2019年5月19日 主日礼拝説教「神はあなたを死ぬほど愛す」

創世記4:9~16 ヨハネ福音書3:16~21 山本裕司 牧師

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3:16)

 この御言葉は、古来「小聖書」と呼ばれてきました。「小聖書」とは、全聖書を代表する言葉という意味です。それは、ある人の言葉を借りれば、聖書の他の部分が全部失われたとしても、この言葉が残されている、そうすれば、聖書のメッセージは生き残ったことになる、ということです。例えば、悪魔的な権力が誕生し、大迫害の嵐が起こり、聖書が焚書(ふんしょ)として焼き捨てられた。あるいは核戦争の末、全文明が破壊されてしまっても、この新共同訳聖書の千切れた新約167頁が、廃墟の中に残る。おそらく、家族を失った中で生き残った、ただ一人の少女が、その一枚の断片を、手に取って、じっと見詰める。そこに光が射すのです。そこに人類の未来がもう一度開かれてくる。これはそれほどの言葉であります。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 改革者ルターはこれを「福音のミニアチュア」と呼びました。中世の絵画に「ミニアチュア」、細密画と呼ばれるものがあります。それに似て、これも小さい一節ですが、福音の全てがここに凝縮されていると呼ぶのです。

 この光を放つ言葉は、主イエスとニコデモとの対話の中で語られました。注解者たちはそこに、これを編纂したヨハネ教会の思いが表れていると解説しています。いつかその教会史を説明する時も来ると思いますが、一部だけ申しますと、このヨハネ教会を創立した人たちは、元々、ユダヤ会堂に属していたと思われます。しかし、主イエスへの特別の思いの故に、そこを出た人々でした。自分が長く属していた場を去ることは誰でも寂しい。友人との別れがあり、その会堂の装飾一つにも思い出が染みついている。その愛着を振り切って最初からやり直す。それは特に年配者には辛いことだと思います。しかしヨハネの教会を建てた信仰者たちは、「新たに生まれ、神の国を見る」ことを求め、その執着を断ち切った人たちでした。この主の御言葉を信じて。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3:3)

 しかし一方、確かにイエスの偉大さを認めながら、ユダヤ会堂を出ることが出来ない者たちがいました。その代表こそ、老ニコデモとして描かれていると注解されるのです。最初、主イエスとニコデモの対話は、二人だけで始まりした。ところが、やがて複数形を使う対話となる。これはとても興味深いことです。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。」(3:11)、それはミュージカルのような舞台で言えば、最初、闇の中に二人だけが立って対話している。ところがいつの間にか、その二人の背後に、二つの群れが浮かび上がり、彼らも二人の対話に重なって歌い交わし始める。一方が「あなたがたは、新たに生まれなければならないのだ」と呼び掛けると、他方が「年取ったわたしたちがどうやって、生まれ変わることができるのですか。」と問い返す。
 ですから、このイエスとニコデモの二人は、自分の属するグループを代表して語っていたことが明らかになります。それは注解によると、キリスト教会とユダヤ会堂です。時代は違います。主イエスとニコデモの対話がなされたのは、紀元30年頃です。そして、ヨハネ教会の戦いは、それから半世紀が経過した紀元80年に起きました。しかし、その2つの出来事が、歴史を超えて、この福音書という一つの舞台で、二重になって描かれるのです。そしてついにヨハネ3:16に至る。その時、その暗い夜の舞台が一瞬にして明るく照らされ、その背後に大合唱団が浮かび上がって、大声で歌い始める。その時ここは、「独り子」、「御子」という3人称で呼ぶわけですから、もうイエスの言葉ではありません。これはこの御言葉を「小聖書」、さらに福音の「細密画」として仰ぐ、代々のキリスト教会の歌です。ニコデモ一人にではない。これは全世界、全人類に向かう宣教の言葉です。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 どうしてこの言葉が、全世界の人に必要なのか。その世界のことを福音書は「世」(3:16)と書いています。「世」とは、ヨハネ福音書において、はっきり「天」と対立する罪の場を意味します。旧約・創世記に記される、兄弟殺しカインが彷徨う「エデンの東」こそ「世」です。そのような罪人の呪われた世を裁くために、主は来られたのでしょうか。そうではありません。話は全く逆であって、神は独り子を、そこに与えられた、それほど世を愛されたのです。

 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3:17)

 この愛は無償で与えられました。これに反して、世とは、取り引き、損得勘定の世界です。確かに「ただほど怖いものはない」と言われるのが「世」です。しかし、神の独り子は「ただ」でこの世に与えられたのです。これは怖くない。それはこの「愛された」(3:16)という言葉で明瞭になります。この愛とは、アガペーというギリシア語が使われているからです。それは無償の愛を表す言葉です。だから教会の救いは全て「ただ」です。洗礼を受けるのは「ただ」です。献金は確かにあります。しかしそれは救いと関係ありません。それは「ただ」で救って頂いた神様への感謝の応答です。その大小で、救いは些かも左右されません。しかし私たちは、全てが金に換算される世において、いつの間にか、ただのものは無価値なものと思うようになりました。しかしそうではない。実は、本当に高価なものとは、金で買うことが出来ないもののことなのであります。

 かつてIT長者Hが、人の心は金で買えると、言いました。「大金を手に入れた瞬間に、とても口説けないと思っていた女を口説くことが出来たりする。」そう彼は書きました。私は想像します。短足の彼はもてないことに苦しんできたのではないかと。ところが、ビジネスで思わぬ成功を遂げて、金が湧き出てきた時、自分を取り巻く世界はこうまで違ってくるのかと、圧倒されるような思いにかられたと思う。だから、あのつまらない本音を漏らしたのではないでしょうか。しかし彼自身が痛いほど知っているに違いない、女の愛を金で買うことは決して出来ないのです。買えるとしたら、それは「アガペー」ではなくて、もう一つのギリシア語である「エロース」という名の愛です。このエロースの意味は確かに愛ですが、しかしそれは相手からの「見返りを求める愛」を意味する言葉です。大金をもらえるから、美女は彼についていった。しかしそれがどれほど男にとって空しいか。
 Hだけでない、本当に私たちが求めているのは、アガペーです。金で買えない愛です。貧しくても、病んでも、挫折の夜も、そしてたとえ罪を犯しても、変わらず愛し続けてくれる女、自分といると損をすることが分かっているのに、決して棄てない女、そういう無償の愛を与えてくれる「美しい女」を、私たちは実は、自分でも知らないほど、魂の底で、激しく、飢え渇くほどに求めている。その愛があれば、もう何もいらないのです。それはおそらくそのように愛された時だけ、経験する至高至福、宗教的法悦に近い経験だと思う。金も家も快楽も、地位も名誉も、あるいは生命さえも、もう何もいらなくなるのです。その愛・アガペーを本当に得た人はそういう心となるのです。愛とは実は、私たちにとって、それほどのものなのです。

 ところが、年老いたニコデモのような私たちが、それを少しも求めないのは、長い人生経験で、すっかり愛に絶望したからです。それがどこかにあるような気が、少年の頃はしていた。しかしニコデモの言葉(3:4)を借りれば、「年をとった者が、どうして生まれ変わって、愛を信じられるようになるのですか」、そう問わずにおれない。愛を信じるには年を取り過ぎたと。

 しかし「新たに生まれた」(3:3)ヨハネ教会は、その老いた世に向かって、絶望してはならない。愛(アガペー)がある!ここにある!、そう叫び出した群れです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 「与える」との意味は、独り子が、この世のために死ぬことでした。独り子が、アガペーなき荒れ野の世に、雨のように命を注ぎ出して下さった。それでこの渇ききった世は潤い、始めて生きるに値する世界になったのです。だから歓喜の大合唱をせずにおれない。そして、ヨハネ教会は、愛に渇いた人たちに、共に歌おうと、そして永遠の命を得ようと、招き続けているのです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 しかしヨハネの教会の悲しみは、この御子の愛をユダヤ同胞が受け入れないことでした。そのユダヤ会堂の代表であるニコデモは、「ファリサイ派に属する」(3:1)と書かれてあります。真剣に旧約律法を守る教派です。神は律法を守る人を愛し救われる、そう信じて律法を遵守しました。しかしそうであれば、Hと似ているのではないでしょうか。「金で女の心を買う」、それと同じで「義で神の救いを買う」のです。そうであれば、罪を犯したら、もう終わりです。金と権力を失ったHから美女が離れていったように。律法違反をしたら、神もニコデモから離れていく。取り引きの世界がここにも現れる。その老ニコデモに向かって、神の愛とはそうじゃない!、そうじゃないことが、御子イエスの十字架で分かったのだ!、そうヨハネ教会は訴えるのです。

 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3:17)

 そう書いたのに、直ぐ次に「裁き」のことが出て来る。

 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(3:18)

 どういう意味でしょうか。それは簡単です。愛を受け入れない者は、悲しいからです。無償の愛を与える女を、唯一の女として選ばなかった男の生涯は悲しい。当然なことです。それが裁かれているということです。御子は、私たちを無償の愛で愛して下さる。ただで愛して下さる。私たち罪人がエデンの東で、死ななければならないのに、御子イエスが私たちに対する愛の故に、代わって死んで下さったのです。

 もしこの愛を受け入れなければ、それは寂しい。繰り返し申します。その寂しさこそ、私たちの裁きなのです。男とは本当に馬鹿なところがある。無償の愛を与えてくれる女を、大切にせず、打算の美女、その闇の女を好むようなところがある。

 「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(3:19)

 本当に不思議だ!、ヨハネ教会は叫んでいる。御子の愛を受け入れないことが罪です。どんなことがあっても愛し続けてくれる、その女を棄てるほどに、寂しい。それが私たちの受ける裁きです。孤独こそ裁きであります。一刻も早く真の美しい御子の愛を、私たちは受け入れたいと願う。

祈りましょう。 父なる神様、御子の無償の愛を軽んじ、空しいものに大金を出して惜しまない、その愚かさを裁いて下さい。そのような闇を好む私たちを、この復活節、新たに生まれさせて下さい。若々しく甦って、光を目指して進む春として下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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