2020年1月19日 主日朝礼拝説教「アイ、アム、ノット!」
ヨハネ福音書1:19~34 山本裕司 牧師
彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。(ヨハネ福音書1:20)
洗礼者ヨハネは、どのような経歴を経て洗礼運動を始めたのでしょうか。それは20世紀最大の聖書考古学的発見と呼ばれる「死海写本」との関連で論じられることがあります。クムランと呼ばれる荒野の断崖、その洞穴から、壺などに収められた聖書や宗教文書が発見されました。さらに岩山を発掘すると、砂の下から、クムラン教団遺跡が現れます。このクムラン教団とは、ユダヤ教エッセネ派に属する禁欲的修道会でした。彼らは、堕落したエルサレム神殿を忌避し、都を去り体制に背を向けました。何もない、泥と岩ばかりの死海北西の荒野に住み、厳しい戒律、礼拝、聖書研究に没頭したのです。考古学者が興味を寄せたことの一つは、施設に備えられた大きな浴槽でした。それによる全身洗礼が重んじられていたことが分かっています。このクムラン教団の性質と、洗礼者ヨハネには共通点があることに、学者たちは気付きました。その共通点とは、反体制、荒野、禁欲的、そして洗礼でありました。従ってヨハネの出自は、クムランにあるのではないか。あるいは、それに類似した修道会のメンバーであったのではないかと推測されるのです。しかも彼はその一会員に収まらず、つまりそれすらも飽き足らなかったのでしょう、一人ヨルダン川に下り、独自の洗礼運動を開始する。それは民衆に熱狂的に迎えられました。霊的力を失った宗教の復活を直感した人々が、ヨハネのもとに集まりました。このヨハネの実力、人気から考えると、彼は望みさえすれば、「イスラム教」のような大宗教の開祖となることも可能だったと思います。実際、この時期早くも、ヨハネ教団は成立しており、この人こそ待ち望んでいたキリストではないかとの期待が渦巻いていました。
都エルサレムの指導者たちが、ヨハネのもとを訪れていますが(ヨハネ1:19)、これはエルサレム最高議会によるヨハネの正体を調べる調査団であったらしいのです。どうして調査したのかと言うと、彼らは不安だったからに違いありません。旧約の時代、ずっと待っていたメシア(キリスト)が現れれば、自分たちのあり方もそれに適応しなければならない。しかしそれはクムラン教団が嫌悪して止まなかった、世俗に堕したあり方の悔い改めを迫られることでした。祭司たちはこれまで、自分が自分の王であった。しかし、ヨハネの洗礼を受けることは、魂の革命なしには済みません。そこで王の交代が起こるのです。これからは、自分ではなく、キリストに支配して頂く、それを受け入れることでした。変化はいつも恐れを伴いました。
ヨハネはそういう自分たちの安定を脅かすメシアなのか、祭司たちは不安の中で問いました。「あなたはどなたですか」(1:19)と。答えはこうです。ヨハネは「公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した」(1:20)。注解によると、これは軍馬に跨がる戦争に強い王ダビデ、そのメシア像の否定である、そうありました。ダビデでないのなら、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えます(1:21)。「あの預言者」とは、名を言わなくても「あの」と言えばユダヤ人なら皆知っている、モーセです。「あなたはモーセの再来ですか。」「そうではない」、このように、ヨハネは、これまで考えられてきた三タイプのメシア像を自分と重ねることを、全て否定した。そして続けます。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」(1:26)。そして「わたしはこの方を知らなかった。」(1:31、33)と繰り返します。つまり本当のメシアは、我々が知っているあの三人とは全く違うお方として来ると言うのです。
そう聞いた時、この祭司たちの不安は極度に高まったことでしょう。この三タイプであれば、既知ということで、不安は不安でも、その対処の悪知恵は幾らでもあった。ところがそうではなくて、実際、この3年後、真のメシアたるイエス・キリストが都に、驢馬の子に乗って現れた時、彼らは想定外のメシアを見出したのです。対処のしようがない。そのお方は神殿を打ち壊すと言われる。信仰を根本から作り替えると言われる。もう今までと同じでは済まないと。だから、彼らは主イエスを十字架につけました。自分たちが新しい王から、180度の転換・悔い改めを求められた時、それだけは許すことが出来なかったからです。その新しきメシアは、人間にとって、まさに未知の存在であった。何故なら、あの三類型のメシアとは、どんなに優れていても「人間」に過ぎません。しかしイエス・キリスト(メシア)は「神の子」(1:34)であられたからです。
この関連で言えば、洗礼者ヨハネは「わたしはメシアではない」(1:20)と言いました。この言葉の内には、ヨハネ福音書における最重要な言葉が含まれています。この補語「メシア」を抜かせば、英語で言えば「I am not」、「わたしは~でない」です。この言葉は単に自分は、ダビデ、エリヤ、モーセのようなメシアではない、という意味を超える否定が込められているのです。何故ならここから「not」を取れば、昔、燃える柴の前で、モーセに名を問われた神がお答え下さった、この御名そのものとなるからです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)。福音書の中で、主イエスはこうご自身を言い表しています。「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(ヨハネ8:24b)、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(8:58)と。主イエスは、出エジプトの神「わたしはある」とご自身を一体化される。英語で言えば「I am」です。決定的な神の御名です。洗礼者ヨハネは「公言して隠さず」(1:20)、否定形で宣言しました、「I am not!」と。その直後にも繰り返され、「違う」(1:21a)も、原文では「I am not」です。次の「そうではない」(1:21b)も同意です。つまり、ヨハネは「わたしは…でない」との3度の自己否定を通して、今、ここに来られるイエスこそ、「わたしはある」(I am)と、モーセに名乗られた「三位一体」の父なる神の「実子」であられる。だからこそ、真のメシア、王の王、未聞未見の方なのだ、と証ししたのです。
かの有名なグリューネヴァルトの祭壇画に、この証人ヨハネの姿が描かれています。その中心には、目を背けたくなるような十字架のイエスの姿が描かれている。その横の洗礼者ヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29)と、十字架の主を指差しながら立っている。ある解説者は、まるでこの画家は、人間の肉体のバランスを正確に描くことが出来ないかのようだと指摘します。ヨハネが十字架のキリストを指す右手人差し指は、あまりに均衡を欠いて肥大化している。そう言って解説者は続ける。それはこの画家の稚拙さがしたことではない。洗礼者ヨハネは、その肥大化した指に象徴されるように、彼の存在そのものが「人差し指」になってしまったのだ。「わたしは指である」と「わたしはメシアでない」(1:20)は表裏一体であるのです。そして私は思う。伝道者は、キリスト者は、皆、ヨハネに倣う「人差し指である」と。曲がった指ではない。曲がると、神を指し示しているかのように見せて、実は、自分を巧妙に指差す人生となる。それは伝道者の最大の誘惑です。そうではなく、私たちは真っ直ぐに伸びた指となる。それが「証し」です。「見よ!」と指差す証人の実存とは、同時に、自分ではないと、自分を指差すなと、自他共に戒めて生きることでもあります。私たちは「I am not!」と否定する時だけ、「I am」、その永遠の御名を指し示すことが可能となる者なのです。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29)。グリューネヴァルトの祭壇画では、十字架を指差すヨハネの足許には、葦の十字架を肩にした小羊が添えられます。小羊は胸元の傷から聖杯に血を滴らせています。三タイプを超える新しいメシアとは「小羊」なのだというヨハネの洞察は、ユダヤ人が代々守り続けている過ぎ越しの祭りの物語から示されたものです。それはまさに預言者モーセの時代の話、イスラエル人が大国エジプトの奴隷状態であった時、その呻き声が天に届き、神はエジプトを裁かれる。春分後の最初の満月の夜、悪霊がエジプト中を行き巡る。エジプトの初子の命を奪うために。しかし悪霊は、イスラエルの家の戸に塗られた小羊の犠牲の血を見て、神の民の家を過ぎ越す。この裁きに恐れおののいたエジプト王は、ついにイスラエルを解放したのです。
私たちもまた罪の奴隷状態であり、そのために、神の怒りを受けて、滅びなければならない存在です。しかしその時、神は、小羊イエスの十字架の血潮を見て、私たちの前から怒りを過ぎ越して下さる。罪を赦して下さる。そういう驚くべきメシアが到来する。確かに、ヨハネは、「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」(1:27)と、その至上の権威権能を正しく知っていました。当時、サンダルのひもを解く役目は奴隷の役割でした。彼は、自分は御前に奴隷以下であると言った。それほど偉大な王の王、主の主、天地創造の神ご自身、「わたしはある、わたしはあるという者だ。」その御名をもつイエス・キリストは、それにもかかわらず、過越祭の折り、その最後の晩餐において、弟子たちの足を洗われた。そうヨハネ福音書は後に記します(13:1以下)。洗足も当時の奴隷の奉仕でした。それは王の王、主の主が、僕の姿をとって、私たちより先に、謙遜の限りを尽くして仕えて下さったことを表しています。使徒パウロがこう言った通り。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、/かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、/へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)
そうであれば、この新しい王の到来を、エルサレムから来た祭司たちも、実はそんなに恐れる必要はなかったと思う。私たちはその王が、へりくだって下さったお方だからこそ、喜んでその支配下に入ることが出来るのです。このお方の支配とは、愛と奉仕と犠牲による支配だからです。このお方に支配される時こそ、あの出エジプトの民がそうであったように、真の自由解放を得るのです。西片町教会の敬愛する先達たちの声「見よ!」、そしてその「肥大化した右手人差し指」に促され、神の子、神の小羊イエスを見ることが出来た、私たちの限りなき幸いを思う。
祈りましょう。 主なる父なる神様、この驚くべき救い主の到来を、私たちもまた、真っ直ぐな指を以て、家族に、友人に、指し示す証しの使命を果たすことが出来ますように。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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