプレゼントが用意されます。しかしだんだん何もしなくなる。子どもたちは大きくなり友達や恋人とクリスマスを楽しむようになり、やがて家には老夫婦だけがぽつんと残される、それでもケーキを買ってきてクリスマスのお祝いをする家は少ないのではないでしょうか。そのようにクリスマスというのは、若い人たちのお祭りと思われているかもしれません。しかし私たちは改めてルカ福音書から世界で最初のクリスマスを祝った人たちのことを学ぶ時、気づくことがあると思います。勿論そこに若夫婦・母マリアと父ヨセフが登場します。しかしそれ以上にルカ福音書の物語の中に、次々に登場するのは老人たちです。先ほど朗読したルカ1章5節以下に先ず記されるのは祭司ザカリアと妻エリサベトです。御子イエスの証人ヨハネの父母となる重責を担う夫妻です。1:7bにはこう説明されます。「彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。」さらにもう少し読み続けますと、2:25(新103頁)以下に、讃美歌(21-282、3節)でも「老シメオン」と呼ばれる敬虔な信仰者が現れます。彼は百十二歳だったと言う伝説もあります。次に、2:36(新104頁)に登場するのは、アンナという「非常に年をとっていた」女預言者であり、「八十四歳」(2:37)とはっきり書いてあります。その老人たちが、両親に連れられて神殿に初参りに来られた幼子イエスを見て、深い喜びに捕らえられたのです。これらに物語られるのは、老人たちのクリスマスです。

 どうして祝うのは老人が多いのでしょうか。注解者はこの老人たちとは、旧約聖書を代表すると指摘するのです。旧約とは旧い約束のことです。メシア・救い主が来るとの神の約束です。私たちは今年の降誕前の期節、教会暦の伝統に則って「旧約聖書」を読んだのです。そこには最初の殺人者カインの物語がありました。その六代目のレメクの復讐賛歌や、人間の分を超えて巨人化(神格化)したネフィリム神話も読みした。そこで私たちが感じたのは、この人間の根深い原罪の故に、救い主が来てくださらなければ、もうこの世はどうにもならないということです。その後の時代も、旧約の民イスラエルは不信仰の故に、北と南に分断され、憎しみ合っている内に、北も南も、ノアの洪水のように滅びの大海に飲まれてしまうのです。その苦しみの中で、どんなに旧約の民は救いを待ち望んだことでしょうか。しかし、約束のメシア・キリストはなかなか来てくださらないのです。来ないまま何百年もたってしまった。気が遠くなるほど、長く待ち続けた旧約の民の姿が、この「老人」たちの姿に投影されている、そう解説されます。

 待つことはそれだけで戦いです。待ち合わせていて、約束の時間が少し過ぎただけで、もう相手は来ないのではないかと疑い始めます。私たちも敗戦後75年間平和を待ち望んできました。日韓の和解を、あらゆる差別からの解放を求めてきました。何よりも御子の福音があまねく行き渡るように待って来ました。西片町教会の兄弟姉妹たちが、その平和のためにどれ程祈り献身してきたかを私はよく知っています。しかし私を含めて皆年を取ってしましいました。今日本において教会はすっかり老いてしまって年々歳々弱体化しています。日韓関係も戦後最悪と呼ばれるほどになりました。「日本国憲法」には信じ難い「解釈」がなされて骨抜きにされたのです。良くなるどころか悪くなるばかりだったのです。しかし西片町教会はソウルチェイル教会と共に決してこれからも諦めないと信じます。そういう私たちのあり方の大先輩となる、待ち続けて老いてしまった神の民イスラエル、その象徴である老ザカリア、エリサベト、老シメオン、アンナの所に、とうとうクリスマスがやって来たと、ルカ福音書は歓声を上げているのです。それが福音書冒頭に連発される「クリスマス賛歌」となりました。その一番目は若きマリアの「マニフィカト」ですが、その次は祭司ザカリアの歌、1:68(新102頁)「ほめたたえよ」「ベネディクトゥス」です。

 当時、エルサレム神殿に仕えた祭司の数は二万人と言われていますが、ザカリアはその下級祭司の一人でした。その祭司たちは、24の組に分けられて交代で神殿に仕えていました。ちょっと計算しただけでも、一組に八百人以上が属していたと思いますが、その組は順番にお務めが義務付けられていました。当番が回ってくると、1:9(新99頁)その同じ組の中でくじを引いてたった一人を選ぶのです。その人だけが聖所に入り礼拝を司ります。それは下級祭司にとって一生に一度の檜舞台でした。ザカリアは長い「務め」の終わりが近づいていたと思います。ところがどういうわけか、くじに当たったのです。その時ザカリアはこう思ったかもしれない。ああ「隠退の花道」が与えられたと。それだけにこの神殿奉仕を滞り無く全うしたいと。
 もう何百年も前から定められてきた礼拝式順です。そのやり方を経験者から教えてもらい、それからというもの、礼拝動作や朗読を何度も反復練習したと思います。そしてついにその日がやって来た。聖所での礼拝はリハーサル通り正確に流れていった。安心してふと隠退後のくつろいだ日々、重荷を下ろした妻との自分たちだけの時間をうっとりと空想したかもしれない。ところがいよいよ香を炊く段になった瞬間、計算外のことが起きました。
 1:11~12「すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。」そして礼拝は、ザカリアの計画と全く違うものになってしまったのです。顔面蒼白となったザカリアに天使は言いました。1:13「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」これから、救い主イエスの先駆者ヨハネの父とあなたはなると。そうであれば、この神のご介入はこの礼拝一日だけのことではありません。彼と妻の残された人生への介入となります。彼は受け入れません。自分たちの老後の計画があったからに違いありません。

 1:7「彼らには、子供がなく」とあります。確かに若夫婦の時は「子宝を私たちにもお授けください」と何度も二人は祈ったことでしょう。だから天使は、1:13「あなたの願いは聞き入れられた」と言ったのです。そうであれば、私たちは祈る時もずっと先のことまでよく考えて祈らねばならいということでしょうか。神様はとんでもない仕方で私たちの祈りを叶えるお方です。今更、若い時の祈りを聞いてくださると言っても、今、子どもが与えられてももう育てる気力体力はありません。もう新しいことはいらない歳なのです。欲しいのは老後の安らぎだけです、と。ところが、その自分の計画に神が割り込んでこられる。押し戻したい。1:18b「わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」そう口答えした瞬間、ザカリアは口が利けなくなりました。天使ガブリエルはこの裁きの理由をこう言ったのです。1:20b「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」そして福音書は続けます。1:21「民衆はザカリアを待っていた。そして彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。」やっと聖所から出てきた時は、口が利けないので、最後に両手を上げて民衆を祝福する、その大事な締め括りも出来ない。何一つ自分の計画通りにならなかったのです。それがザカリアのこの日の礼拝でした。

 しかし改めて礼拝とは何でしょうか。礼拝とは人間が自己主張する場ではありません。私たちの賢しらな知恵、私たちの計画、それら全てが沈黙して、神に語って頂く、神のご計画を聞く、それがこの礼拝であります。それは神の私たちの人生へのご介入を受け入れることです。そして新しくなることです。しかしそれを私たちは受け入れられません。私たちが少し前、長く読んできた偉大な書ヨハネ福音書に現れる「夜の人ニコデモ」のことを、私はここで思い出しました。主イエスはニコデモに「新たに生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:3)と言われました。それに対してニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか」(ヨハネ3:4)とやはり言い返しています。老ザカリアも同じ気持ちだったことでしょう。

 しかしこの直後、エルサレムからナザレに翼を大きく広げて飛んで来たガブリエルは、マリアにこう告げました。ルカ1:36「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」そして続けました。1:37「神にできないことは何一つない。」だからザカリアもニコデモも「終活」などしている暇はない。ここからむしろあなたたち夫婦に「人生の本番」がやって来るのだと。終わりではい、最も新しいことが始まるのだ。旧い約束を終わらせ、新しい約束を切り開く「救い主」の道を整える偉大な子が、今、あなたの家に生まれようとしているのだ、その子と共に「新しい約束」をあなたたち夫妻は切り開かねばならない。その貴い使命がこれから始まるのだ、年を取ったなどと言わせはしないとガブリエルは言うのです。

 やがて御子イエスも生まれます。ヨセフとマリアは、2:22(新103頁)、清めの期間が過ぎたとき、幼子を連れてエルサレム神殿に初参りをしました。そのエルサレムにはシメオンという人がいました。この人もイスラエルの慰められるのを、2:25待ち望んでいたのです。2:26「そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」そのシメオンが神殿で幼子イエスを見た時、2:28、幼子を腕に抱きました。彼は約束の完成、救いそのものを抱き締めたのです。そして、ルカ福音書に記される、四番目のクリスマス賛歌、「ヌンク・ディミトゥス」がシメオンによって歌われるのです。2:29「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(2:29~30)。喜びの歌です。待つことに献げきった人生の目的が達成されたのです。やり残したことは一つもない、その充足した心がここにあるのです。どんなにシメオンはこれまで祈り続けたことでしょうか。2:36老女アンナも祈る人でした。二人はイスラエルを慰めてください、この人間の原罪にまみれた殺戮と破壊の世界を救うメシアよ、一日も早く来て下さい、と祈り続けたのです。その救いがついに来た。その瞬間から新しい時代、「新約」が時を刻み始めました。ですから紀元前と「主の年」紀元後では、根本的に時代は変わったのです。

 しかしそこでです、そこで、不思議なことに、キリスト以後(紀元後)も、旧約時代と同様、殺戮と破壊の歴史は続いたのです。いえ、最初に言いましたように、むしろ年々歳々ひどくなった、と言わねばなりません。
 
 老シメオンが、二千年前に既に幼子イエスを抱いて、深い安堵を得たのに、何故、私たちは、未だに平和を得ていないのでしょうか。私たちはなお別にメシア、救い主を待たねばならないのでしょうか。そうではありません。既にキリストはクリスマスの夜、私たちの所に来られたのですから、紀元以後、私たちはもう待つ必要はありません。それでは誰が待っているのでしょうか。ある人は、神が待っておられると言いました。旧約・紀元前は、人間が待っていました。しかし、新約・紀元後は、神が待っておられる、と言うのです。私たち人間が悔い改めて、既に来てくださっている幼子イエスを、シメオンのように腕に抱き締めるのを、神は今か今かと待っておられると言うのです。しかし紀元後、人間は御子を抱き締めるどころか、絞め殺して生きてきたと言って良い。神はだから私たちの悔い改めを二千年待たれました。待つ戦いを諦めないで続けてくださっているのです。

 「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(ペテロの手紙二3:8~9)。この神の忍耐なしに、私たちはとうてい2021年の新年を迎えることは出来ないでしょう。

 老シメオンに聖霊は告げておられました。「メシアに会うまでは決して死なない」(ルカ2:26)と。これは、実は旧い約束であるだけでなく、私たち全人類に対する、新しい約束、新約でもあるのではなないでしょうか。私たちがどうしてもメシアを受け入れない不信仰を悔い改め、その平和の主に真実に出会うことが出来るまで、私たちはこの世を去ることはないし、地球は滅びることはないと。私たちが罪を重ねてきたにもかかわらず、なお生きることをこの年も許されました。それはその時を用いて、私たちが真実に悔い改めるためではいでしょうか。これまでの巨大な罪責を清算し、神と隣人と和解すること、自分の人生に対する神のご介入を受け入れること、そうやって、私たちがクリスマスの御子に、真実の意味で出会うために、御子を抱き締めるために、主の年2021年を、神は私たちに与えてくださろうとしているのではないでしょうか。そう思う。

「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイ24:14)

祈りましょう。主なる父なる神様、あなたの人生へのご介入に逆らおうとする私たちの頑なな心を、どうかクリスマスの恵みをもって打ち砕いてください。今来てくださった、御子イエスをしっかりと抱き締め二度と離さず、それが故に自分の人生計画が変えられることを受け入れ、そちらの方が良いということを信じて「ほめうた歌え」と「ベネディクトゥス」と賛美する私たちとならせてください。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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