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2020年11月15日 主日朝礼拝説教「主イエスの証人ヨハネ」

2020年11月15日 主日朝礼拝説教「主イエスの証人ヨハネ」

https://www.youtube.com/watch?v=AuvkdSLwAoI=1s

エゼキエル18:30~32(旧1322頁) ヨハネ福音書21:24~25(新212頁)

「わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル18:32 口語訳)

「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」(ヨハネ福音書21:24)

説教者 山本裕司 牧師

 旧約聖書・エゼキエル書の記された時代は、滅びの時代でした。既に北朝イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、やがて南朝ユダも紀元前597年、バビロニア軍によって侵略されます。そして王ヨヤキンを始めとする上層階級一万人が、一回目の捕囚として都バビロンに連れて行かれました。その時、エルサレム神殿の祭司であったエゼキエルもバビロンに連行されたのです。やがて、異国の地で彼が聞いたニュースは、母国の滅亡でした。ユダ最後の王ゼデキヤは、バビロニアへの隷属に耐えられず、大国エジプトと同盟関係によって独立を回復しようとしました。しかしバビロニア王ネブカドネツァルはこれに激しく怒り、都エルサレムを二年間の包囲の後、前587年の夏に陥落させ神殿も焼け落ちました。生き残った市民は連行され、第二回バビロン捕囚となったのです。預言者と召されたエゼキエルは、ネブカドネツァルの侵略を、信仰を見失ったユダ王国への神の裁き、その代行と洞察しました。彼は、強力なエジプト軍といえども、その人間の力に頼ることの愚かさを語ってやみませんでした(29~32章)。

 その滅びの時代、からくも生き残った者も異国で引き籠もっている。しかしその時エゼキエルは、希望を語り始めたのです。それが今朝私たちに与えられた、エゼキエル書の御言葉です。「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。/わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(18:31b~32)、そう主なる神は言われるのです。

 私は若い頃から、この御言葉を自らの励ましの言葉と覚え大切にしてきました。当時は口語訳でした。18:32「わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ。」この最後の箇所「翻って生きよ」、この翻訳を私は忘れることが出来ません。神を信頼することを止め人間に頼った、エジプトに頼った、軍事力を誇った、そのために滅亡したイスラエルです。しかし神はエゼキエルの口を通して、ああイスラエルよ、それでもお前たちは生きることが出来る、翻って生きよと言われます。翻るとは、広辞苑によると、ひらりと返る。裏返る。踊り飛ぶ。文例としては「風に落葉が翻る」、そうありました。そうであれば、神はここで、イスラエルよ、死から命に翻れ、ひらりと返れ、と言われているのです。どうやったらそれが出来るのでしょうか。どうやったら、この絶望に凝り固まってしまった人生が踊り飛ぶように翻るのでしょうか。

 その答えの発見こそ、私たちが、2年弱を用いて今朝まで読み続けてきた、ヨハネ福音書が書かれた目的であったのです。今朝その福音書の後書きを朗読しました。この福音書は後書きが二つあります。それは既に20章で一度、ヨハネ福音書は終わっていて、そこにも後書きがあるのです。20:31「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(新210頁)。「命を受けるためである」とあります。これが目的なのです。どうして命を受けることが出来るのかというと、それは「イエスを神の子メシアであると信じる」(20:31)、その信仰によって私たちは生きる、そう約束されているのです。
 思い出して見れば、この一度目の後書きの直ぐ上にあるように、この時の弟子たちの姿はまさに、バビロン捕囚の民のようでした。恐れの中で「自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」(20:19)閉じ籠もっていた。最後までイエスを神の子メシアと信じることが出来なかった、イエスこそ「命である」(14:6)、それを信じることが出来なかった。そのために、彼らは絶望の殻に閉じ籠もった。しかしそこに復活の主が入って来てくださり、彼らに息を吹きかけてくださったのです。その瞬間まさに先の広辞苑例文にあるような「風に落葉が翻る」そのように、私たちが、主の息、聖霊の風に吹かれて翻る。死が命へ、絶望が希望へ、闇が光へ、ひらりと反転してしまうことが可能となったのです。

 それから半世紀後のヨハネ教会もまた死に瀕したのです。ユダヤ会堂による迫害を受けて、彼らの内から、裏切り者ユダ、三度否認したペトロのような弟子も現れたに違いありません。その痛恨の不信仰の中で、もう立ち直れないと思われるところで、翻ることが出来る、そう証しをしました。「証し」とは、救いを指し示すことです。自分を指さすのではありません。もうお仕舞いだと閉じ籠る、その殻を打ち破るお方を指し示すのです。手の釘跡とわき腹の傷口を見せてくださる復活の主に向かって、あそこに命があると、指差すこと、これが「証し」です。主を証しする、それがヨハネ福音書の書かれたもう一つの目的なのです。二度目の後書き、21:24「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」証しが真実である。このお弟子の証しを信じて良いのだ、その指差した先に間違いなく、エゼキエルが預言した、命がある、そう言われているのです。

 この証言・ヨハネ福音書を書いたのは21:24「この弟子である」そう記されています、つまり著者ですが、それは21:20「イエスの愛しておられた弟子」です。この愛弟子とは改めて誰かということになりますが、12弟子の中には、ゼベダイの子ヤコブの兄弟ヨハネがいます。他の福音書では、ペトロ、ヤコブ、ヨハネとワンセットで呼ばれることが多いのです。主が大切な場に伴われるのもこの三人でした。この愛弟子の固有名詞は一度もヨハネ福音書の中に出てきませんが、古くからこのゼベダイの子ヨハネこそ、このヨハネ福音書に登場する愛弟子であると理解されてきました。ヨハネ福音書はこの名を隠しますが、それはヨハネ教会においてこの愛弟子が誰であるか余りにも明瞭であった、それが理由の一つだと考えられます。彼は十字架のそばに留まった唯一の弟子でした。十字架の主から直々に母マリアを委ねられました。最後の晩餐で、主の胸に寄りかかっていたのもこの弟子でした。イエスの甦りを示す空の墓にペトロより速く走って先に着いたのも、見て信じたのも、この弟子でした。ティベリアス湖畔で、復活の主による大漁の奇跡の直後、ペトロにあれは「主だ」(21:7)と指さしたのは、まさにこの愛弟子でした。いつもイエス様に一番近くにいて、十字架と復活の目撃者であり、それを他の者に指し示す証人の役割を果たした者こそ、この愛弟子ヨハネです。学問的にもヨハネ福音書はこのゼベダイの子であり愛弟子であるヨハネの証言が、その中心を占めると言われます。その点で21:24「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」、そうある通り、ヨハネ福音書執筆者と呼んでも良いと言う学者もいるのです。

 しかしそこで、このヨハネ福音書は、ペトロではなく、愛弟子こそが一番弟子なのだと、だからヨハネ教会が、どの教会よりも正統的であると、その優越を訴えたのではないと思います。この福音書が愛弟子の名を隠したもう一つの理由こそ、ここにあると思います。ゼベダイの子ヨハネを指差さないためです。エゼキエルと同じ心です。人間を誇らないためです。

 ところで、この説教前の「讃美歌21」191番「われら迎えん、救いの光」を心の内で歌っていて、何故、この歌が選ばれたのか不思議に思った人もいたと思います。その中で確かにヨハネの名が二度表れます。しかしこれは愛弟子ヨハネではありません。これは、洗礼者ヨハネのことです。別人です。しかしそうであれば、この「ヨハネ」教会、あるいは「ヨハネ」福音書の名は、この洗礼者ヨハネとは何の関係もないのでしょうか。そうではないと、ヨハネ文書を専門とされた東京神学大学の松永希久夫教授は思い掛けない注解を展開しています。主イエスの証人が「ヨハネ」なら、まさに「見よ、神の小羊だ」(1:29)と全身が人差し指のようになって、指し示した洗礼者ヨハネこそ、証人、そのものだからです。だからこの讃美歌もその3節で「その名はヨハネ…まことの光のあかしとなりぬ」と歌われています。そして実に興味深いのは、この洗礼者ヨハネは、このヨハネ福音書においてその前半、1~10章にのみ登場します。そこで繰り返しイエス様を証ししたのです。そして後半、最後の晩餐の記事13章から、まるでバトンを受けたかのように、洗礼者ヨハネと入れ替わって登場する者こそ、愛弟子ヨハネなのです。つまり両ヨハネはこの福音書において、等しく「主の証人」として位置付けられているのです。ですからこの「ヨハネ福音書」のヨハネは、バプテスマのヨハネが含蓄されているのです。

 さらに言えば、その他にヨハネという名がこのヨハネ福音書の終わりにもう一度表れます。それは、21:15「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。」これが三度繰り返されます。ペトロへの主の呼び掛けの言葉です。ペトロは、他の福音書では「シモン・バルヨナ」(マタイ16:17)と呼ばれています。これは「ヨナの子シモン」という意味で、ここでは父の名はヨナです。しかしヨハネ福音書では、シモン・ペトロが三度の否認から翻る、その決定的な場面で、主は、三度「ヨハネの子シモン」と繰り返されたのです。この意味はどういうことでしょうか。それはペトロもまたヨハネなのだ、そういう意味が暗示されているのではないでしょうか。つまりこのヨハネ福音書が訴えたいことは、自分たちの教会の創始者であるゼベダイの子ヨハネだけが特別の聖人であり、主が唯一愛した弟子であるのだ、そのように自らをひたすら指差す、そういう心ではありません。福音書の中心的伝承を残したのが、ゼベダイの子ヨハネであれば、彼は、自分の名を匿名にするように、編纂者に強く求めたのではないでしょうか。つまり自分の名を一つも残したくなかったのです。彼はただイエスの御名を残したかったのです。それがキリストの「証人」の本質、実存なのです。どんなに優れた指導者であっても、教会は一人の人間の力によって立つものではありません。神によって立つのです。その神を指し示す多くの証人によって立つのです。

 ヨハネ先生も、ただ「あれは主だ」と、指差しただけなのだから、証し人はヨハネ先生でおしまいということではない。洗礼者ヨハネもまた指であった。だから洗礼者は言いました。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(3:30)と。さらにヨハネの子シモン・ペトロも証人であった。つまりヨハネは愛弟子だけではない。皆、キリスト者である限りは、主の証人ヨハネなのだ、そういう意味です。皆、ヨハネになろうではないか。「見よ、神の小羊と」と指差して生きようではないか。皆、イエス様の胸もとに寄りかかる者になろうではないか、皆が逃げても自分だけは十字架の下に留まり続けようではないか、復活のイエスを「主だ」と一人でも多くの希望を失っている人たちに指し示そうではないか。ヨハネの子ペトロのように、躓いても、主は十字架でその罪を赦してくださると、だから、あなたも大丈夫だと、その罪の赦しの十字架を指し示して生きようではないか。そして、復活の主から息を吹きかけて頂いて、命を頂戴しようではないか。そうこの福音書は訴えているのです。

 21:25「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」これは誇張でしょうか。しかし、このような思いがあったからこそ、この著者は、20章で一度終わっていたはずのヨハネ福音書に、付け加えることを編纂者に許したのではないでしょうか。そしてその「補遺」21章で書かれたことこそ、「ヨハネの子シモン、私を愛するか」という言葉でした。新しいヨハネ、つまり「証人」がここに生まれる、という物語を付け加えたのです。
 しかもそれはペテロでおしまいということでもなく、この21章の「補遺」を書いた福音書編纂者の思いには、主が天に帰られてから、もう半世紀が過ぎている。その間に、主がどれほど多く、新たに証人を生み出してくださったことか、その思いであったのではないでしょうか。主は三年間だけお働きになったのではない。その後も主は聖霊を通して二千年間働き続けてくださるのだ。その間に、主イエスは、ヨハネ教会を創立してくださった。西片町教会をここに建ててくださった。そこに集う私たちをも、主は証人ヨハネにしてくださるのです。十字架で罪を赦し、息を吹きかけて翻らせてくださる、甦らせてくださる。「あなたも愛弟子ヨハネ」と呼んでくださるのです。

 本当に21:25「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」これは一つも大袈裟ではない。もし書こうとしたら、主と出会ったここにいる全ての人の一生、その一つ一つを全部書かねばならなくなるからです。

 今、この余りにも偉大な書・ヨハネ福音書を読み終わるに当たり、私たちもまた主にあって新しいヨハネにして頂いた、つまりキリストの証人にして頂いた、そのことを心から感謝したいと思います。だからこそ「栄光は主にのみあれ」と、自らの名を隠して、イエスの御名だけが大きくなることを求めて、人差し指としての人生を主に献げたい、そのように願う。

祈りましょう。 主イエス・キリストの父なる神様、ヨハネ福音書を読み通すことの出来た恵みに心より感謝します。しかし、説教において、あなたの愛と恵みを証言すること、力足らずであったことを懺悔します。しかし人の力によって、あなたの愛の全てを語りきることは出来ません。主よ、どうか今、足りないところを、聖霊の風によって補ってください。それが故に、死せる私たちを、反転させてください。翻えらせてください。そして私たちを、新しいヨハネに作り替えてください。そしてこの世に証しを立てるためにお使わしください。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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