2020年11月29日 主日朝礼拝説教「荒れ地よ、喜べ」
https://www.youtube.com/watch?v=JEWZqVq7qkk=1s
創世記4:1~16(旧5頁) ヨハネ黙示録7:2~4(新460頁)
主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」(創世記4:9)
説教者 山本裕司 牧師
「天地創造」という大枠で括られる創世記前半の物語は「歴史」ではありません。「神話」です。その意味は、例えば最初の人間アダムは実在の人物ではないということです。実在した人物、つまり歴史と呼べるのは、創世記においてアブラハム前後からだと推測されます。神話と言うと何か低次元の文学だと思うかもしれませんが、そうではありません。そこに神話でなければ表現することが出来ない、井戸のように深い何千年、何万年にも及ぶ、人類の重層的な「心」が隠されているのです。人が人として生きる時の喜怒哀楽、その何十世代にも亘る様々な経験を凝縮して表現することを可能とする文学、それが神話です。従って神話はその重層性の故に多様な解釈が可能となります。そこで今朝もカインとアベルの神話を読みましたが、先週(2020年11月22日、教会ホームページに掲載)とは異なる解釈をしたいと思います。それはこの兄弟の「生業」(なりわい)に注目する読み方です。「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった」(創世記4:2)。ある学者は、この神話には二つの生業、牧畜と農耕の人類史的文化的対立が背景にあると指摘するのです。
元々のイスラエルの出自は荒れ野を旅する遊牧の民でした。それがイスラエルの理想的生き方として、出エジプト記に記される四十年の荒れ野の旅に表現されています。移動する民に貧富の格差は生まれません。平等協力の精神が育まれます。出エジプトの民は、保存が利かない日毎の糧マナによって養われました。それによって、人は物によってでなく、荒れ野の神(出エジプト3:18)の恵みによって生きる、その荒れ野の「信仰と倫理」が育まれたのです。ところがイスラエルは乳と蜜の流れるカナンに入りました。そこは原住民によって農業が営まれていました。そこでイスラエルはカナンの民から農耕を学び、遊牧の生活を捨て定住します。そこに富の蓄積が始まる。町が生まれ、同時に貧富の格差や身分が生じます。人が人を差別するようになる。カナン農業神バアル、アシェラは生産を約束する偶像、富の神です。イスラエルは農業を生業とした時、その偶像神の激しい誘惑を受けることとなったのです。
考古学者松木武彦先生はこう指摘します。牧畜の前段階文化である「狩猟社会よりも、農耕社会において、対人用武器や戦争がより発達した。狩猟社会が、支配と被支配の形を持つ、国家や都市の社会に発展した例はない。武器や戦争、国家や都市は、つねに農耕社会の中から生まれた」(『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』)。
父母から原罪の遺伝子を受け継いだ兄カインが選んだのは、まさにこの農耕であったのです。「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」(創世記4:3~5b)。砂漠の神ヤハウエは、既に不信仰の悪臭を放ち始めていたかもしれないカインの土の実りを、受け入れることは出来なかったのです。砂漠の神は遊牧の弟アベルの生贄に目を留められました。カインは自分より遙かに劣ると思っていたアベルの受けた神の祝福に嫉妬激怒し、おそらくは鋤か鎌で弟を殺したのです。
生物学者コリン・タッジは「農業は人類の原罪である」と言いました。その中で思いがけず、ネアンデルタール人と私たちの直接の先祖ホモ・サピエンス(クロマニョン人)との生存競争について論じます。今から四万年前まで、中東やヨーロッパで、ネアンデルタール人とクロマニョン人という二種類の人間が、数万年以上に亘って同時代を生きていました。自然のままの狩猟を行ったネアンデルタール人に対して、クロマニョン人は原農業を始めました。クロマニョン人は不確かな狩猟に頼る必要がなくなる。定住し数を増やしカイン同様に「町を建て」(4:17)ました。その農業による食糧安定の中で自己誇示やレジャーのために狩りを続け、全世界の大型動物の多くを短期間の内に絶滅させてしまうのです。そのため狩猟のみに頼っていたネアンデルタール人は食糧を失い、その上武器に長けたクロマニョン人との戦争に敗れて絶滅したと言われるのです。
遊牧民アベルの死、その神話にはネアンデルタール人の遠い滅亡の記憶が投影されているのではないでしょうか。神はその時カインを呼びました。「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と。それに対して、カインは「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(4:9b)と目を背けた。どうしてこんな冷たいことが言えたのでしょうか。それは農耕社会の中で、人間には値打ちがある者とない者があるという「身分」をカインは学習し、弟を差別していたからではないでしょうか。アベルは羊飼いという「番人」でした。カインは「この私が動物の番人である旧人の番人なのですか」と、そういう嘲笑を神に投げ返したのではないでしょうか。しかし荒れ野の神の価値観は違います。「主は羊飼い」(詩編23:1)と歌われるのです。ヤハウエは、私たち迷える羊の牧者・番人となってくださったのです。しかし「新人類」と高ぶるカインは御心が分かりません。
顧みると創造主は最初の人間アダムにこう言われました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2:18)。「助ける者」とは奴隷ではない。「パートナー」です。共に生きる隣人のことです。どちらが上も下もありません。しかしそのエデンの園における平等の心は、知恵の実を食べた人間からは消えました。差別心が生じた。今から四万年前、生き物を殺戮しながら「町を建て」たクロマニョン人に、神は「お前の弟ネアンデルタール人は、どこにいるのか」と問うたのではないでしょうか。その時彼らもまた「知りません。わたしは野蛮人の番人でしょうか。」そうヘイトスピーチまがいの言葉を発したのではないでしょうか。そうであれば、その子孫である私たちもまた、神から問われ続けているのです。「沖縄の兄弟は、どこにいるのか。」「福島の子どもたちは、どこにいるのか。」、「福島の牛や犬たちは、どこにいるのか」、「辺野古のジュゴンは、どこにいるのか」、私が与えたはずの「助ける者」たちはどこにいるのかと。
カインの話に戻りますと、彼は殺人を犯すことによって、神の裁きを受けます。定住農民であったカインは「お前は地上をさまよい、さすらう者となる」(4:12b)との裁きを告げられました。農耕文明によって自分は守られていると思っていたカインは「さすらい」を恐れます。彼はその頼りなき荒れ野で、自分が弟を殺したように、誰かに殺されるに違いないと直感しました。「今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」(4:14)。カインはここで命懸けの祈りを生まれて初めてしたのではないでしょうか。砂漠の放浪者となった時、彼に残されたのは、もはや砂漠の神ヤハウエだけだったからです。荒れ野の人生のただ中でこそ、私たちは、私たちの番人となってくださる、荒れ野の神を見出すのではないでしょうか。その発見こそが「悔い改め」であります。神はカインの傲慢な献げ物は受け入れません。彼の砕けた悔いた心の奉献こそ、神様は喜んで受け入れてくださるのです。
「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。/しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。/打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:18~19)
良き羊飼いである主は、その時、迷える羊カインの上げる呼び声に応えてくださる。「『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。』主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」(創世記4:15)。このカインの「しるし」は、入れ墨か焼き印であったと推測されます。それはカインが荒れ野の「神のもの」であるという「しるし」です。それによって、カインとその子孫は、さすらいの地であっても、命を守られるのです。これこそがイスラエルが理想とする荒れ野の信仰なのです。
ヨハネ黙示録7:2b~4には、終末の黙示が書かれてあります。その終わりの日、東から一人の御使いが飛び込んできて、古い世を滅ぼそうと待ち構える四人の天使たちに「ちょっと待て!」と大声で叫びます。そして飛び回って神の僕たちの額に刻印を捺して回る幻が描かれます。彼等が最後の審判に耐えることが出来るように。ここでは刻印とは、神様が終わりの時に神の僕たちに与える特別の配慮を示しています。それは神のものとされたしるしです。そのしるしこそ、私たちが悔い改めた時、授けられる洗礼であります。荒れ野の神だけに頼って生きたアベルの信仰が、この試練の砂漠放浪の中で、初めてカインの心にも甦ったのではないでしょうか。そうであれば、ここでも「神の裁きは恵みである」その真実が明らかになった。詩人が歌ったように。「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(詩編119:71)。
先ほど遊牧民アベルの死には、クロマニョン人との生存競争に敗れた、ネアンデルタール人の滅亡の記憶が投影されているのかもしれない、そう紹介しました。知恵の実を食べたクロマニョン人は技術力に優れており、武器を発展させ、ついにネアンデルタール人を圧倒した。これが私たちの先祖です。だから私たちは相変わらず知恵の実を食べた者として、武器を開発し続け、動物も人間も殺し続けています。今や、全生命を全滅させる核兵器を保持するに至りました。階級社会を作り隣人を差別し続けています。ところがネアンデルタール人の方は、大昔から死者に花を手向けて葬る美しい心を持っていたことが考古学的に分かっています。またハンディキャップを持っている仲間を、まさにエデンの園での創造主の言葉通り「助けて」共に生きていたことも判明しています。彼らは決して野蛮人ではなく、そういううるわしい心の持ち主であった。それだけに、クロマニョン人の敵ではなかったという人もいるのです。
しかしそうやってアベルのように滅んだネアンデルタール人ですが、しかし一方、最近のゲノム、遺伝子研究では、私たちの体にはこの旧人のDNAが数%含まれていることが発見されました。つまりクロマニョン人とネアンデルタール人は交配していたのです。そうであれば、私たちの内には、ネアンデルタール人の血が確かに流れているのです。あるいは、また別の学者は交配を考えなくても、この両者は共通の原人からの分岐であるのだから、私たちの脳の奥底には、このネアンデルタール的な心が隠されていると指摘します。これらはおとぎ話として聞いてくださって良いのですが、羊飼いアベルと重なるネアンデルタール人は、攻撃的でない柔らかな心、競争でなく共存の心、それが私たち残虐なクロマニョン人の脳の奥底にも隠されている、そう言うのです。その無意識下のネアンデルタール人の心が甦ってくる時、私たち人間も変わることが出来ると、その人はまるで科学を超越して夢見るように語るのです。私もこれを聞いていて、聖書を読んでいるような気持ちになりました。
そうであれば、私たちの心の奥底には、アベルの記憶、エデンの楽園で神ヤハウエと出会った最初の人間の脳、その奥底に隠された記憶、あるいは無垢な信仰の遺伝子が流れているのではないでしょうか。人類が経験した神との出会い、その気が遠くなるような深い井戸のような記憶、その記憶を私たちはこの教会で主日毎に触れているのです。礼拝をする度に、その原罪を犯す前の幼子のような最初の人間の心が、聖霊によって私たちにも甦ってくるのです。それが、この世の生活の中で起こる、荒れ野をさすらうような人生、その悲しみに耐えさせる。罪を犯して生き、どんなにその砂漠に迷っても、きっと羊飼いである主が探しに来てくださる、そのカインの記憶が、礼拝をする度に感じられる。神秘と言ってもよい、奥深い人類と神との出会いの記憶、何万年も遡る主なる神との愛の交流、その遺伝情報が私たちの血にも残っている。この人類の根源的記憶(DNA)こそクロマニョン人の末裔を救うのではないでしょうか。バアル的貪欲の末、殺戮と分断と差別に生きて、もはや完全に行き詰まった文明の中に呻吟する私たちを救う唯一の道、その神との出会いの記憶、それだけが私たちの文明の病を癒やし、神に創造されたままの信仰者に戻る可能性が開けてくるのではないか、そう思います。
祈りましょう。 主なる父なる神様、深い井戸の底に隠されているような、あなたの恵みの記憶を甦らせてください。直ぐあなたの恵みを忘れてしまいます。だからこそこの礼拝の場にしがみつくようにして、羊飼いであるアベルの記憶、その遺伝子を呼び覚まし、カインの心を悔い改めることが出来ますように。この信仰の記憶の水を豊かに湛える深い井戸である西片町教会を、あなたがこれからも守り、これからも多くの人たちがこの命の水を汲み続けることが出来ますように、聖霊を注いでください。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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