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2020年10月25日 主日礼拝説教「あなたはイエスが好きか」

2020年10月25日 主日礼拝説教「あなたはイエスが好きか」

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2020年10月25日 主日朝礼拝説教「あなたはイエスが好きか」

申命記6:4~5(旧291頁) ヨハネ福音書21:15~19(新211頁)

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。(ヨハネ福音書21:15)

説教者 山本裕司 牧師

 ティベリアス湖畔で復活の主イエスは、ペトロを初めとする弟子たちに朝食を与えてくださいました。それは主の食卓、聖餐と直結する霊的食事です。ヨハネ21:13で、主イエスは、パンを取られたとあります。それは次にパンを裂くことに繋がるのです。受難週の夜、主は「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂き」と書かれてあり、続けて「これはわたしの体である」(マルコ14:22)と言われたのです。パンが裂かれる、それはゴルゴタで主のお身体が裂かれたことを象徴するのです。同じ振る舞いを湖畔の朝食でもしてくださいました。この朝は、復活を象徴する時です。しかしその喜ばしい朝の光の食卓は、御受難の晩餐と無関係ではありません。復活の朝の喜びは、十字架の贖いと表裏一体なのです。それがこの湖畔での朝食における「パンを取り」という動作によって含蓄されるのです。主の十字架と復活、罪の贖いと永遠の命という二大福音が、食卓を囲む礼拝の度に、私たちに与えられるのです。その祝福の「食事が終わった」ところから、今朝私たちに与えられたヨハネ福音書21:15以下の御言葉は始まります。

 21:15「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。」食事が終わると何が始まるのでしょうか。私たちの主に従う旅が始まるのです。森野善右衛門(ぜんえもん)牧師は「ヨハネ福音書講解説教」の終わりでこう言われています。「わたしに従いなさい」(21:19、22)、この繰り返されるイエスの言葉をもって、ヨハネ福音書は締め括られます。しかしそれはまた、私たち礼拝者の服従の始まりです。…ここから先は、もはや文字をもってではなく、私たちの手足をもって書き続けられて行くべきものであります。」そう言って、実際、先生の「説教集」は以下余白となりました。

 それで思い出すのは、ヨハネ福音書冒頭に「言は肉となって」(1:14)とありました。この「受肉」の御体を、食卓で受けた弟子たちも、つまり私たちもまた、御言葉を受肉してそれを身に帯び、派遣されるのです。どこに遣わされるかと言うと、主の「小羊を飼う」(21:15)ためです。そのことを覚えて、今朝は礼拝の終わりに頌栄ではなく「派遣」の讃美歌を選びました。その派遣の意味するところを主はペトロに教えておられます。21:18「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

 派遣されるとは、もう自分の行きたいところに行く歩みではないと主は言われるのです。ペトロの行きたいところ、それを主は具体的には何を思い浮かべていたのでしょうか。一つは受難週の夜の「大祭司邸」のことだったのではないでしょうか。ペトロはその未明、自分がイエスの弟子であることを、三度否認しました。主はそれが自分が行きたいところへ行く人間の姿だと言われているのではないでしょうか。つまりそれは主イエスよりも愛するものがあったということです。主を愛さねばならないところで、自分を愛したのです。それは実は自分を愛しことにもなりはしない。むしろ逆であるということを直ぐペトロは身に染みて知ることとなりました。
 さらにペトロは故郷ガリラヤに帰りました。魚を捕る漁師に戻りました。そうやって、「行きたいところへ行った」のです。しかしそれは自由になったようで、ペトロが「飼い主のいない羊」(マタイ9:36)に戻ることに過ぎなかったのです。それを憐れに思って、「良い羊飼い」である主は湖畔まで、弟子を探しに来てくださいました。そして、主は、朝の食事を与えてくださり、そうやって御自分の羊へとペトロを復帰させてくださいました。そして、これからはもうそうであってはならないと、自分の罪とサタンが促すまま、自分の行きたいところに行くことほど空しいことはないと教えてくださるのです。先週も言いました。その自分の行きたいところであった湖で、21:3「その夜は何もとれなかった」、そうある通り、その方向には、収穫無き人生しか待っていない、そうではなく、朝食後は、自分が行きたくないところに行くのだと、その主の言葉を受けて、福音書記者はコメントします。21:19「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」伝説ではペトロは、伝道一筋の人生の末、まさに21:18「他の人に帯を締められ」つまり捕縛され、横木に21:18「両手を伸ばして」十字架で死んだ。これがペトロの食後の人生の旅であったのです。
 
 このような使徒としての服従の歩みが始まる前に、主はペトロにお尋ねになった。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(21:15)。「この人たち以上に」という「比較」の言葉ですが、ここは複数の翻訳が可能な箇所です。一つは、この新共同訳が採用した翻訳ですが、「この人たち(他の弟子たち)が私を愛している以上に、あなたは私を愛しているか」という意味になると思います。二番目の意味は、ペトロが、この人たち(他の弟子たち)を愛する以上に、主イエスを愛しているか。三番目は、この「この人たち以上に」という言葉を「これらのもの以上に」と訳すのです。いずれも「全てに優ってあなたは私を愛しているか」という問いです。どれも同じように思えますが、しかし、この翻訳可能な三つの姿に、私たちが主イエスを愛する時の弱さが暗示されていると思います。ペトロは、御受難の前まで主をそれなりに愛していると思っていたと思います。しかし彼の愛は、あの金曜、十字架の元に留まり続けたマグダラのマリアなどの愛以上であったとはとても言えません。彼は十字架の前から逃げ出したのですから。最初の翻訳はそれで良いのかとペトロに問うていると読むのです。

 次ですが、これは他の人間を愛する以上に、神の子イエス様を愛しているか、という問いです。ペトロはかつて、イエス様が御自分が十字架につかなければならないと打ち明けられた時、「主よ、とんでもないことです」といさめたことがあります。すると主は「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16:23)そう叱りました。このペトロの経験と関わりがある意味がこの二番目だと思います。私たちも人間ことを思うことによって、神様の計画を邪魔することがあるのです。そして三番目の訳、それは人ではなく物です。「これらのもの以上にあなたは私を愛するか」そうイエス様が言ったとしたら、それは具体的には、漁のための「舟」と「網」のことです。主の伝道の最初にやはりこの同じ湖で、ペトロは、イエス様から「人間をとる漁師にしよう」とのお言葉頂いた、その時福音書はこう続けました。彼は「網を捨てて従った」(マルコ1:18)、あるいは「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5:11)。しかし今、彼は湖でそれを再び手に取ったのです。そこには、結局、自分を最後に支えるのは舟であり網だった。イエス様以上にそれが大切であった、そういう意味となります。

 森野先生は説教されます。「私たちは、世にある他のいかなるものに勝って、イエスを愛しているかが問われている。いつの間にか、国家の名誉、社会における地位、財産や権力、業績、家柄、そのような人からの賞与がイエスより大切なものとして愛され尊重されていないだろうか」そう語っておられます。

 21:15a「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。」この三つの翻訳の可能な問いは、私たちの主イエスに対する一途な愛と献身を妨げる三方向の道と考えられるのではないでしょうか。そしてペトロは主の十字架を前にして、まさにこの三方向で躓いた、主イエスをそれら人生の三方向に行くことに勝って愛することが彼には出来なかった、そう言わなければなりません。私たちも、やはりペトロのように誘惑に弱いのではないでしょうか。しかしだからこそ、復活の主はここで、ペトロに、21:12、朝の食事をしなさいと招いてくださったのです。パンを裂いて与えてくださったのです。それは主の御体が裂かれたことを示すと先ほどお話ししました。ペトロがその愛において犯した罪の故に、神様から裁かれねばならないところで、御子イエスが、その裁きを代わってくださったのです。十字架で御体を裂いてくださったのです。そうやって、ペトロが裂かれることから助けてくださった。そしてこの復活の朝、ペトロに「命のパン」を与えてくださり、罪の中に死んでいたペトロを弟子として甦らせてくださったのです。その上で主は、21:15「わたしの小羊を飼いなさい」とペトロに命じられました。大祭司邸で三度、ペトロは主を否認しました。同時に三方向でペトロは愛に破れたからこそ、主は、21:15~17「三度」ここで、「わたしを愛しているか」とお問いになった、そう思います。ペトロはその問いに「はい」と応えることが出来ました。それは悔い改めです。そう三度応える度に、この自分の行きたいところへ行ってしまった三方向の自らの罪、その一つ一つが贖われていったことを感じ「人間を捕る漁師」に復活することが出来たのです。

 この愛の三度の問い「わたしを愛しているか」に関して注解者が注目することは、初めの二回は「アガペー」という神的愛を表す言葉が使われていまして、最後に21:17「フィリア」という友愛という言葉が使われていることです。そうであれば、主イエスは最後に、「あなたは私が好きか」と問われた、そう言ってもよいと思います。「イエスが好きだ」その率直な言葉に関して、森野先生は、八木重吉の「聖書」という詩を引用しておられますので、それを最後に紹介したいと思います。

 「私は一人でも聖書を読む人が多ければよいと思う。静かな心になってみると、自分には善い考えが何もないことがはっきりして来るからです。それで私は、人と論じるこがありません。ただ聖書に、私よりずっと善いことが書いてあるから、見てください、と言って黙ってしまいます。私は一生、自分の行いが全ていけないことであっても、聖書を(他人に)すすめたことは、よいことであったと信じて死ぬことができると思います。…私には、これほど好きな本は外にない。…今、私は聖書について言いたいことはあんまり多すぎて、とりとめがありません。…しかし、つまり自分の気持ちは一つです。イエスが好きだ。世界中で一番好きだということです。好きだから、イエスの言ったことに、よもや嘘はあるまいと思う。もしかりに嘘があってもかまわないと思うのです。」

 森野先生はこの「イエスが好きだ。世界中で一番好きだ。」この八木重吉の言葉に傍点をふっています。そして「私は世界中でイエスが一番好きだ」という率直な言葉で言い表されているこの詩人の熱い息吹を私たちも、共にしたいと思う、そう森野先生は書いています。本当にそうだと思いました。主イエス御自身が、このイエスが好きだという思いを、与えてくださったのです。私たちが作り出したものではなくて、この好き、は感謝を燃料として燃える感情だからです。主イエスが私たちのことを、先ず、世界中で一番好きだ、そう言って私たちのために死んでくださったのです。良い羊飼いは羊のために命を捨てる(ヨハネ10:11~14)、そう言われたのです。一方、私たちはこの良い羊飼いを見捨てて、自分の行きたい方へ行く時、その結果は「何もとれなかった」(21:3)その人生の夜を迎えてしまう。それを可愛そうに思って、主は私たちに充実の人生を与えるために甦ってくださった、そして食卓を整えてくださった、そこで私たちの主に従う旅が始まるのです。おぼつかな足取りかもしれません。また、21:18b「…行きたくないところへ連れて行かれる」それは時に厳しいと思う。しかし、わたしはイエスが好きだとの思いが、それを支えるのです。それでも直ぐ躓きます。また湖に逃げ帰るかもしれない。しかし良き羊飼いは私たち羊を探しに来てくださる。そこで私のことが好きかともう一度、悔い改めの機会を与えてくださる、そうやって罪を赦してくださる。その感謝の服従の中で、私たちは主の小羊を飼う使命が与えられるのです。教会内外の小さな隣人、試練の中にある人々への奉仕の旅へと派遣されるのです。主に従うことは厳しい、しかし従わないことの方がもっと厳しいからに他なりません。

祈りましょう。 主なる父なる神様、パンは用意されていませんが、今朝も、この主の食卓を中心とする礼拝堂から派遣される私たちです。どうかその背を押して送り出してください。行きたくないところに行くことこそ、実は心の深みにおいて、私たちが最も行きたいところへの派遣であるという真実を教えてください。あなたのために捨てる時こそ、私たちは最も大きな賜物を得る、その祝福を聖霊をもって信じることが出来ますように。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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