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2020年11月22日 主日朝礼拝説教「楽園回復」

2020年11月22日 主日朝礼拝説教「楽園回復」

https://www.youtube.com/watch?v=zE1LnE101A4=1s

創世記4:1~16(旧5頁) ルカ福音書23:39~43(新158頁)

カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。(創世記4:16)

するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ福音書23:43)

説教者 山本裕司 牧師

 私たちは先週、ヨハネ福音書を読み終えました。そこで今朝の降誕前第5主日より、旧約聖書、創世記を読んでいきたいと思います。これは教会暦に叶っていると思います。一月後に教会が祝うクリスマスは、言うまでもなくキリスト・救い主の来臨を記念する祭りです。しかしその救い主を待っていた時代があるのです。それが旧約の時でした。ですからこの教会暦・降誕前の期節には教会では旧約聖書を読む慣わしがありました。この旧約の時代、預言者たちは繰り返し、やがて救い主が来ると約束したのです。その心に合わせるように、私たちも救い主を待ち望む思いをもって、創世記の物語を今朝から読んでいきたいと思います。

 何故、旧約の民は、救い主を待ち望んだのでしょうか。それは、先ほど朗読した創世記4:1以下の兄弟の悲劇的物語を読むと分かると思います。救い主キリストが来てくださらなければ、この兄弟の苦しみ痛みは解決されない、それは明らかだと思います。

 カインとアベルの話です。既に禁断の木の実を食べ堕落した、最初の人アダムとエバの二人の息子です。聖書には、不幸な兄弟、悲しい家族の物語が多く書かれています。それは余りにも多くニュースなどで聞かされる、現代の家族崩壊の物語、悲劇的な兄弟の物語と重なるのです。そのような今の時代背景もあるのでしょうか、韓国SBSが制作した「カインとアベル」(2009年)があり、その同名でリメイクした日本のテレビドラマ(2016年)も数年前放映されました。そこには毎回「原案・創世記より」というテロップが流れました。それらに描かれたのも、やはり父に認められたいと願う兄と弟の激しい争いのドラマでした。

 この兄弟たちの葛藤の原因は嫉妬です。弟アベルは羊飼いとなりました。兄カインは農夫となりました。二人は、やはり秋の収穫感謝祭だったのでしょうか、それぞれの産物を父なる神に献げました。ところが父なる神は、アベルの献げ物はお受けになりましたが、何故かカインの献げ物には目を留められなかったのです(4:4b~5a)。どうして神様はこのように兄弟を扱ったのだろうかという問いを多くの人が持ちました。その解釈の一つは、4:4にあるように、アベルは自分の羊の群れの中から最も値打ちの高い「肥えた初子」持って来た。カインの場合は供え物に関して、ただ4:3「土の実りを主のもとに献げ物として持って来た」とあるだけです。
 以前、子ども用の聖書アニメを観ていたら、カインは穀物を供え物として分けた時、一度その穀物の山をじっと見て惜しくなったのでしょうか、自分の籠にその半分くらいを戻してしまう、そういうふうに描いていました。私たちも献金をする時、いろいろな思いにかられますが、それに似て、カインは神様に惜しまず献げたのではない。カインの献身には欠けがあった。だから神様はお受けにならなかったのだ、そうアニメは理解したのです。なるほどと思うわけです。そうやって、このえこひいきのような物語が一応合理化されるのです。しかし、ある学者(野本信也先生)はこのアベルの献げ物が4:4「肥えた」ものであった、この言葉は、元々の創世記の言葉にはなかったと指摘しています。オリジナルの聖書ではアベルの奉献がカインよりも優れていたから選ばれたということは書いてない。だからこそカインが、4:5b「激しく怒って顔を伏せた」となったのは、当然のことであったと言われるのです。カインに、先のアニメのように、何か後ろめたいことがあれば、これほど神様に怒らなかったのではなないかとも思うからです。つまり怒りは自分がいわば「理由なく」差別された、その心から噴出してくるのです。

 そう言われれば、私たちもこのカインの怒りは思い当たるのではないでしょうか。ある教師は「現代人の傲慢は、人が自分に優越することに耐えられないことだ」と指摘しました。差別はいけない、平等に扱われなくてはならない、現代人はそう子どもの頃から教えられてきました。それは当然のことです。しかし、私たちの人生は実際、決して平等にはいきません。そもそもこの物語は、アニメのような祭壇の話を超えて、この兄弟の生業(なりわい)が成功したか失敗したか、そういう問題だったのかもしれません。アベルの牧畜が成功し、カインの農業が巧くいかなかったという、あの日韓のドラマが描いたような、とても具体的な仕事の成否の話かもしれないのです。神様は何故、彼の仕事を顧み、私の人生は祝福してくださらないのですか、そう私たちも神様に問いたくなることがあるのではないでしょうか。

 先の教師は「平等原則への疑問」という一文を書いています。私たちは子どもを育てる時に、差別なく公平に接したいと願います。しかし、先生は、絶対に平等であらねばならないなどと、子どもに思わせたらいけないと言うのです。親や教師が平等にするのは当然です。しかしいつでも人は公平でなくてはならない。少しでも不公平なことがあったら頭にくる、などと子どもたちが考えているとしたら、それこそが問題だと言われる。そんなことでは、世の中一日だって生きていかれはしない。世の中は最初から不公平、不平等に出来ている。背の高い人がいて低い人がいる。健康な人がいて病弱な子どもがいる。美人がいて不美人がいる。頭の良い兄と出来の悪い弟がいる。金持ちの家に生まれる子がいる。貧しい家の子がいる。世の中は平等じゃない。世の中とは不公平、不平等に出来ている。この世に生きていくことは、その不平等に耐えていくことだ、そう先生は言うのです。耐えることを知る子どもになって欲しい。平等に平等にと言っている内に、人間は不満と妬みと怒りの塊になる。人間の本当の幸せは分からない。美人に生まれた子どもが幸せになるとは限らない。美男などとうぬぼれている男は軽薄だ。その損得はすぐには分からないでないかと言いながら、先生は最後に使徒パウロの言葉を引用されるのです。

 ローマ9:20「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。」

 ある雑誌にこんなことが書かれてありました。「仮にA氏としよう。彼は一流大学から一流企業に就職し、人も羨む昇進を遂げた。ところがそんなA氏は、確実だと思われていた役員に昇格することが出来ず会社を追われた。それまでは○○社の支店長A…とさえ言えば、誰もが黄門様の印籠を示されたときのように、はっはーっと頭を下げてきたのに、もう誰もそんなふうにしてくれない。混乱したA氏は、まもなく、鬱の症状を呈し始めた。それまでは穏やかな人だったのに、家族に対して異様な剣幕で怒り出すようになった」と。

 創世記4:5「(主は)カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」

 このカインがしなければならないことを、主は丁寧に教えてくださいました。その優しいお言葉を読むとカインは少しも神様から見捨てられてはいないことが感じられます。主なる神はまるで父親のように一所懸命カインを宥めてくださるのです。4:6~7a「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」弟のようにうまくいかなくても、何も恥じなくて良いではないか、だから顔を上げなさい。この人生の試練に耐え、この躓きを受け入れ、変わらずお前らしく胸張って生きていけば良いではないかと。

 そして続けます。いまや、4:7「…罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」私たちがこの物語を読んだ時、先の日韓のドラマより先ず思い出すべきは、1952年に書かれたジョン・スタインベックの『エデンの東』です。映画化もされました。その中で中国人古老が、この御言葉4:7b「お前はそれを支配せねばならない」、これを延々と議論する、そういう情景が置かれています。この中のたった一つの動詞を解析するために、彼らはヘブライ語を一から学んだと言うのです。新共同訳では「支配せねばならない」と命令形で訳された言葉です。原語は「timsel」(ティムシェル)です。これを古老は、長年の研究の末「あなたは支配することが出来る」という意味であると、そこに到達するのです。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。(しかし)お前はそれを支配することが出来る」。「You Can!」です。ここでは「罪」が修辞的に、戸口で人間を飲み込もうと待ち伏せする「猛獣」のイメージとして表れますが、それをカインよ、お前は、ねじ伏せるだろう、それが「出来る」という、人間の大いなる可能性を開く意味だと古老は知ったと言うのです。
 しかし果たしてそう楽観的に言えるでしょうか。使徒パウロは言いました。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。…わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。/わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ7:19、23~24)。自分は罪の「とりこ」だと、まさに悪に支配されていると、パウロは告白せざるを得ないのです。

 このパウロの言う通りで、カインは負けました。禁断の木の実の誘惑に耐えることが出来なかった父母の血、その原罪の血を引く者として、やはり試みに負けます。その罪に引き摺られるままに弟に襲いかかり殺しました。兄弟を殺した人生は、もはや祝福されることはありません。土が弟の血を飲み込み、もはや作物を産み出すことはなくなりました。カインは地上をさ迷い、4:16「エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ」のです。

 3:24によれば、原罪をもった人間は、エデンの園を追放される。そして園への道を塞ぐために、入口のあったエデンの東に、主は、ケルビムという天的怪獣と、燃える剣を門番として据えられました。いわば天的力で二重ロックします。呪われたエデンの東の荒れ野で人はさ迷いながら、西の世界にはエデンがある。どこかに罪のとりこから解き放たれる「楽園」があると、それはどうやら西にあるらしい、と不思議なことに、多くの民族は共通に思うようになりました。古代人にとっては、太陽の沈む真っ赤な夕陽の向こう側・西の洋上に祝福された常春の死者の国があるのだという想像になりました。現実にも、嵐の後など西に面する海岸に椰子の実がたどり着いている。あるいは西岸(せいがん)に見慣れぬ丸木舟の残骸が打ち上げられていることもある。そうであれば、西の海の向こうに、見知らぬ楽土があるのではないかという空想を生みました。そのために、人は限りなく「西方(せいほう)の国」に憧れ、それはついに大西洋を西へ渡る大航海や、アメリカの西部開拓の精神的エネルギーとなったとさえ言われるのです。東洋には極楽とか桃源郷という言葉があり、やはり西方(さいほう)浄土という言葉もあります。どの人類民族にも共通して、激しいとも言いうる西の果ての楽園願望があるのです。

 先にもう一箇所朗読したルカ福音書の中で、主イエスと一緒に十字架につけられている犯罪人は、主イエスにこう願います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23:42)。死刑囚にとって、御国、楽園とは、遙かに遠い場所でした。自分のような罪のとりこが、エデンの園に戻れるわけがないと思う。しかしなおそこで救い主キリストの憐れみにすがって願わざるを得ない。私のことを出来るなら、御国で思い出してください。そうお願いした時に、本当に思いがけないことだった思います。主は、23:43「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束されました。もうあなたにとって楽園は遠くない、罪に支配されたあなたを、その麗しい園に戻すために、私は今十字架についているではないか。そうキリストは言われる。御国に昇った主が、十字架を振り回して、ケルビムを追い払い炎の剣も打ち倒してしまわれる。そうやって園の東の扉を大きく開いてくださる。主が私たちの原罪を十字架で、全て贖ってくださったからであります。

 カインの話に戻ると、彼はさすらいの地に追放される時、誰かに殺されることを恐れました。しかしその時、主は、やはりこの罪人に対して、憐れみをほどこしてくださる。4:15a「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」さらに4:15b「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。」このカインの「しるし」とは、具体的に入れ墨か傷跡であったのではないかと言われています。その神の配慮があるために、カインとその末裔は、さすらいの地であっても、命を守られるのだと言われます。カインはそのしるしの故に、どんなに主に感謝したことでしょうか。後にパウロは、このカインのしるしをイメージしたのか、自分は「イエスの焼き印を身に受けている」(ガラテヤ6:17)と言いました。

 この「カインのしるし」のことを学んでいるとおもしろい学説に至ります。それは「ケニ人仮説」(von Rad)という説です。カインを父祖とあおぐ部族にケニ人がいます。やはり入れ墨をもったと言われるケニ人は、唯一の神ヤハウエを崇拝していました。しかし、このケニ人は、イスラエルのように約束の沃地に定住することを拒否し農耕生活を受け入れず荒れ野を移動して生きる部族でした。そしてこのケニ人仮説によると、イスラエルの祖先は、このケニ人からヤハウエ(主)への信仰を学んだというのです。それはモーセがヤハウエ(主)という御名を初めて教えられたのが、ケニ人の一氏族ミディアン人の地だったからです。モーセの義父エトロもミディアンの祭司、ケニ人の子孫でした。そう考えると、罪人カインの血統から、主の御名はイスラエルに伝えられたのです。
 人生は確かに不平等です。その試みに負け罪を犯す者もあります。しかし主はなおそのような私たちを憐れみ、その罪をも用いながら、主の御名を宣べ伝える器へと変えてくださるのではないでしょうか。カインは罪を犯したために、返って主の救いの「焼き印」を体に得たのです。そのしるしの意味を、子孫に喜んで伝えて生きたのではないでしょうか。「これによって私のような罪人も荒れ野を生き抜けたのだ」と。この刺青を持つケニ人から主の御名が、イスラエルに伝わったのです。かくして私たちのどのようなマイナスも主にあってプラスに転じる。それを本当に知る時、私たちは、たとえ不平等だと思うような人生の試練に遭っても、このマイナスは主にあってはプラスに転じる、この信仰によって、それに耐えて、胸張って生きていくことを学ぶのではないでしょうか。

 中国人古老はこう訳せると言った。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配することが出来る」と。そこで思い出すのは、ヨハネ黙示録3:20、ラオディキアの教会への手紙の中でイエス・キリストが言われた言葉です。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事を…するであろう。」私たちの心の戸、それを何者のために開くかが問われているのです。私たちは使徒パウロが言うように、自力で、この猛獣の如き罪に立ち向かうことは出来ません。しかし心の戸をたたいてくださっている救い主を、戸を大きく開いて迎え入れるなら、私たちは、心の戸口に待ち伏せする「罪」を入れないことが出来るのではないでしょうか。主イエスが私たちの心の扉に、それこそ、ケルビムときらめく剣以上の、十字架という障壁を立ててくださるからです。そこであの古老の翻訳は真実となるのです。「timsel」(ティムシェル)、それはこう訳せる、「あなはた罪を支配することが出来る」、カインの所にもクリスマスの夜、救い主が来臨くださるが故に、罪をあなたも支配することが出来る。クリスマスとは何と嬉しい祭りでしょう!

 祈りましょう。 主なる父なる神様、多くの罪への誘惑が私たちの心の戸口で待ち伏せていますが、どうか、それを退けるために、先ず御子を私たちの魂に迎え入れることが出来ますように。しかしなお罪に負けてしまっても、あなたはそれを通して、あなたの恵みを知る者に変えてくださることを覚え、その恵みの中で、罪に勝つ道もまた開かれることを信じることが出来ますように。十字架の焼き印を受けた者として、この降誕前の期節、「西方」の楽園を目指して旅する私たち西片町教会としてください。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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