2019年6月2日 主日朝礼拝説教「礼拝こそ永遠の命の水」
ヨハネ福音書4:4~26 山本裕司 牧師
「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。」(ヨハネ福音書4:6a)
サマリアのシカルまで来られた主イエスは旅に疲れておられました。暑かったに違いありません。喉が渇いておられました。いつもイエス様を助けている弟子たちは、何故か主イエスに水を汲んで差し上げる前に、全員「町に行って」(4:8)しまいました。主イエスはお一人でした。誰もいない炎天下に、俯き肩で息をしながら座り込んでいるイエス様、これは神の子の深い渇きと孤独が表現されているのではないでしょうか。
どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。主イエスはこれまでユダヤ地方で洗礼(バプテスマ)を授けておられました(3:22)。やがて先輩として洗礼運動をしていたヨハネより、イエス様の方が多くの弟子を得るようになりました。それに危機意識をもったのが、ユダヤ教主流派であるファリサイ派です(4:1)。ヨハネへの敵意の矛先が、主イエスに向けられた。旧約の時代、ずっとメシアを待っていたファリサイ派が、ついに来て下さったイエス・キリストを受け入れない。そのために主は、エルサレム神殿の建つユダヤを去らねばならなかったのです。そしてご自分の故郷、北のガリラヤに戻ろうとされています。南のユダヤから北のガリラヤに下る時、その間にサマリアがありました。旅をするユダヤ人の多くは遠回りをしても、そのサマリアを避けて旅をしたのです。
元々、ユダヤもサマリアも同じ神の民イスラエルでした。ところが、BC935年、ソロモン死後、罪の故に、王国は南ユダと北イスラエルに分裂し、反目し合う関係となりました。やがて、BC722年、北イスラエルの都サマリアはアッシリアによって征服される。帝国の政策によって、異邦人がサマリアに移住する。そうやってサマリアは混血し、宗教、民族の純粋性が失われました。純血を尊ぶ南のユダヤはサマリア人を嫌悪し交際を嫌った。サマリア人の方でもこれに対抗してエルサレム神殿には詣でず、ゲリジム山に神殿を建て、そこで礼拝を守るようになりました。
「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」(4:20a)、それがサマリアの女の言った意味です。兄弟が敵対する時くらい憎しみが深くなる時はない。かくして、南北イスラエルとも御心から離れ、近親憎悪のただ中にありました。しかし主イエスは、「サマリアを通らねばならなかった」(4:4)とあります。「ねばならなかった」とは、それが神の御旨であったということです。主イエスは南では敵意に追われ、北では民族的憎悪のただ中に入って行か「ねばならなかった」のです。
主イエスは言われました。神の掟とは、第一に神を愛すること、第二に隣人を愛すること(マタイ22:37~39)、と。その両方とも破っているにもかかわらず、自分たちの方こそ本物だと主張したのが南北イスラエルでした。この旅の主イエスの疲れとは、決して肉体のことにとどまるものではありません。南も北も、信仰が見られない、愛が見られない、それが主の渇きです。既にここに十字架を背負って、弟子たちも去った中、ただお一人、ゴルゴタに向かう、主の孤独の旅の先取りがある、そう思います。しかし神の子はそこを通ら「ねばならなかった」(4:4)のです。神も隣人も愛さない罪によって、干からびてしまった世界、その砂漠を通らねばならなかった。キリストとして砂漠に命の雨を降らせるために。神と人との、人と人との、交わり、その潤いを回復させるために。
その炎天下の井戸に、サマリアの女が水を汲みにきました。主は言われました。「水を飲ませてください」(4:7)と。
サマリアの女は、人が暑さを避ける「正午ごろ」(4:6)を選んで、井戸端にやって来ました。誰にも会いたくないからです。彼女も渇いていた。その孤独の渇きを癒やすために、愛を求めて、五人の夫を交換し、今連れ添っているのは夫ではない(4:18)。村人たちは、そのような遍歴を重ねる女を蔑視した。そうやって、誰も近付いて来ない、自分でも誰も寄せ付けない、交際しない、孤独なサマリアの女でした。しかしそこに、隔ての壁を超えて、シカルにまで旅をして来た男がいるのです。見るとユダヤ人である。女は言いました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と。「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」(4:9)、そうある通りです。
私はここを読むと思い出す青年の言葉があります。自分は自由に生きたかった。バイトで金を貯めると旅立った。様々な国を見て回った。世界中を旅した。楽しいことを追い求めて生きた。自分のことしか考えなかった。それが幸福で自由だと思った。その旅が一年も続いた時気付いたのは、自分は何も興味を感じられなくなったことだ。最初の頃はわくわくした毎日が、今や、どんな珍しいものを見ても砂を噛むようであった。そこには誰とも本当には心を通わせられない、よそ者の自分がいるだけだった。たまらなくなって日本に帰って来た。同じだった。飢え渇いて山谷の食堂に入った。ボランティアの親切を受けて食事をした。その時、前にホームレスと思われる疲れ果てた男が座っていた…。僕は何故だろうか、これまでの人生で一度もしなかったことをした。立ち上がって、給水器の所へ行き、コップに水を入れ、それを男の前に置いた。男は顔を上げてにこっと笑った。その瞬間、何故だろう、電撃に打たれたようなショックがあった。それは深い感動だった。人を助けることをした。俯いている男の顔を上げさせることが出来た。自分にもそんなことが出来る。それはこれまで感じたことのない喜びだった。人と人の気持ちが触れ合うところに、人生があったのだ、そういう話です。
サマリアの女の前にも、この時、長く忘れていた、交わりの世界が開いたのではないでしょうか。一人の男が一杯の水を求める、それを差し出すことが出来た時、何故か、彼女自身の魂の渇きが癒やされ始めるのです。この対話の最後に、主イエスは、私がキリストだと自己紹介なさいました(4:26)。ここで主は女に、神の子との交わりの回復、つまり礼拝を求めているのです。この一連の御言葉の中で、主イエスは何度も「礼拝」についてお語りになりました。ゲリジム山でもエルサレムの丘でもない、「まことの礼拝をする者たちが、…父を礼拝する時が来る。今がその時である」(4:23)と言われるのです。
礼拝とは、私たちの教会の礼拝順序にも表れるように、それは交わりです。礼拝順序は招詞から始まります。神が私たちに招きの言葉をもって、ここに集まるように呼び掛けて下さるのです。その招待に私たちは賛美を以て応答します。礼拝に一方通行ということはありません。それは、神と人との「交際」(4:9)だからです。
ここで神の子イエスとの交わりだけでなく、ユダヤ人である人間イエスとの交際も同時に起こっています。「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」、そうあるように、互いに口も利かなかったユダヤ人とサマリア人の交わりもここで回復し始めています。礼拝においては、神と人との交わりの中で、人と人の交わりの回復も同時に起こります。礼拝順序では、それは、私たちが一堂に会し声を合わせて賛美したり、共に御言葉を聞いたりする姿に表れています。礼拝は一人でするのではありません。神と人との交わりが回復する時、これまで分断されていた人と人の交わりも同時に回復するのです。それが神の第一の掟、神を愛すること、そして第二の掟、隣人を愛すること、この二つにして一つの神の掟を守ることがこの礼拝において実現するのです。その時、私たちの砂漠のような孤独の心に、愛の水が満ちてくるのを感じるのではないでしょうか。そうであれば、主日毎の礼拝ほど大切なものは人生にありません。
話は戻りますが、主イエスは、このサマリアの女性に、「一杯の水」を求められました。主イエスご自身が「この水を飲む者はだれでもまた渇く」(4:13)と言われているのです。それでいて、それを罪人である私たちから主は求められるのです。神は別に人間から何か助けてもらったり、与えられたりする必要はありません。神は全てを持っておられるからです。私たちの方が、神から「決して渇かない」(4:14)水を与えて頂くのです。しかしある牧師は教えてくれました。主イエスは私たちに小さな献身を求めておられると。交わりとは何か、それは一方通行ではない、与え与えられる、献げ献げられる、そこに人と人の出会いが生まれる。神様とも同じだと。旧約聖書の物語、罪を犯し逃亡者となって天涯孤独のヤコブは、夜の荒れ野で、天から階段が降りてくるのを見る。その階段を「神の御使いたちが…上ったり下ったりしていた。」(創世記28:12)、その牧師はこの言葉に心を引かれています。つまり御使いだけでなく、神も、人間も、この階段を上ったり、下ったりする、そこに出会いということが表現されているという洞察です。これこそヤコブの礼拝であった。一方的に神の言葉を聞くだけではありません。私たちの方も、それが本当に小さな、一杯の直ぐ渇く水に過ぎないことを承知で、天の神に、文字通り精一杯、感謝のお返しをするのです。それが神様の何か得になるからではなくて、ただ神はその上がったり、下がったりする、その天と地の交際、交流を求めておられる。それが礼拝であり、命の泉であり、最も大切な掟、愛を満たすものです。決して渇かない水です。このようなまことの礼拝がここに与えられたことを、心から感謝し、御子の愛に応えましょう。
祈りましょう。 主なる父なる神様、神様も隣人も真の愛することが出来ず、そのために、深い渇きの中にある私たちに、憐れみの御手を差し伸べて下さい。どうかその伸ばされる御手を握り返して、神御自身であられる御子と和解し、同時に隣人と和解することが出来ますように。その愛の交際によって私たちの魂を、決して渇かない命の水で満たし、潤して下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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