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2019年8月25日 主日朝礼拝説教「目指す地に向かって」

2019年8月25日 主日朝礼拝説教「目指す地に向かって」

ヨハネ福音書6:16~21  山本裕司 牧師

 「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」(ヨハネ福音書6:21)

 先週の礼拝の終わりに、若き2人の姉妹を覚えて祈りがなされました。2人が留学に出発するからです。ご承知のように、多くの国では、9月が新学期ですので、この晩夏に、旅立ちの祈りが捧げられました。EYさんはフランスの音楽院に、NYさんは香港の大学へと旅立ちます。そこでの学びと新しい出会いを思うと胸躍るような期待があることでしょう。しかし反面、深い不安もあるのではないでしょうか。海を越える、そこに何が起こるか分かりません。留学は海外が近くなった現在であっても、冒険であることには変わりないでしょう。
 私の友人たちも留学しましたが、その厳しい生活に打ち勝って、学位を取得したり、目的を達成したりして喜びの中で帰国した人もいます。「目指す地」(ヨハネ福音書6:21)という言葉がここにあります。2人の姉妹も同様の帰国を遂げると確信しています。しかし一方、そこに着かない、どうしても手が届かない。そのような迷路にはまる、そういう人もいます。留学は、時に異国の孤独と貧困、言葉の問題、勉強の苦しさの中に堪え兼ね、精神を病む人も現れるほどのことだと思います。そうであれば、それは、今朝、私たちに与えられた、ヨハネ福音書の言葉を思い出さざるを得ない旅立ちです。6:16~17「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。/そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。」

 夕方になって弟子たちは湖の向こう岸の町カファルナウムに舟を漕ぎ出しました。不思議なことに、マルコ福音書の並行記事は、目的地を「ベトサイダ」と書いています。何故、ヨハネでは目的地が変わってしまったのでしょうか。ある人は「カファルナウムへの偏愛」と指摘しました。特別な愛です。カファルナウムはイエス様の主要な活動地だった、それは主イエスがカファルナウムを特別に愛したたことの表れです。弟子たちは主イエスを愛していた。それこそ、偏愛していた。その主の愛した町を、弟子たちもまた、目指す地と覚え、舟を進めたのです。留学の志もそれに似たいる。彼の地への愛、その学問や芸術、その土地への愛が、海を越えようとする志を与えるのです。

 彼等は夕方に漕ぎ出しました。「既に暗くなっていた」(6:17)と訳されています。しかし大森めぐみ教会元牧師・土戸清先生は、この訳はソフトだと指摘しています。原文では、過去完了が用いられていて、「既に真っ暗闇であった」と強調されていると言います。そうであれば、この福音書の物語は、目指す地を見失う人間の夜の深さを描こうとしているのです。
 先ず、今言いましたように「既に暗く」(6:17)とある。そして「強い風が吹き、湖は荒れ始めていた」(6:18)。「25ないし30スタディオン」(6:19)の沖での出来事とあります。この距離は、5~6㎞で、それは丁度この湖の中間であるそうです。これもまた私たちの旅においてしばしば経験することではないでしょうか。新しい世界に飛び込む。しかしそこで溺れてしまうのです。もはや彼の地への愛も失われる。帰りたくなる。でも帰り道の扉は閉められている。帰りたいのに、帰れない。留学ノイローゼとは、これが理由です。そして17節に私たちにとって決定的とも言える言葉があります。「イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。」信仰者の夜はここで極まると言わねばなりません。

 夜、湖のど真ん中、嵐の海、イエス様も、この状況では来て下さるわけがない、そう思う場所です。人間は夜は見えない、人間は水の面を動くことは出来ないからです。その思いが、19節で、主イエスが湖の上を歩いて舟に近づかれた時、喜ぶどこではない、益々恐れた。イエスがこの場所に来て下さるなど信じていなかったからです。だから弟子たちは他の福音書にあるように幽霊だと思ったのです。彼らは未だイエスが誰である、本当には知らなかったからです。

 夜の水の面の上を歩くイエス、これは単なる奇跡(ミラクル)のことを言っているのではありません。ここにはだけは絶対にイエスは来ない。来ることが能力的にも出来ない。だから、そう私たちが思う所、しかしそこにこそ、キリストは来る。歩いて来る。闇の中でも。水の面でも。イエスは誰か、イエスは全能の神だからである、そうヨハネ福音書記者はここで、渾身の信仰告白をしようとしているのです。

 これを書いたヨハネ教会の成立について、この連続講解でも少しずつその歴史を紹介したいと思っています。後にヨハネ教会を創立することとなるユダヤ人たちは、ユダヤ教の会堂で、他のユダヤ人と共に礼拝を守っていたと言われています。しかし彼らが知っていた真理、イエスを神とする信仰は、ユダヤ会堂にとって、異端であり、神を汚すことと認定されたのです。そこで彼等は会堂を去り信仰の自由を求めて旅立ちました。伝統あるユダヤ教はローマ帝国の公認宗教ですので、迫害はされません。しかし教会は認められていません。それは迫害の嵐に翻弄される道です。結局ローマによる迫害は300年続いた。その長い夜の中で、多くの信仰者たちが思ったと思う。ユダヤ会堂に戻りたいと、あそこでは、確かに大声で「イエスは全能の神なり」とは告白出来ない。でももしかしたら、預言者の一人として尊敬することは許してもらえるかもしれない。それでもイエスの教えを少しは伝えることは出来るかもしれな。そうやってユダヤ会堂の中で、イエスを重んじる道もあったと。しかしその湖の逆戻りを、万が一でもしたら、教会は永遠に、目指す地を失うのです。いえ、それは全人類が、本来、真に偏愛しなければならない地・神の国という、人間の究極の到達点を失うことを意味していたのです。

 生ける主御自身が、水の面を動く全能の神ご自身であられる、だから神のいない世界はない。その救いのリアリティーを人類は永遠に失ってしまうのです。だからヨハネ教会にとってこれは、これは「25ないし30スタディオン」なのです。もう戻ることは許されません。
 土戸先生が言われる、原文では強調されている、この湖の「暗闇」(6:15)とは、ヨハネ福音書のクリスマスの記事に既に表れ「暗闇は光を理解しなかった」(1:5)と記されます。そこで御子イエスは「言」と呼ばれ、「言は神であった」(1:1)と、その福音書冒頭で、ヨハネ教会が最も世に向かって宣べ伝えたい真理が宣言されたのです。イエスが神なのだと。しかしその光を、暗闇は理解しない。それが世だと言われています。そうであれば、この暗い湖はこの世を象徴しているのです。イエスが神だと理解しない会堂であり、私たちの世界のことです。

 教会は迫害の嵐を避けて、地下に潜り、墳墓の奥に会堂を持ちました。まさに闇に捉えられる生活です。やがて、もうこんな所に主イエスは来て下さるわけがないと、多くの者たちが躓き、教会を去っていきました。信者の離反、裏切り、その痛烈な挫折の痕跡も、このヨハネ福音書から読み取ることが出来ると言われるのです。それを私たちは後に学ぶことになると思います。

 しかしそのような恐れる舟の中の弟子たちに、主イエスは言われました。「わたしだ。恐れることはない」(6:20)。いずれの注解書も、この「わたしだ」、という言葉に注目します。これは旧約聖書・出エジプト3:14において、若きモーセが始めてホレブ山で真の神と出会う。その時、神は、モーセの求めに答えて御自身の名を教えて下さるのです。それがこの言葉です。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」この言葉「わたしはある」、これは旧約聖書のヘブライ語で書かれてありますが、これを、ギリシア語で翻訳した古い聖書があります。その時の神様がモーセに教えて下さったお名前、それもギリシア語で「エゴーエイミ」と訳されました。それと同じ言葉を、ヨハネ福音書において、主イエスが湖の上で使われたのです。それが、6:20「わたしだ」(エゴーエイミ)なのです。何が言いたいかと言うと、この福音書は主イエス御自身が、大昔、このホレブ山で現れた神様そのもののお方なのだ、イエスが、大昔モーセと出会って下さった神御自身であられると、そう物語るのです。

 モーセが聞いた御名は「わたしはある。わたしはあるという者だ」、その意味は左近淑先生によれば、「わたしはいる、わたしはいる、本当にいるのです。」ということです。迫害の嵐の中で、闇の墳墓教会で、恐れの虜になる。イエスはここにだけはおられるわけがないと思う。しかしその試練のただ中に、主イエスは入り込んで来て下さり「わたしはある。わたしはいる。本当にあなたと共にいるのです。」つまり「インマヌエル」であると、イエス様は、そういう御名をもつ全能の神ご自身である、だから水の面を動いて来て「わたしはあなたと共にいる」そう言って下さることがお出来なのだ、そうヨハネ教会は、後の三位一体の教理となる、子は父なる神と同じ神である、その信仰をここで告白しているのです。

 繰り返せば、土戸先生が説き明かされたように、舟(教会の象徴)の中の弟子たちが漂ったのは、望みなき混沌の闇です。しかし創世記冒頭の天地創造物語おいて、創造主は、その暗闇に向かって「光あれ」と言われました。すると「光があった」のです。それはヨハネ福音書もその冒頭で、「光は暗闇の中に輝いている」と語り、混沌の闇に勝つ光の出現を歌い上げています。それが可能なのは、主イエスが、光の創造主ご自身であるとの宣言なのです。さらに言えば、その創世記冒頭では、闇の下に広がるのは、原始の海「水」ですが、この海もまた混沌の象徴です。しかし創世記は「神の霊が水の面を動いていた」(1:1)と語り、その暗黒の海の面を、神の霊が動いていると、まさに、この湖の上を動く主イエスの姿を先取りしているのです。つまり、ヨハネ福音書はこの湖の物語おいて、イエスは天地を創造された、全知全能の神と同一人物(神)であると訴えたのです!

 その全能の神・主イエスが「わたしはあなたと共にいる」、そう言って下さった。その御言葉によって、弟子たちは励まされたのです。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」(ヨハネ福音書6:21)。主イエスを「全能の神」、「創造主」として、舟、つまり教会が迎え入れた時、目指す地に着いたのです。特別に愛する地についたのです。ついに愛を得たのであります。そういう物語です。

 宗教改革者カルヴァンが書いた『ジュネーブ教会信仰問答』問一はこうです。「人生の主の目的(言い換えれば「目指す地」です)は何ですか」、答「神を知ることです」、これだけです。人生の目的、何故私たちが生まれてきたのか。何故私たちが人生という苦しい航海を続けているのか。その目指す地は、神を知ることです。イエスが神であられる、それを知ることです。その時、私たちが生まれてきた意味が全うされる。そこが「目指す地」です。生まれてきて、ここまで人生の航海をしてきて、本当に良かったと思えるのです!

 9月は海外では学校の新学期と言いました。教会でも、9月の主日を「振起日」と呼んで守ってきました。夏の間、少々たるんでしまった思いを引き締め、この秋、新しい志をもって、目指す地に向けて改めて出発しようという思いがそこにあります。それは教会においては、究極の人生の目的地である神を知るための再出発です。そこが最愛の場です。これを求めてこの秋も、礼拝を一週一週重ねていきたいと願います。そこで私たちは神である全能の主と出会うのです。その全能の神を拝むことこそ、私たちの人生なのです。それが時に私たちが落ち込む、暗い長い苦しみの季節をも耐えさせる、唯一の力だと、ヨハネ福音書はここに書いたのです。何と素晴らしい励ましでしょう!

祈りましょう。 主イエスキリストの父なる神様、秋を迎えようとしているこの時、改めて、この季節に相応しく「振起」して、船出する西片町教会の航海をあなたが祝福して下さい。その旅の中で、イエスこそ神であられると繰り返し告白し、御子に対する愛を深めていくことが出来ますように。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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