2020年12月13日 主日朝礼拝説教「主の御名を呼ぶ我ら」

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創世記6:1~8(旧8頁) マタイ福音書6:9~10(新9頁)

「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。」(創世記6:4)

説教者 山本裕司 牧師

 今私たちが毎主日読んでいる創世記の天地創造物語には元々2つの資料がありました。それらがこの創世記が編纂される時に組み合わされたと学者たちは説明します。一つは創世記冒頭1:1~2:4aまでです。これは、未曾有の敗戦とバビロン捕囚を経験した祭司たちによって、編纂されました。従って祭司「Priest」の頭文字から「P資料」と呼ばれます。その成立は紀元前六世紀のことで、イスラエルが滅亡してしまった最も悲惨な時代でした。捕囚の地の彼らは、詩編詩人が歌ったように「虫けら」(22:7)のように扱われたのです。その時、祭司たちは「いや、あなたがたは虫ではない」と、創世記1:27「神にかたどって創造された」神の分身と呼んでも良い尊厳を持つ人間なのだ、そう自信喪失と絶望の内にある民をこの創世記冒頭の人間創造の神話を通してPは力強く励まそうとしたのです。

 もう一つの資料は創世記2:4bから表れますが、これは学者たちが「ヤーウエスト」(Jhawist)と呼ぶグループによって編纂されました。それは「主」と訳される「ヤハウエ」という「神の名」を用いて物語を綴る、そのために「ヤーウエスト」と名付けられた第二の創世記記者のことです。やはりその頭文字からJ資料と呼びます。このJ資料は年代的には、祭司資料(P)より古く紀元前十世紀頃記されました。その時代は捕囚期とは対照的でした。イスラエルはダビデ、ソロモンという二代続いた偉大な王によって、類い希な繁栄を謳歌していたのです。しかしその時ヤーウエスト(J)は、2:7a「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり…」とPとは異質な人間創造の神話を書きました。その意味は成功に酔い高慢に陥った紀元前十世紀のイスラエルに、自らが「土の塵で」造られた人間である分をわきまえなさいと、自らを神のように思ってはならないと、真の主ヤハウエの御前に人間は謙遜であるべきと求めたのです。

 古今東西の権力者、成功者たちに見られる破滅は、自分が元々「土の塵」から造られた有限な存在であることを忘れたからに違いありません。彼らは自分は願いさえすれば何でも出来ると、そのような「巨人幻想」に囚われました。その過剰な自信は人を必ず破滅させます。ヤーウエストがこの創造物語で主題としたものはこの「人間の巨人化」、言い換えれば「人間の自己神格化」の問題でした。人間は被造物としての分に納まることが出来ず、世界の「主」(あるじ)に成り上がろうとする。しかしそれが「真の主」によって阻止される、という一連の物語を、彼らは編纂しました。そのJ資料に表れる一つが今朝巡って来た物語です。

 「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。」(創世記6:4)

 ここにネフィリムの出現が書かれてあります。その当時だけでなく「その後もいた」と書かれているように、ネフィリムの名は民数記13:32b~33(旧235頁)に再登場しています。イスラエルが約束の地カナンに入るために先住民を偵察に行った斥候がこう報告したのです。「我々が見た民は皆、巨人だった。/そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。…我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」

 斥候が自分はいなごだと虫けらだと思わざるを得ない、ネフィリム「巨人」の出現が、今朝の創世記6:5では人の悪と結び付くのです。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」つまり巨人、超人(スーパーマン)が現れることによって、世の中が良くなるどころか返って悪くなる。神が人を創造したことを後悔する程になってしまうのです。それは人間が驕り高ぶるからです。そこで主は大洪水を引き起こし、傲慢な人間を動物諸共滅ぼすというのが、ヤーウエストの記した洪水物語です。

 このネフィリムの物語の源流はヤーウエストより、遙かに昔のどこかの民族の神話に遡ると考えられています。そうであれば、元々この6:2「神の子」とは何者だったのでしょうか。よそから来る「ストレンジャー」ということかもしれません。古代人は生まれた集落で育ち、その中で結婚し、やがてその村で死んでいく、それが何世代何十世代と続いたのです。そこでは「近親婚」が繰り返されていたに違いありません。ところがある時、集落と外界を遮っていた広大な砂漠を越えて来たストレンジャー、見知らぬ人が訪れるのです。その肌や目の色が違う旅人が話す不思議な世界の話、またその立ち振る舞いは、閉鎖社会に生きる村人をどれ程魅了したことでしょうか。旅人はまさに異星人・神の子のように見えたと思います。それが青年であれば娘たちはこのストレンジャーに心引かれたことでしょう。そしてそのエトランゼと村の娘たちは結ばれるのです。6:2「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。」そして生まれたのがネフィリムです。いわばここに「遺伝的多様性」が生じました。そして近親婚を繰り返してきた村にはこれまで存在しなかった新人類のような子どもたちが生まれてきたと思います。古代人もそのような場合、能力が高く健康で長生きの子が生まれることを経験的に知っていたに違いありません。そのような古代人の経験がこの神話の背景にあり、そこから天使(ストレンジャー)と娘たちの間に、ネフィリム、6:4「名高い英雄」が現れるという物語が伝承されてきたと思います。現在の遺伝子操作に繋がる長寿、アンチエージング、さらに不死をこの血の交配によって得ようとした企ても昔からあったと思います。主なる神はその人間の野望を既に知っておられました。「人は…手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」(3:22)。人間のそのような永遠の命に手を伸ばそうとする巨人化への欲望を、主なる神は「ケルビムと、きらめく剣の炎」(3:24)によって阻止されるのです。

 今、遺伝的多様性と言いましたが、実はそれに反して、この人間の野望こそ、最初の人間アダムとエバから延々と受け継いできた「原罪の遺伝子」そのものなのであります。だからこの永遠を求める人間の企ては、信仰的意味では、何の多様性も新しさもありません。そこで起こったことはただ、6:5「地上に人の悪が増す」だけでした。使徒パウロが「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)と言ったように。そこで主は言われます。創世記6:3「「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。」神は人間が永遠の神に成りたいと高ぶる、その野望を阻止し、人間の生命の限界をはっきりと定められたのです。
 
 また別の解釈ですが、ある旧約学者(ヴェスターマン、月本昭男)は、この6:1「神の子」とは「王」のことを暗示していると指摘しています。王様や権力者が神の子と呼ばれることは珍しくありませんでした。またネフィリムも、6:4「大昔の名高い英雄たち」とありますが、これもやはり王の側近や王家に属する人々を指す言葉だそうです。それではその王たちは何をしてきたかということです。例えば創世記12章や26章には、アブラハムやイサクの妻がエジプト王やゲラルの王に奪われそうになる記事があります。そういう権力者は、まさにいなごのような平民に対する巨人と自らを覚え、自分の欲望を「虫けら」に向かって何でも実現しようとしました。彼らはそこで自分の好む女を手当たり次第に召し抱え子どもを産ませるのです。そういう事実をこのネフィリムの記事は暗示しているのだという説明です。6:2「おのおの選んだ者を妻にした」とあります。原文では「妻たち」という複数形です。神様は天地創造物語の中で、未だ造られたままの無垢であったアダムとエバを祝福して、2:24「二人は一体となる」と宣言しておられます。この楽園エデンでの結婚の倫理を逸脱して、何人でも女性を自分のものにしようとするのが王家の男たちでした。しかしそれは神の与えられた一夫一婦の秩序、その人間の限界を突破しようとすることです。その巨人化、自己神格化こそ原罪であると聖書はここで批判するのです。

 先ほどもこれを書いた編集者、ヤーウエストの時代は、イスラエル黄金時代であったと指摘しました。その時代の王はダビデとソロモンです。彼らもその少年時代は、神の民イスラエルとして、純真な信仰を持っていたと思います。しかし揺るぎなき権力を得て、全ての者が自分の前で平伏する時、まさにネフィリムのように巨人化してしまうのです。人はそのサタンの誘惑に耐えることは出来ません。そこで自分が「束の間」の人生を生きる土の塵から造られた「被造物」であることを忘れるのです。そうやって人間の限界をさらに超えようとするのです。いわば、もう一度禁断の木の実を食べるのです。主イエスが山上の説教で言われたように、神様は私たちに必要なものはみな与えてくださっているのです。ところがそれで満足出来ない、もっと欲しいと思う心、貪欲の罪です。そこで被造物の限界を突破しようとするのです。ダビデは既に多くの妻、側室を持っていたにもかかわらず、部下であるヘト人ウリヤの妻バト・シェバを妊娠させました。このおそらく外国人であったバト・シェバからソロモンが産まれるのです。そこでも遺伝的多様性が起こったのかもしれません。ソロモンはダビデの後継者としてこの上なき有能な息子となるのです。「ソロモンの知恵」と呼ばれるほどの頭脳を持ったのです。やがて彼はエジプトのファラオの娘のほかに、モアブ人、アンモン人、エドム人など多くの外国の女を愛しました。一千人のハーレムを持ったのです。まさにエトランゼ(異邦人)と情を結んだことによって王は、女たちが都エルサレムに持ち込んだ偶像崇拝の誘惑を受け、唯一の神への信仰を汚したのです。彼の晩年はその外国の神々に心を惑わされることになりました(列王記上11章)。その不信仰の故に国は乱れ、ソロモン死後、僅か十年弱で国は南北に分裂するのです。イスラエルのバブル時代はそのように、神の永遠の眼差しから見れば「空の空」束の間でしかありませんでした。そういうイスラエルの痛恨の歴史が、今朝の神話的物語によって批判されていると学者は指摘しています。創世記6:5~6「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」

 そして主は創造をやり直さねばならないという苦渋の決断をするのです。現実の歴史でも南北分裂後のイスラエルは滅亡への坂を転がり落ちて行きました。そうやってP文書の時代が来るのです。人間の巨人化は滅びを招く、それを神の裁きと、ヤーウエストはこの後に続く「ノアの洪水物語」で描こうとしたのです。
 この神の裁きとは、決して失敗作をさっさとゴミ箱に捨てて、新しくキット買ってくる子どものような気持ちではありません。創世記6:6「心を痛められた」とあります。神は自らの傲慢によって墓穴を掘る人間を見て「ほら見たことか」と笑っておられるのではありません。それはこの原罪の遺伝子の源であるエバに対する御言葉からもその真意が分かります。創世記3:16「お前のはらみの苦しみを大きなものにする」と神は禁断の木の実を食べたエバを裁きました。しかしこの「産みの苦しみ」と同じ「苦しみ」という言葉こそ、今朝の6:6の「心を痛める」と同じ言葉なのだそうです(松本敏之牧師)。まさに神はせっかく創造したのに、いわば信仰的には死産となってしまったような人間たちの有様を見て苦しむのです。そして母がお腹の赤子の生命を守れなかったことに嘆き悲しむ、それと同様の「痛み」を感じられているのです。そしてもう一度創造主としての「産み苦しみ」を負うために、ノアを中心とする世界の再創造を激痛の中で決心されました。それは御子イエスの十字架において、頂点を迎える神の痛みです。

 私たちの傲慢の罪のために自ら痛み、それが故に私たちの原罪の傷を癒やしてくださるヤハウエなる神の与えてくださるものこそ「信仰の遺伝子」です。先週読みました、創世記4:26にこうありました。「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」「ヤハウエの御名を呼び始めた」人間が現れたのだとヤーウエストは歓喜の中で綴るのです。このエノシュの遺伝子を私たちは受け継がねばなりません。それは自分が土の塵から造られたと認める謙遜の遺伝子です。その大切な遺伝子を破壊しようとする、それこそ、よそから来るまさにストレンジャーそのものである悪魔、その遺伝子の侵入を私たちは拒むことが求められているのです。信仰の遺伝子を操作されないためです。御子の教えてくださった主の祈り「御名が崇められますように」(マタイ6:9)をもってブロックするのです。この人類悠久の昔に与えられた「御名」ヤハウエを呼ぶ遺伝子を生涯保持し、次の世代に受け継いでいく、その使命を果たすことが出来るように祈りましょう。

主なる神様、直ぐネフィリムのようになってしまう愚かな私たちを憐れんでください。どうか悔い改めてあなたに立ち帰らせてください。今なおあなたは御子に服従する遺伝子、礼拝者の遺伝子を持つ、新しい命のための産みの苦しみを続けていてくださることを覚え、私たちも子どもたちにこのエノシュの遺伝子を受け継いでいくことが出来るように聖霊を注いでください。そして子どもも大人も共に、自らの人間としての限界を受け入れ、ひれ伏して御子を拝するクリスマスを迎える、西片町教会とならせてください。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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