2020年11月8日 主日礼拝説教「あなたは、神に従いなさい」

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創世記19:17、26(旧26頁) ヨハネ福音書21:20~23(新212頁)

主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。…さもないと、滅びることになる。」(創世記19:17)

ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。…/ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。(ヨハネ福音書21:20~21)

 今私たちが読んでいますヨハネ福音書21章には、弟子ペトロの復権の物語がありました。ペトロは御受難の夜、大祭司邸であなたは弟子の一人ではないか、と問われた時、三度「違う」と否認しました。主が十字架の上で苦しまれている時も、その「そば」(19:25)にいようとしませんでした。主のもとに留まったのは四人の女性たちと「イエスの愛する弟子」ヨハネのみでした。いずれの福音書でも一番弟子の名誉をほしいままにしてきたペトロが、十字架の主の元から遁走したのです。しかしそのペトロを復活の主は親しく訪ねてくださり、三度「シモン、わたしを愛しているか」と問い直してくださり、三度の否認を払拭する三度のペトロの愛の信仰告白を引っ張り出してくださったのです。弟子として死んだと自他共に覚えられる他はなかったはずのペトロは、十字架の恩寵によって罪赦され、お甦りの主の恵みによって弟子として復活したのです。しかし恵みとはいつももらいっぱなしでは終わりません。恵みに応える「生き方」へと人を促すのものです。

 ルカ福音書にイエス様がファリサイ派の家に招かれた時のことが書かれてあります。その時、罪深い女性が、イエス様の足に香油を塗るという出来事がありました。それを見て、ファリサイ派シモンが深い嫌悪感を露わにした時、主イエスは物語を語り始めたのです。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百万円、もう一人は五十万円である。/二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」/シモンは(勿論、帳消しの額の多い、五百万円の方です、そう答えた。そうだね、と主は続けます。「この人を見ないか。…この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。…わたしの足に接吻してやまなかった。…この人は足に香油を塗ってくれた。(シモンよ、あなたは何もしてくれなかった)/(ここが大事です)だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(ルカ7:41~47)。

 ペトロも多くの罪を赦しいただいたのです。その時、ペトロの心に大きな愛が生まれたのです。それが主に対する献身を呼び起こすのです。主はそこで、21:17「わたしの羊を飼いなさい」と三度、ペトロに教会牧会者の使命を与えられました。続いて彼が、殉教の死をもって神の栄光を現す弟子となると預言されたのです(21:19)。それを聞いてペトロの心は燃えたと思う。私のために命を捨ててくださったそのお方のために、自らの命を捨てる、そうやって、大きな赦しに見合う大きな愛を献げる、そう誓ったと思います。ここに初代教会を導く大牧者が誕生した。ペトロは朝焼けに輝くティベリアス湖を背に真っ直ぐに伸びる宣教の道を見つめている。その道を突き進む彼の脇目も振らない前進が暗示されて、この福音書最後の物語は終えればよかった…、のではないでしょうか。

 ところがそこでペトロは「振り向いた」(21:20)と続くのです。私はこの礼拝において、新約の御言葉にあった旧約の箇所を選ぼうとします。なかなか見つからない週もある中で、今朝は候補が幾つかありました。その一つが先ほど朗読した創世記19:17です。神の怒りによって悪徳の町ソドムとゴモラが滅ばされようとする時、神様がロトに言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。…さもないと、滅びることになる。」ところが ロトの妻は残してきた財産に執着したのでしょうか。「後ろを振り向いたので、塩の柱になった」(19:26)。振り向くことは、滅びを招くことと言われています。ペトロが振り向いて見たのはヨハネです。この瞬間、ペトロが思い出したのは、あの最後の晩餐の情景でした。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である」(21:20)。ヨハネは主の胸に寄りかかっていた、まさに愛弟子であった。そして「主よ、裏切る者は誰ですか」と尋ねた。それはユダのことですが、ペトロはあれは自分のことだったのではないだろうかと思ったのではないでしょうか。それに比して、ヨハネは主の胸もとに寄りかかったままのように、十字架の主のそばを離れなかった。ペトロはヨハネを見る度に、劣等感を覚えずにおれなかったのではないでしょうか。神様から見れば、ペトロもヨハネも大同小異であったかもしれません。人は皆罪人です。しかし人間だけの世界では、他人との小さな差異を見付けては、優劣、損得、上下を、意識する、そこで優越感、劣等感の虜になり、誇ったり妬んだりして生きているところがあります。

 ペトロとヨハネの関係は微妙です。いつも同じ弟子として共に苦しみを分かち合っているようであって、どこかずれる。それは復活の朝の競争にも暗示されています。マグダラのマリアから、主が墓から取り去られたと聞いて、二人は墓に向かって走り出しました。ところが、ペトロがどんなに一所懸命走っても、ヨハネはどんどん先に行ってしまった。その記憶も、この湖畔で振り向いた一瞬、ペトロの頭によぎったかもしれない。そして彼は主に問いました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21:21)と。

 私は殉教するかもしれない、それは良い。しかしこの人はどうなるのでしょうか。まさかずっとイエス様の「胸もとに寄りかかったまま」ではないでしょうね。勿論この後イエス様は昇天されますからそれは出来ませんが、それに似た安らぎの境地を送るのではないでしょうねと。そこでイエス様は答えられました。21:22~23、わたしの再臨の日まで彼が生きていたとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさいと。それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まったのです。実際「愛弟子」は長寿であったらしいのです。12弟子の中で、唯一殉教しなかったらしいのです。しかしそんな寿命の長短など、永遠の神様から見れば、やはり無きに等しい。そしてヨハネ教会の苦難の歴史をずっと学んできた私たちは、その創始者ヨハネがどれほど苦しんだであろうか、容易に想像がつきます。しかしその苦しみに彼は、霊的に、主の胸もとに抱かれることによって耐えただけです。どちらが恵まれた伝道者の一生であったか、そんなことは人間には分からない、それなのに、私たちは何故か、自分の方が割を食ったなどという妄想に苛まされるのではないでしょうか。

 ある牧師は、人は自分一人であれば、使命に案外忠実でいられる、真っ直ぐであることが出来る。しかし自分より得をしている仲間を振り向いた瞬間、迷い始める、そう言いました。これは私たちにも思い当たるのではないでしょうか。世の中ではそれはありふれたことですが、それは教会の世界でもうっかりすると起こる。そう復活の主は、ここから復活の朝のペトロとヨハネのように宣教の道を走り始める初代教会に、そんなことで躓かないようにと、警告を発しておられるのです。

 初代教会には三つの大きな流れがあったと思われます。一つが、使徒言行録前半に記されるように、使徒ペトロを中心とする原始エルサレム教会です。次が、使徒パウロが開拓伝道した、小アジアとギリシア地方の異邦人教会です。そして3番目の流れこそ、このヨハネ福音書を生み出したユダヤ人教会・ヨハネ教会です。そして、このヨハネ福音書を生み出したヨハネ教団の源流、その中心こそ「主の愛された弟子」、この福音書では匿名となっていますが、直弟子、ゼベダイの子ヨハネであると考えられてきました。このヨハネ福音書が他の3つの共観福音書とは異なる独特な世界観を表していると私たちは感じてきました。ですから新約学者は、ヨハネ福音書を生み出した教会は、使徒ペトロに権威を置く流れの教会とは異なった形で誕生、形成された教会であると指摘しています。その創始者、愛弟子ヨハネこそが、このヨハネ福音書に記される独特の物語や証言を伝えた中心人物と考えることが出来るのです。この後、初代教会の三大潮流以外でも、あるいはその潮流から分岐していった、大小多くのキリスト教教派が、全世界で生まれていきました。そこで、比較的穏やかな中で成長していく教会がある一方、内憂外患によって躓き倒れる寸前という教会も多く現れたに違いありません。実際、消滅した教会も無数にある。その時、どうしても気になるのです。振り向くどころじゃない、前後左右上下、全部見回して、自分たちがその競争の何番なのか、勝ち組か負け組かそれが気になる、そういうことが教会にもあるのではないでしょうか。

 そのことを予想して主はペトロに言われるのです。「…あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(21:22)。そこでもう一つ、今朝の旧約の候補とした物語は、サムエル記上18:7以下に記される、敵を打ち破ったダビデが凱旋した時の物語です。「女たちは楽を奏し、歌い交わした。『サウルは千を討ち/ダビデは万を討った。』サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。『ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。』この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった」(サムエル記上18:7~9)。やがて暗殺を企てました。イスラエル初代王サウルは何に妬んだかと言うと数の問題です。ダビデは万、わたしは千かと。教会も「教勢」という数を気にします。「教団年鑑」に毎年度、全ての教会の会員数、受洗者数が報告されます。統計は必要なことですが、しかしそこで「振り向く」という誘惑が起こるのです。その誘惑を避けて「教団年鑑」を購入しない教会もあるくらいです。もう一箇所、今朝の候補にした旧約の箇所は、創世記のカインとアベルの物語でした。この兄弟に人類最初の殺人事件が起こる。カインとアベルは神様に供え物をした。ところがどういうわけかアベルの供え物だけを神様はお受け取りになり、カインとその供え物に目を留められなかったと書いてあります。えこひいきのようなことが起こった。カインはアベルに嫉妬します。その妬みの余り弟を殺したのです。ここでも振り向くことは、ロトの妻同様に滅びを招くと言われているのです。「振り向きの罪」とはそれほどのものだと言われているのです。神様に供え物した。それに対する報いが見えないのです。一方、祝福されている者がいる。許せないのです。最初から神様に対していい加減に生きていれば、カインにこれほどの憎しみも妬みも起きなかったのです。だからこれは一所懸生きた人に来る誘惑です。懸命に神様に仕えたのに報われないのです。一方、他の人を見ると羨ましい限りである。「ペトロは彼(愛弟子)を見て」(21:21)とはっきり書いてある。神様を見ていません。そこにサタンの誘惑が来るのです。

 神を見ず、人を見る時、私たちの奉仕はおかしくなる。だから主はペトロに、どうしても言っておかねばならなかったのです。福音書もこれを二度、21:22、23b、で繰り返して、私たちに肝に銘じるよう促しています。「…あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」このペトロに服従を求める言葉は、既に21:19でも語られていました。「わたしに従いなさい」と。しかし違うところがあって、ペトロが「振り向きの罪」を犯した後の、21:22の方は「あなたは、わたしに従いなさい」と訳されています。原文でも「あなたは」という代名詞が21:22の方では入るのです。主はここでは「あなたは」(su、複数系umeis)と強調されたのです。これは英語の「You」では、二人称単数複数の区別はつきませんが、ギリシア語は区別があって、はっきり「二人称単数形」で言われました。まさにペトロ一人だけに言われたのです。

 私たちは先ほど「使徒信条」を告白しました。この信仰告白は一人称単数「我は…信ず」という言葉から始まるのです。他の多くの信条は「我々は信ず」(複数)と告白されます。教会で告白されるのですから当然「我々の告白」となります。しかし使徒信条だけは、信仰告白の中で例外的に「我は」と始まります。まさにこの告白こそ復活の主がペトロに求めたことではないでしょうか。「他の誰も信じなくてもかまわない。私は信じる」という信仰告白なのです。この使徒信条の原型は迫害の嵐が吹き荒れる時代に生まれました。洗礼を受けるとは、まさに「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(21:18)、それを意味したのです。そんなことは御免被ると、皆が教会を去っても「私だけは残る」そのような神の前の単独者として立ち続ける志を持つ者たちが2人でも3人で良い、集まったところに教会が誕生したのです。

 この「使徒信条」成立には有名な伝説があります(森本あんり著『使徒信条 エキュメニカルなシンボルをめぐる神学黙想』より)。12使徒は、使徒信条を生みだそうとした時、それぞれが一箇条ずつ持ち寄りました。12人の告白が全て終わってみると、それがまるで縫い目のない一枚の布のようにぴったりと繋がって、現在の形の使徒信条に仕上がったというのです。例えば、十字架の下にいた愛弟子ヨハネは「十字架につけられ」を告白しました。復活の主を疑ったトマスは「三日目に死人のうちより甦り」という一箇条を持ってきました。他の弟子たちを出し抜いて、神の国の右大臣の「座」に、自分をと願い出たヤコブは「全能の父なる神の右に座し給えり」を告白し、主イエスの「御座」の確かさのみを信じる人間に変えられました。ところでペトロはどこを持ってきたのでしょうか。それこそ「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」、冒頭の一条だったのです。これはペトロがついに「振り向きの罪」を悔い改め「我信ず」と「他の人は関係がない」と「一人称単数」の信仰告白を得たことを表しているのです。私たちも同じです。

 祈りましょう。  主なる神様、私たちは、直ぐ振り向いてしまいます、周りを見回してしまいます。前を速く走って遠ざかっていく者を羨み妬みます。この、人を見て神を見ない、愚かな私たちに「あなたは、わたしに従いなさい」と、単数形で語りかけてくださる御子の言葉をもう一度聞かせてください。そうやって「我信ず」と告白する者たちを集めて、他との比較に耐える、健やかな教会共同体を建てる使命を果たす私たちとしてください。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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