2020年10月4日 主日朝礼拝説教「命の息、吹き入れられ」
https://www.youtube.com/watch?v=TXWvS8K4y8E&t=1s
創世記2:7(旧2頁) ヨハネ福音書20:19~23(新210頁)
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7)
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。/だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ福音書20:22~23)
説教者 山本裕司 牧師
週の初めの日の朝、マグダラのマリアは、墓から石が取り除けてあり、主のお身体がないことを知りました。彼女は走ってペトロともう一人の弟子に報告します。それで弟子たちも走って墓に行くとお身体はない。二人の弟子が帰った後、再び墓に来て泣いていたマリアが「マリア」との呼び声に振り返った時、お甦りの主に再会します。そしてマリアは喜び勇んで主から命じられた通り弟子たちに復活を告げました。20:18「わたしは主を見ました」と。そうであれば、この朝もう弟子たちはマリアの証言を聞いたのです。ペトロたちも空の墓は目撃しています。その事実も他の弟子たちに伝えたことでしょう。ところが、今朗読したヨハネ福音書20:19にはこう書いてあるのです。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」ここには喜びは記されていません。これはどういうことでしょうか。最初のイースターの日曜日、歓喜の復活祭を経験したのは、夕べに至って未だ、ただ一人マグダラのマリアだけだったのです。だから彼女の報告も「わたしは主を見ました」(20:18)と先週の説教で用いた言葉で言えば、「一人称単数」なのではないでしょうか。どうして弟子たちには、この喜びが生まれないのでしょうか。
この福音書を書いたヨハネ教会の状況が、この弟子たちの姿と重なっているのかもしれません。主が復活されてから既に半世紀が過ぎた時、このヨハネ福音書は書かれました。当時、ヨハネ教会はユダヤ会堂から異端の烙印を押され、激しい迫害の中にありました。ヨハネ教会の人々はその間、何度、空の墓の話やマリアの残した伝承「わたしは主を見ました」というイースター・メッセージを聞いたことでしょうか。しかしそれが、直ぐ恐怖を取り去る力にはならない。そして閉じ籠もった、鍵をかけて隠れた、そういう自分たちの姿を、ヨハネ教会はここに弟子たちの姿と重ね合わせて描いているのではないでしょうか。そしてそれはヨハネ教会だけではありません。私も含めてこの人生の夕べを迎えるまでに、何度イースターを迎えたことでしょうか。何度、「空の墓」の説教を聞いたことでしょうか。しかし、私たちは、今年のイースターがそうであったように、コロナの災いでお祝いも出来なかったり、それぞれの試練の中で、恐れに捕らえられたすると、その祝福を忘れるのです。その閉ざされた心は晴れず、夕べのように暗くなるばかりということがあります。
20:19「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」
あるいは複数の注解者は、この弟子たちの恐れとは、イエス御自身への恐怖でもあったのではないかと指摘しています。マリアの話が本当なら、それは自分たちの罪が白日のもとに晒される時でもありました。特に男たちは愛弟子以外、結局主の十字架のもとにまで従うことが出来なかったのです。被害者がこの世に帰って来たのであれば、多くの怪談物語にあるように、いわば「化けて出た」ということになり、裁かれるのは当然だと思われたと思います。それも五十年後のヨハネ教会の中で、実際起こったことではないでしょうか。ペトロの裏切りと似たような事件が教会内で起こった。ある牧師を見捨ててしまった、牧師は獄死した、そのような事件が起きていたかもしれません。実際、日本基督教団も、戦時中似たことがありました。もし墓に入ったはずの被害者が生き返って、自分を殺した者を呪う、それは加害者にとって恐怖です。そうであれば、生き返るということ、あるいは「霊魂不滅」という話は、いつも人を喜ばせるわけではありません。ある神学者は、「霊魂不滅」の教えを揶揄して「正直に自分たちの霊魂を見てみたら、この罪に汚れた霊魂が、無限に生き延びられたら、お互いにたまったものではないだろう」、そう言いました。その通りだと思います。ここで問題にされているのは罪です。死後の世界にまで、加害、被害の記憶を、私たちはどこまでも引きずっていくところがあります。そこで私たちは、「生きている時も、死ぬ時も」、慰めはない、平和もない、そうなってしまうのではないでしょうか。このイースターの夕べ閉じ籠もる弟子たちにはイエス様は死んだままでいて欲しい、自分たちのした間違いが表に出る、その恐れがあったのではないでしょうか。
私は夏に、NHKの「密室の戦争~発掘・日本人捕虜の肉声」という番組を観ました。飢餓地獄のニューギニアで捕虜になった、優れたそして本当に良心的な日本軍青年将校が紹介されました。やがて連合軍の執拗な説得を受け入れて、戦争を早く終わらせるために、追い詰められた日本軍人を降伏させる作戦に加わりました。しかしそれは祖国を裏切ることでもあったのです。その葛藤の中の対話が全部録音されていました。NHKがなす、その徹底した歴史発掘に圧倒されるような思いでした。まさに、それは死者の経験を生き返られせるような番組だったのです。82歳まで生きたその男について、その録音を聞いた甥、姪は思い出を語っています。伯父は人を笑わせることが大好きなユーモアある人でした。しかし時折、とても寂しそうな目をしていました。私たちはそれが何故か分かりませんでした。彼は戦中のことを何も語りませんでした。しかしその哀しい目の理由が今分かりました、そう言うのです。その番組に私は心が本当に揺さぶられました。いつか、教会の皆さんと一緒に観てみたいと思いました。
最近、日本政府や官僚による公的文書改竄や資料隠蔽、破棄、不開示が目に余る状況です。それが問われる時、よく識者があげるのは、1945年夏に起こった出来事です。それは国家の行った「徹底的な記録写真と資料の処分」でした。市ヶ谷の陸軍省構内のあちらこちらから「異様な黒い煙」が上がっていた。それは「機密書類を焼く煙」でした。ある人は言いました。「それは陸軍の屍を焼く煙であった」と。日本が犯した数々の蛮行の証拠を葬るためでした。もし戦争被害者の無辜(むこ)の屍が帰って来て、口を開いたとしたら、それに私たちは耐えることが出来るかということです。それと同様に私たちの人生の中で、どれほど互いに罪を犯して生きてきたか。その罪を一生隠して生きていけるのかということです。それをついに墓場まで持って行っても、問題は解決しません。実は罪はそれでも残る。録音はなくても、神が記憶しているのです。全てを焼却しても、生きている時も、死ぬ時も、慰めはそこにありません。
記憶に悩み、淀んだ一室に閉じ籠もる弟子たちの夕べでした。しかし、そこに初めて風が吹いてくるという経験を彼らはしたのではないでしょうか。どうしてそんなことが可能であったのでしょうか。先ほど朗読した旧約、創世記の物語の少し後、最初の人間は、園の中央にある「善悪の知識の木の実」(原罪の実)を食べてはならないと神様から強く戒められているにもかかわらず、それを破りました。そして夕べがきます。創世記3:8~9を読みます。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、/主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」」罪を犯した最初の人間は、園の木の間に隠れました。それは弟子たちと瓜二つの姿でした。しかし創造主も、復活のイエスも、夕方風の吹く頃、その罪人を探しに来てくださるのです。それはただ裁き呪うためではありませんでした。主は、20:19「あなたがたに平和があるように」と、平和を失っていた弟子たちの夜の心を、平和で照らしてくださるためです。どうしてももてなかった、復活の「喜び」(20:20b)を弟子たちについに与えてくださいました。その喜びは、もうそこで「一人称単数」ではなくなりました。弟子たちの言葉として、次週読むところですが、「わたしたちは主を見た」(20:25)とマリアの言葉を福音書は言い換えています。ここに教会共同体に命の歓喜が現れたのです。では裏切りの罪を抱える彼らに、どうしてイースターが与えられたのでしょうか。
「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」(20:19b~20)。
復活の主の御手の釘付けされた傷跡、脇腹には槍で突かれた傷口、それを見たからに違いありません。主は復活され全て新品のお身体になられたのですから、そのような傷も消えていてもおかしくありません。神様にはそんなことは何でもなかったはずです。どうして傷跡だけは残されたのでしょうか。それはこの復活が十字架と一つの福音であることを表すために他ならないからです。復活とは、ただ幽霊のように生き返ったという、「霊魂不滅」とは全く違う教えです。十字架の主が復活の主である、そこにあの「ハイデルベルク信仰問答」の「問」への決定的な答えが示されるのです。「問一 生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。」答「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではく、…主イエス・キリストのものであります。主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払って下さり、わたしを、悪魔のすべての力から、救い出し、また今も守って下さるのです。…」生きている時も死ぬ時も慰める力、それは十字架の御血潮による贖いであり、それによって私たちの罪が赦された時にだけ、復活の喜びは与えられるのです。罪の問題が解決されなければ、生きている時も、死ぬ時も、私たちに慰めはないと言われているのです。
甦りの主は、お身体に残る十字架のしるしを弟子たちに見せながら、さらに、20:22「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。/だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」」主の息とは聖霊のことです。教会は主の息と風を受けて、罪の赦しを担う所となったのです。これは何と大きな権威でしょうか。イエス様しか持たない力です。しかし、20:21「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言って、その権能を私たちの教会に委ねられたと言われるのです。それは原罪をもった人間の集まりである教会には、余りにも重荷なのではないでしょうか。歴史的に教会はどれほど、自分たちには神の知恵があると自惚れ、世の善悪を勝手に定め、「魔女狩り」に象徴されるように、神の名をもって人を呪い殺してきた、そのような過ちをしてきました。しかしそれこそが「善悪の知識の木の実」を食べた人間の原罪のなさる業だったのです。
そうならないために、20:22、復活の主は弟子たちに「息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」そう先ず言ってくださったのです。それなしに、罪を赦したり赦さなかったりする、宣教をなすことは決して出来ないのです。先ほどもう一箇所、創世記2:7を朗読しました。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」私たちは、神の息が吹き込まれない限り、神の子イエスのお働きを担うことは出来ません。信仰も生まれません。まして神の善悪を判断することなど出来ないのです。
私たちは、復活の主の息を受けたということは、それはあの創世記2:7に続き、第二の創造にあずかったということです。それは「新しい人」に甦ったということです。主の宣教初期、あの「夜の人」ニコデモが、主に、年をとった私がどうやって生まれ変わることが出来るでしょうか、と問うた時、主は「水と霊とによって」(3:5)とお答えくださいました。その主の与えてくださる聖霊によって、洗礼の水を受ける時、新しい人が創造されるのです。この新しい人たちの建てる教会だけが、罪の処理をする権能が与えられるのです。しかしそこで、教会が肝に銘じなければならないことは、わたしたちこそが、先ず主イエスを十字架につけた弟子だということです。禁断の木の実を食べて神の顔を避けて隠れた人間だと言うことです。しかしその罪を主は夕べの風と息を吹きかけて赦して下さったのです。そして、その罪が赦された者たちとして、私たちは隣人の罪の処理をするために「遣わして」(20:21b)くださったのです。そこで大切なのは、自分たちこそが罪人であることをいつも隠さないということです。生涯、自分の罪を主に、そして時々は隣人にも告白し続けることが大切です。カトリック教会では「告解」と言って、一年に数度は、その罪の告白を神父様にすることが義務付けられています。それをしないと私たちは神様が与えてくださった余りにも大きな恵みにあぐらをかいて、自分は善悪を知っていると、奢り高ぶるようになるのです。
私たち自身のそして私たちの教会の罪の歴史を改竄も隠蔽、非開示もしないで正直に書き残すのが、教会なのです。そこで自分の真実の姿を見詰めて、謙遜を取り戻さないと、もう一度教会は禁断の木の実を食べ、主を十字架につけることになるのです。罪の告白なしに、教会は教会となりません。福音書がそうです。初代教会の偉大な12使徒としての権威を担った伝道者たちが、常に立派な説教をしている使徒たちが、実は、聖霊を受ける前、どんなに弱く罪深かったか、その罪責を、せっせと福音書は記録したのです。聖書全体がそうです。神の選ばれたはずの信仰の父と称される族長も王もどれほど愚かで弱かったかを、余すところなく書いたのです。彼らは隠さなかったのです。どうしてそんなことが出来たのでしょうか。その罪が赦されたことを知っているからです。そしてその罪が赦された者こそが、この私でさえも、罪が赦されたのだから、あなたも赦されますと、霊と血と水によって、赦されない人は一人もいませんと、その証拠こそ私ですと、そう宣教出来る者に、新しい人に、甦ることが出来るからです。そこに平和が与えられるのです。平和と慰めは十字架と復活の意味を、聖霊によって示されるところから来るのです。だから私たちは、受難週と、イースターとペンテコステを祝うのです。その祭りを持つ教会に招かれた私たちの幸いと祝福を思います。
祈りましょう。 主イエス・キリストの父なる神様、今朝の主日においても、私たちに息を吹きかけて下さい。その霊の風に押し出されて、私たちが真っ先に得た、罪の赦しと、甦りの命を、喜びの中で隣人に宣べ伝えるために、派遣されていく私たちでありますように。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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