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2019年5月5日 主日朝礼拝説教「私たちの罪を問う神」

2019年5月5日 主日朝礼拝説教「私たちの罪を問う神」

日本FEBC「全地よ主をほめたたえよ」(主日礼拝番組)で、この説教を含む西片町教会主日朝礼拝を、いつでも聞くことが出来ます。
FEBCインターネット放送(www.febcjp.com)
以下をクリックして下さい。
http://ch.febcjp.com/2019/09/15/susv190915/

ヨハネ福音書2:13~25  山本裕司 牧師

「…そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。/しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。…イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(ヨハネ福音書2:23b~24a,25b)

 私は以前教会暦「レントとイースター」に基づく説教集出版のお手伝いをしたことがありました。これは牧師20人に説教の提出を頂いて、一冊にまとめたものです。その時、編集者の一人が、全国から集まってきたレント、受難週の説教を読んで、こういう感想を言われました。それらの説教の傾向として、イエスは私たちの苦しみを担って下さり、傷ついた私たちを癒やして下さるという説教が多い。所謂「癒やし系」である。どの教会暦の説教もその傾向が強いが、レントの説教においても余り変わらないのはどうか。レントなのだから、主を十字架につけた人間の罪の深刻さが強調されるかと思うと、そうでもない。罪が語られず、癒やしが語られる。厳しいイエスでなく、優しいイエスが語られる。ここに今という時代の問題がある。そういう意味のことを言われました。その時代は特に、テレビで、スピリチャルカウンセラーとかいういかがわしい男がもてはやされるなど、「癒やし」という言葉が流行していたのです。
 
 私はその編集者の話を聞いて同感しながらも思いました。癒やし、それは大事だ。主が私たちを慰めて下さる、それは正しい。しかし、私たちが真実に癒やされるためには、罪の問題が解決されねばならない。癒やしを語るのは良い。しかしその癒やしのためにこそ、罪が問われねばならない。そして人間の恐るべき罪が赦されことを知らない限り、私たちに真の慰めはない、そう思いした。

 私たちは主イエスが伝道を始められたばかりの箇所・ヨハネ福音書2章を読んでいます。その時主は、過ぎ越しの祭りのために、都エルサレムに弟子たちと共に上られました。そしてイエスたちは、イスラエルの信仰の中心、この福音書2:20にあるように、46年間をかけて建てた巨大な神殿にお参りしました。その時、主イエスの内に湧き起こった御感情は、怒りだったのです。それは誰かが言う、癒やし系イエスとは全く異質なお姿でした。
 
 特に、私はヨハネ福音書2:23以下を読んでいて、本当にはっとさせられた。多くの人々が、この祭りの間にイエス様がして下さった、しるし、つまり奇跡を見て、御名を信じるようになったと書かれています。普通、本当に良かったと思う所です。ところが、「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」(2:24a)と書いてある。聖書の中でこんなに恐ろしい言葉はない、と注釈している人もいました。イエスを信じる、そう言っている人たちを、主イエスご自身が信用されなかった、と言うのです。どうしてかというと、「すべての人のことを知っておられ」(2:24b)たからだと、「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(2:25b)、そう畳み掛けるように書かれてあります。人間とはどういう存在であるか、信仰と言うけれども、その信仰がどれほど曲がっているか、だから主は人間を信用しない、と言われた。

 今、思わず心は曲がっている、と言いました。私はこの朝、教会学校の礼拝で、ガラテヤの信徒への手紙の説教をしました。その準備をしている時、鈴木正久牧師のガラテヤ書注解を読みましたが、先生は使徒パウロの厳しさを解説していました。「曲がったレールをハンマーで強打して真っ直ぐになおすように」パウロは語る。教会の性根(しょうね)が曲がってしまったからだ。それを直すには、猫なで声ではどうしようもない。ハンマーで強打する、その固いハンマーの役割をこの手紙は果たす、そう言われるのです。教会で癒やしを得ようと思ってきたのに、いきなりハンマーで強打とは物騒な話だと思われる違いありません。しかしそうではない、このガラテヤ教会に宛てた手紙を読む時こそ、真の癒やしが私たちに与えられると確信します。自分がハンマーで叩き直される、それは衝撃を受けるに違いありませんが、感謝なことです。どうしてかというと、その叩き直された真っ直ぐなレールの上にこそ、神の癒やしの道が作られるからです。
 
 イエス様の方は、ハンマーではない。「縄の鞭」(2:15)です。鈴木先生より少し優しいとも言える。私たちはあの美しい詩編23編をも思い出します。「あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」言い換えれば、そうやって、私たちを励ますのです。それが真の慰めです。繰り返します。そのために主は、私たちの罪を問うお方なのです。

 「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し/鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ福音書2:15~16)

 このように怒られた者たちは、どうしてこんな目に遭うか分からなかったと思います。彼らはいくらでも言い訳が出来ます。外国から持ち込まれる貨幣は汚れているから、そのまま献金は出来ない。だからユダヤ貨幣への両替は必要だったのです。その手数料を取るのは当たり前であった。また神様に生贄を献げるのだって、巡礼者が遠くから連れてくることは出来ない。だから動物を売る。それでお金を儲ける。そしてこの商売の上部構造として存在するのが、宗教的指導者たちです。さらに最上位に、この神殿を46年かけて建てた王がいる。そのような癒やしを求めるユダヤの民の心を利用して、金を最終的に吸い上げていくのが、その国の聖俗両権力者たちでした。その力で神殿は益々大きく立派になりました。巡礼者はそれを飽きずに眺め、自分は安心だと、癒やされたのです。そういう心に表れる罪とは、2:18のユダヤ人のイエス様への抗議の言葉から暗示されます。「しるし」と彼らは言いました。ここに主イエスが、彼らを信用しないと言われた理由があるのです。

 私たちは立派なものを見ると信じるようなところがあります。カルトがそれこそ霊感商法を使う。癒やしの商売をする。それが成功した時、どうするか、立派な宗教施設を建てる。教祖は宗教的衣を身にまとう。こんな立派な大寺院、あんなに見事な僧服を着ている教祖、そして奇跡を起こす。それはマジックですが、とにかく夥しい信者をはべらせ、だから信ずるに値すると思わせる。それがしるしです。

 それと似たことが、神殿でも起こったのです。先ほどの旧約聖書の言葉、預言者エレミヤの言葉を読みました。当時の社会状況は大変動揺していた。その時、人々の心を静めたのが神殿詣でした。「これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ」、この巨大神殿があるなら我々は大丈夫だ、という意味です。しかし預言者はそれは間違った安心感だと言った。みな主イエスの父なる神への信仰から、心を逸らすための悪魔の発明です。中世カトリック教会もかつて贖宥状販売という間違いを犯した。このお札を買えば、死後天国へ行ける、そう言って、ついにバチカンの聖ペトロ大聖堂を建立した。その建築は、それだけで誰もが、やはり教会の救いは本物だと錯覚するほどの見事さです。しかしそれは迷信です。カトリック教会の持っている本質的な教理にこそ、神の救いがあるのであって、建物の立派さに、救いのしるしを見ることが出来ません。そういう目に見えるものに惑わされるところに私たちの罪がある。

 どうしてそれでは駄目なのでしょうか。それこそ、ガラテヤの信徒への手紙で、パウロが言った、鈴木先生が言った、主イエスの十字架のみが、私たちの救いだという、その教えを、ハンマーで叩き直してでも、真っ直ぐにしておかないといけないからです。
 十字架とは、大神殿や高価な僧服とは対極にあるものです。荒れ削りの十字架に、裸のイエス様がつけられました。ここに救いのしるしがあるとは誰もこの時思えなかった。弟子たちもそうです。後で分かった。「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」(2:22)
 ユダヤ人は、イエスよ、「あなたなは、どんなしるしを見せるのか」(2:18)と問われた時、主は答えて下さいました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(2:19)、これは、ヘロデの神殿のことではありません。福音書記者はこう説明しました。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(2:21)。

 神殿とは神様と出会う救いの場です。その真の神殿とは、イエス様の御体なのです。主の御体は十字架で引き裂かれた、壊された、しかし3日目に復活された。それがしるしなのです。そして復活された時、このヨハネ福音書の終わりですが、弟子のトマスが、その復活を信じなかった。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、…わたしは決して信じない。」(20:25)、ところが復活の主がそのトマスの前に現れて言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(20:29)
 私たちも今、復活の主を見ることは出来ません。この福音書を書いたヨハネ教会の時代、誰も復活のイエス様を見ることは出来なかったのです。でも信じることが出来るのです。しるしがなくても、大聖堂がなくても、私たちは福音を信じることが出来る。そこでだけ、真の癒やしが私たちに与えられる。罪が赦されるのです。

 「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。/イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」(2:21~22)

 これは、この福音書を生み出したヨハネ教会の人々の心であると思います。彼等も激しい迫害下にあった。目に見える力は何もない。西片町教会のような立派な礼拝堂も持っていなかったのです。しかし、とうとう彼らは分かったのです。主が十字架について3日目に復活された時、分かったのです。そして彼らはついに主から信用される人になったと思う。自分たちの罪の大きさ、それを赦して頂くためには、動物で解決しない。沢山献金したから救われるのでもない。会堂など関係ない。自分の罪、それを本当に知る、どうしようもないのだということを知る。だから十字架と復活に頼る。そこから神に信用して頂けるキリスト者の道が開くのです。

 あるいは、動物犠牲については、主はこう言って下さるでしょう。もうそのような業は必要でなくなったのだと。もはや羊や鳩のような犠牲の捧げ物は必要ない。わたし自身が父なる神への捧げ物となろう。そうやって、主は御自身が十字架につかれるのです。
 1:29には、洗礼者ヨハネがイエス様を指して語った言葉が記されております。それは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」という言葉です。「キリストこそ、まことの犠牲の捧げ物だ」ということです。主イエスの十字架とは、動物犠牲の終わりです。もう金や動物と引き換えの癒やしを求める必要なない。だからここにあるのは、主イエスの真の優しさであります。

 人間は本当に信用ならない。目に見えるものしか信じない。人間の力しか信じない。その罪を主は全て背負って十字架について下さり、贖って下さったのです。御子の犠牲の故に。そして、主の犠牲の力を信じる者の信仰は、信用すると主は言って下さる。この主の怒り、主の不信を突き抜けた時に、本当の救いが、十字架の罪の赦しと復活の命が私たちに与えられる。ここに平安がある、そう思います。

祈りましょう。 主なる父なる神様、私たちの罪を思います。どうか正しく聖書を読み、そこに聖霊を添えて下さい。そしてあなたの深い御心を知ることが出来ますように。御子の十字架と復活だけが私たちを救い、そこにのみ真の癒やしと愛があることを信じ、あなたに従っていく者とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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