2020年11月1日 聖徒の日礼拝「それでも林檎の木を植える」

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コヘレト11:1~6(旧1047頁) ローマの信徒への手紙13:11~12(新293頁)

「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、分からないのだから。」(コヘレト11:6)

「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。/夜は更け、日は近づいた。」ローマ13:11~12a

説教者 山本裕司 牧師

 今朝の聖徒の日に与えられた御言葉の一つは「伝道の書」という名で覚えておられる方も多いと思います「コヘレトの言葉」です。最近、この「書」への関心が広まっています。それは東京神学大教授小友聡先生による「コヘレトの言葉」に関する注解や説教が相次いで出版されたことと関係があると思います。NHK・Eテレ「こころの時代」でも今月より、小友先生によるこの書の講解が始まりますので、是非、皆様もその番組をご覧になることをお奨めします。私はこれまで、確かにこの書に散りばめられた忘れ難い言葉に心を動かされてきました。しかし「空しい」と38回も連発されるこの書が余りにも虚無的に感じて、その講解を避けてきました。しかし今回、小友先生の著書から大変啓発されて、この書がまさに虚無的になっても仕方がないような現実のただ中で、それでもなお、生きる力を与えようとする希望の書であることを教えられたのです。目が覚めるような思いです。それで私も今、水曜の聖研祈祷会において連続講解を始めたところです。 

 コヘレトの言葉はこう始まります。1:2「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」この翻訳では虚無的と言われても仕方がないわけですが、小友先生は、以前の「伝道の書」の訳「空の空、空の空、いっさいは空である。」こちらの訳を評価します。この「空」の意味は、確かに虚無的な調子がないわけではありませんが、その本質は「短い」、「束の間」の意味だと言われるのです。古代ユダヤ人の平均寿命は30代半ばであって、大人になったら、いつ死んでもおかしくありませんでした。しかもその短い一生を過ごすこの地上は、善と悪が逆立ちしている世界なのです。7:15「この空しい人生の日々に/わたしはすべてを見極めた。人がその善のゆえに滅びることもあり/悪人がその悪のゆえに長らえることもある。」貧しい人が虐げられ(5:7)、富み栄え者たちの不正義が横行している世界です。まさに生きるに値しない世界が拡がっているように感じられます。しかしそこで、小友先生はこう言われるのです。「コヘレトは人生は儚いと言う。しかしそれだから、意味がないとは考えません。逆に儚いからこそ、意味があると考えます。人生が儚いことは、むしろそれをどう生きるかを深く考えるきっかけをあたえるのです」と。

 私は、この小友先生の言葉を読んで思い出した、西片町教会の先達が何人もおりました。その中の一人、大矢美保子さんのことを今朝は紹介したいと思います。彼女は長い闘病生活の後、2003年、73歳で死去されました。西片町教会の重鎮・大矢磯吉さんと、妻みさよさんのご長男弘三さんと結婚されたことによって彼女は主と出会われたのです。國安敬二牧師の指導を受けておられましたが、先生の勧めもあって大矢家ゆかりの教会である西片町教会で受洗されました。しかしその頃、既に美保子さんは、大きな試練を受けていました。夫弘三さんの病気と死があり、その看病の間に御自身が癌を患い、手術を計3回受けて体は傷だらけとなり、抗ガン剤によって、味覚、嗅覚が失われました。しかし姉妹はこう信仰告白されたのです。「手術や薬で、神経をずたずたに切断されてしまったけれども、神様だけは私と絆をお切りにはならなかったのです」と。その後も、姉妹の試練は続き、最愛のお嬢様が何と病気で亡くなられました。その時は、本当に姉妹は苦しみ、もうこの人は立ち直れないのではないかと思うほどでした。しかし彼女はその苦しみから、少なくても表面的には回復されたのです。だんだん元気になられ、教会生活を喜び、また何事にも積極的でした。姉妹の重荷を私たちがふと忘れてしまうほど、楽しげに生活しておられた。その明るい性格は、終わりまで輝きを失うことはありませんでした。

 彼女の最後の試練がやってきました。再び転移が発見されたのです。そして、姉妹は「終わりの時」が来たことを知りました。私は、自分自身がこれからどういう経過をたどるか経験で知っていると言いました。そして、冷静にその時を迎える準備をされました。「時」が近いことを知って、葬儀も含めて、全ての準備を整えて旅立たれたのです。

 先ほど、もう一箇所朗読した新約聖書、ローマの信徒への手紙の中で、使徒パウロは、今、あなた方は「時」を知っている、と書いています。その時とは、「眠りから覚めるべき時が来た」(13:11)ことと言いました。ここには聖書を生み出したユダヤ人の時間意識であると言われています。彼らは、東洋的な「循環的時間意識」ではなく、「時」には「初めと終わり」があると理解しました。それは「時」は、一度逃したら二度と巡ってくることはないという感覚を彼らに与えました。だからいつも目を覚ましていなければならない。うかうかしていてはならない。何故ならもったいないのです。コヘレトも同じ感覚です。人生は空である、それは短いという意味です。だからこの一時一時が掛け替えがなくなるのです。大矢さんは、何度も死に直面することによって、時に対する知恵を、誰よりも深く学んできました。終わりの時が来る、という知恵をもっておられた。その時、彼女には、砂時計の流れ落ちる砂粒一粒一粒が、とても貴重に思えてくる、それが、彼女にあの積極的な生き方を与えたのです。

 その美保子さんの葬儀説教で、私は丁度その頃放映中であった「僕の生きる道」というテレビドラマを紹介しました。主人公は、中村秀雄先生(役者は草彅剛君)、彼は有名進学校の生物の教師です。事なかれ主義の教師でした。小さい頃には教会の聖歌隊に憧れ、テノール歌手になりたいという夢を抱いていましたが、いつしか、その将来が保証されない夢は捨てました。そして教師という堅実は職業をただ無難にこなせばいいと思っています。本当はこってりしたものが好きなのに、体に悪いと思ってそれを我慢し、欲しいものがあっても倹約して、旅行にも行かず、老後のためにこつこつ貯金をしていました。読むために買っておいた本は、いつか読めるだろうと思って、机の中に入れっぱなしでした。それで十分幸せだと思っていたのです。
 そんなある日、中村先生は健康診断の再検査を受けた。金田医師から宣告された内容は衝撃的なものでした。不治の病で、あと一年しか生きられないというのです。茫然として、アパートに帰った中村先生は押し入れから小学校の卒業文集をひっぱり出した。そこには将来の夢、歌手になりたいと書いてあり、こう続けられていました。「ボクは幸せな人間になりたいです。幸せな人とは後悔のない人だと思います。」中村先生は泣いた。心から後悔したのです。28年間、ただ安全無難な道を選び、後のことばかり考え、やりたいこともせず、正義を追求もせず、結局、今を生きてこなかったことを、強く後悔したのです。

 入院した病院の長椅子に座っていると、隣に金田医師が腰かけた。その時、ふと、中村先生は尋ねたのです。「先生、一年って、28年よりも長いですよね。」金田医師は答えました。「そうだよ」と。その瞬間、中村先生の心の中で何かが変わりました。
 それまでの28年は、むしろ眠り込んだような日々だったのです。余命一年の宣告を受けた瞬間から、むしろ中村先生は初めてかっと目覚め、激しく命を燃やし始めたのです。使徒パウロが言った通りです。 ローマ13:11~12a「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。/夜は更け、日は近づいた。」彼は人生の「空」、その儚さを知った時、逆に、人生がいかに貴い宝物であるかに目覚めて、今、この瞬間を精一杯生きることを始めたのです。それからというもの中村先生は、周りに激しく波風をたて始めます。生徒たちと真っ正面から向き合うようになりました。正しさを追求するようになりました。ことなかれ教師が、突然、熱血先生に生まれ変わったのです。それだけでなくて、恐れを振り払って、前から大好きだった秋本みどり先生(俳優は矢田亜希子さん、ああなんてステキな人だろう)に恋の告白もしました。その中村先生の変化は、周りの人をも変えていくのです。彼に影響されて生徒が変わる、同僚の先生が変わる、みどり先生から「好きです」と告白されるほどになるのです。聖書同様、終わりを知るという、その知恵が人間の生き方にとって、どんなに大事なことか、そうドラマは言おうとしているのです。

 このドラマの中で、みどり先生がとても幸せそうに、おいしそうに食べるシーンがしょっちゅう出て来ます。彼女は大変な食いしん坊として描かれています。コヘレトの言葉も、悲観的なことばかりと思われますが、実はそれだけでなく、何度も、「食べよ、飲めよ」と飲食を賛美するほどの喜びを語っています。何故なら、食べることは生きることだからです。生きることは食べることだからです。コヘレト2:24~25(旧1036頁)「人間にとって最も良いのは、飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは/神の手からいただくもの。/自分で食べて、自分で味わえ。」これは人生が儚いと知った者の享楽主義のことではありません。人生が残りわずかだからこそ、日常的な一回一回の素朴な食事がこの上なく貴くなるのです。小友先生はこう証しされました。「5年前、脳梗塞を発症し死を覚悟した。なんとか一命は取りとめたが、右半身は動かず、言葉も発することが出来ない。絶望感で目の前が真っ暗となった。何日も点滴だけで命を繋ぎ、やがて初めてお粥を食べる朝が来た。一匙の粥をすすったとき、私は喜びに打ち震えました。体の中に命が通っていく、その感覚に「ああ、生かされているんだ!!」と思った。これほど食べ物に喜びを感じることは、普通はありません。しかし人生は儚い、それが心底わかったら、たった一匙のお粥が、最大の喜びとなるのです」と。コヘレトは、この飲食の喜びを語る時、神の手からいただくもの、と付け足すのを忘れません。食べること、それは生かされているということ、それこそが神の恩寵そのものなのです。

 やがて中村先生は、みどり先生からプロポーズされます。結婚して下さいと。しかし中村先生は断りました。もう別れましょうと。みどり先生を自分の病気に巻き込み、これ以上苦しめたくなかったからです。しかし、みどり先生は血相を変えて訴える。「中村先生、あなたは、『今』の大切さを知ったと言われた。先のことではく、今、どう生きるかが大切だ、と。私は、今、この瞬間を中村先生と一緒に生きたいの。その気持ちをどうして大切にしちゃいけないの。」中村先生は次の診察の時、金田医師にそのことを相談しました。「先生、どうしたらいいんでしょうか。」その時、金田先生は優しく答えました。誰か昔の人がこう言ったそうです、と。

 「たとえ明日この世界が滅びても、今日、私は林檎の木を植える…」。

 その言葉を聞いて、中村先生は、改めて、みどり先生に結婚を申し込みました。そういう物語です。

 金田医師が言った「昔の誰か」とは、宗教改革者マルチン・ルターと伝えられてきました。それは今、疑われていますが、ルターの信仰を表していることは確かです。明日、世界が滅びるのに、どうして、今日、林檎の木を植えるのでしょうか。それは、その滅びを超えて、大いなる将来が神のもとから来るからではないでしょうか。人間の営みの全てが水泡に帰してしまう、その滅びの時を迎えると思った瞬間、神様は私たちのなした小さな業を、植えた一本の苗木を、きっと永遠なる神の良き業の一部に用いてくださるであろう、その信仰であります。
 
 コヘレトの言葉11:1「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。」これは多くの人たちを励ましてきた言葉です。讃美歌にもなりました。コヘレトは、この時代の闇を見詰めています。悪人が栄え正直者が馬鹿を見る世界です。今の日本もそうではないでしょうか。正義を求める人の声、宣教者の伝道の声、その渾身の努力は、まるで川の水に浮かべたパンのように、空しく流れて消えて行くかに思えます。このパンは私たちの人生を象徴するのではないでしょうか。こんなに一所懸命生きたのに、結局自分は何一つ残せず、消えて行くだけだ、そう悲しくなることが私たちにはあるのではないでしょうか。しかしコヘレトは、そうではない「月日がたってから、それを見いだすだろう」と約束するのです。11:6「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、分からないのだから。」コヘレトは、蒔いた種が芽を出さないかもしれない、その空しさを知っています。しかし、それでも朝も夜も種を蒔き続けようではないか、空しさを人一倍知っていながら、翻って、それでも「生きよ」と呼び掛けるのが、コヘレトなのだ、そう小友先生は言われます。

 主イエスも、マタイ24:34「天地は滅びる」と言いました。この世は滅びる。星は空から落ち、天体は揺り動かされる(24:29)と預言されました。現在の宇宙科学も、宇宙は有限である、終わりが来る、そう教えます。目眩のするような、宇宙的規模の滅亡、その終末が語られています。当然私たちも原子レベルにまで分解されて滅びるのです。神様だけが知っている、その終わりの時が来るのです。主イエスもまたコヘレトに似て、それをごまかしません。全てのものが滅びの中に流れ込んでいくような中で、しかし、私たちの信仰では、終末の日に来るのは滅びだけではありません。同時に再臨の主が来てくださるのです。その主はその時、私たちのした小さいけれども精一杯の戦いを、手に取ってじっと優しく見てくださるであろう。その主イエスの眼差しを信じることが出来る時、私たちは、どのような明日が待っていても、今日、命を精一杯燃焼することが出来るのです。

 私たちの、それぞれの人生の砂時計からさらさらと流れ落ちる砂粒を、誰も止めることは出来ません。しかし、その砂粒を、ただの砂と覚えるのでなく、流れ落ちる一粒一粒を、高価な砂金のように、掛け替えのない宝石のように、輝けるものと覚えることは、私たちにも出来るのです。私たちのなした、人生の良きこと、美しいこと、義なること、愛したこと、それは自分の死も、全宇宙の滅びもさえも超えて、神の御前で一粒たりとも無駄になることはないと知った時、私たちは、人生の一期一会を、抱きしめるように、大切に過ごすことが出来るようになる、そう思う。

 ここで、私が赴任してからで申し訳ありませんが、その間に神のもとに帰られた先達たち一人一人の名前を呼び、そのきょうだいたちの掛け替えのない人生を、今ご一緒に思い起こしましょう。

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祈りましょう。 主なる父なる神様、この聖徒の日に、今、名を呼んだ、懐かしい、また敬愛して止まない先達たちの貴い一生を思い起こすことが許された導きに心から感謝します。私たちもこのきょうだいたちの前向きな生き方に倣うことが出来ますよう。先達たち同様に、自分に与えられた命を掛け替えのないものと覚え、明日のことを思い悩まず、今日もまた一本の苗木を植え続けることが出来ますように。そして終わりの日が来たら、一切をあなたに委ねて、私たちも、明るい顔をして、この地上を去ることが出来ますように、聖霊を与えてください。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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