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2019年4月7日 主日礼拝説教「見よ、血に染まるイエスの背を」

2019年4月7日 礼拝説教「見よ、血に染まるイエスの背を」

創世記9:5~13 ヨハネ18:38b~19:16a  山本裕司 牧師

「イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。」(ヨハネ福音書19:5)

 主イエスが十字架におつきになられることによって、十字架につかなくて済んだ男がいたと、福音書は記します。その男の名が、ヨハネ福音書18:40に2度出て来ます。「バラバ」と。ローマ帝国のユダヤ支配のために派遣されている総督ピラトは、ユダヤの祭司長から要求されます。イエスを十字架につけよと。しかし、ピラトにはイエスが罪を犯したとは思えません。そこで放免したかった。そこで過越祭の恩赦を用いようとしまして言った。「ところで、過越祭にはだれか一人を釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」(18:39)、しかし祭司長に扇動された群衆が大声で答えた名は「バラバ」の方でした。
 「バラバは強盗であった」(18:40b)、そうあります。しかし他の福音書には、バラバの罪は「暴動と殺人」とありました。それで多くの人が推測するのは、バラバはローマ支配に抵抗するユダヤ民族主義者であった。強盗と言うのは、武装のためにローマ軍から盗んだ武器のことかもしれません。あるいは、銀行を襲って革命のための軍資金を得たことなのかもしれません。そうであれば、ローマをユダヤから追い払うために、物を言うのは力であると、武器であり、金である、それがバラバの生き方でした。しかし主イエスは、力を求めませんでした。神の愛によって世界が変わることを求められたのです。

 しかしユダヤの人々はバラバを選び、イエスを捨てました。ある人は書いています。それはユダヤだけでない。「いつの時代でも、いずれの国でも、人はバラバの道を選び、イエスの道を拒否するだろう」と。

 この過越祭で選んだバラバの道は約40年後のユダヤ戦争へと続いています。ユダヤの反ローマ軍事行動に、皇帝は大軍を派兵し、都エルサレムを5ヶ月間包囲した。城内は飢餓地獄となりエルサレムは陥落します。死者110万、奴隷に売られた者10万人。落城の都を逃れた者は死海西岸のマサダの要塞に立て籠もり、さらに2年半戦いましたが、それも全滅しました。私たちの日本も、今、改憲などバラバの道を選択すれば、何年か後か、何十年か後に、同じ破滅の時を迎えるのではないでしょうか。

 そうやって人は力の道を選んだ、神の子の愛の道を拒否した。しかしそれによって、神は負けたのでしょうか。福音書は神の子の敗北に見える所に、不思議な逆転が起こっていると語ろうとしています。最初に言いました。少なくてもここで、主イエスが十字架につかれることによって、一人の男が十字架から救われたのです。そこに既に、主イエスの無力が、総督が最も死刑にしたかたった、反ローマの罪人(ざいにん)を生かす力となっている、そのことを知ります。やがて、使徒パウロが、その一人の男に起こったことを普遍化した。
 「 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(コリント二5:2)。
 この不思議な交換、罪なき者が罪人となる、そのことによって、罪ある者が義とされると言われるのです。

 物語は、ローマ兵による主イエスへの侮蔑の儀式が続きます。イエスに着せたのが「紫の服」(ヨハネ19:2)とあります。王たちは、貴重な貝から僅かに採取出来る染料による、高貴な色・紫のガウンを着るのを好んだ。それになぞらえて、イエスにただ色が似ているだけのぼろ布をまとわせた。そしてその頭には「茨の冠」を被らせる。そこに生まれたのは、仮装行列から抜け出てきたような、無様な王の姿でした。それから兵士たちは「ユダヤ人の王、万歳」と嘲り平手で打ちました。何たることかと思います。そういうやり方で、お前は王ではない。お前はピエロなのだと虐めたのです。
 しかし私は思います。ここにも不思議な交換があると。私たちこそ実はピエロである。そのことを私は画家ルオーから学びました。ルオーの作品にはピエロの姿が多く描かれています。初期のルオーにとって、ピエロは人間の罪の象徴でした。その作品は真に醜い。道化師は確かに今、観衆に取り囲まれ、ライトに照らされて喝采を浴びている。きらびやかな衣装に身を包んでいる。しかし、彼の顔は大変醜くい。そういう絵を描きながら、ルオーは、ここで人は皆道化師と、語ろうとしている。外観は華やかな飾りに被われていても、その下には、苦悩で歪んだ顔が隠れていると。

 「裁判の席」(19:13)という言葉があります。ルオーの初期作品には、裁判官を描いたものも多くあります。彼らもまた美しい礼服を身にまとい、自信に溢れ人々を見下ろしている。しかしその顔は醜い。そうやってルオーは、「裁くな」(マタイ7:1)と戒められた主に対立した時、醜悪そのものとなると描きました。この受難物語に登場する兵士も同じである。軍服に多くの勲章を並べていたかもしれない。しかし、それは虚勢だと、それもまたピエロの飾りに過ぎない。その衣装がはぎ取られた下は、ただの醜い肉体が残るだけだ、それがこの世の力に頼る人間の本質であると、初期ルオーは皮肉たっぷりに描きます。

 ところが後期になると、ルオーの描くピエロの顔は、キリストの顔と重なるようになります。そこで解説者は語る。そのピエロの悲しみ、権力者の悲しみ、ただ上辺だけを飾っている、心の中は悪魔のような姿、その原罪の悲しみ、そのバラバの道を行く人の罪を、全て背負って下さるためには、主は御自身がピエロになって下さったと言うのです。そうやって、ピエロとしか生きることが出来ない私たちの悲しさを負って下さった、と。

 イザヤはそれを預言した。「この人は…見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。…彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに…」(イザヤ53:2~4)と。

 ピラトは、「イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた」(ヨハネ19:5a)。その道化師のようになった王イエスを、「見よ、この男だ」(19:5b)と言って、祭司長たちの前に連れて行きました。ラテン語で「エッケ・ホモ」です。これはニーチェも用いて、大変有名な言葉になりました。しかしピラトは、この自分の言葉がそれほど重大な意味を持つなどと夢にも思わなかったと思います。ただ、この憐れな男をどうして、お前たちは殺したいのか。もういいだろう、見よ、この男の惨めさを、その程度の意味であったと思います。しかし後にこれを読む信仰者たちは、ピラトのその思いを遙かに超えた。この人は道化師でなかった、神御自身であった、この主のまとう、「紫の服」(19:2)が、どれほどみすぼらしくても、実はこの色が、この男こそ、王の王だと示している。
 天の軍勢を動かすことの出来る神の子が、その力を捨てて、罪人の醜さを負って下さった。そうしなければ、全ての人間が進む、バラバの道を阻止する者はいなくなってしまうのです。そのために御子は、罪人の一人となり、ピエロとなる、それと引き換えに父よ、人間を救いこの地球を守って下さい、そう祈って下さったに違いない。その救いをそういう形で実現して下さった王なのだ。「この人を見よ」、このピラトの言葉は、そういう意味の信仰告白となりました。

 バッハの「ヨハネ受難曲」の全曲の目的こそ、「この人を見よ」という訴えであることは明らかです。主の十字架が左右対称(シンメトリック)構造であることから、この受難曲には、幾重もの対称構造が仕組まれていると説明されます。その「ヨハネ受難曲」の心臓部こそ、今、私たちが読んでいる御言葉であると言われます。そこには群衆の叫びやコラールが対称的に配置されました。その中心に、あるのが、「…ピラトはイエスを釈放しようと」(19:12a)したと。「しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「この男を釈放するな」(19:12b)と。この間に挟まれるコラールです。それはこう力強く歌う。「あなたが捕らわれたからこそ、私たちに自由が訪れたのです。あなたの繋がれた牢獄は、全ての信じる者の罪の赦しの場です。」この交換を実現して下さった、「この人を見よ」であります。

 この説教題は、「見よ、血に染まるイエスの背を」としました。戻ると、19:1にはこうありました。「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。」この言葉の直後「ヨハネ受難曲」でアリアがこう歌い始めます。「心せよ、血に染まった彼の背が、すみずみまで天国に等しいさまを。そこでは私たちの罪の洪水の大波が引いたあと、こよなく美しい虹が、神の恵みの徴として出ているのだ」、そう美しくテノールが歌う。鞭打たれ、血に染まった主イエスの背には、神の国の平和が映っていると。余りにも美しいこの歌は、創世記のノアの洪水物語を思い浮かべていることは確かです。
 「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。…」(創世記9:5~6)、そう言われます。これは主イエスの犠牲の血を指し示していると思いました。そして、洪水が引いた後の大地で、神とノアとの新しい契約が交わされます。「…二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼ」(創世記9:11)すことはしないと。そのしるしとして、雲の中に虹が現れるのです。大地を覆う恐るべき人間の高慢と虚飾の罪、その原罪の洪水は、御子が血を流すことによって終わる。そこに神と人との和解のしるしである虹が現れる。バッハは鞭打たれ血に染まるイエスの背から、平和の虹が輝き出ると歌い上げています。

 あるいは、ボンヘッファーもこう言った。「この人を見よ!この人において、神とこの世界との和解が成ったからだ。破壊によってではなく和解によって(力ではなく愛によって)、この世界は克服される。…ただ神の完全な愛のみが、この世界の現実に直面して、これに打ち勝つのである。…(だから)この人を見よ!」(森野善右衛門訳『現代キリスト教倫理』22頁)

 私たち、バラバの道を行く者には、ありえない方法だと思う、十字架の無力、十字架の血、十字架の愛こそ、人を救う力だと、それを成し遂げて下さったお方を指さし「この人を見よ!」と世に訴え続ける私たちの教会の131年目を歩み続けましょう。

祈りましょう。 主なる神様、私たちを生かす力が本当には何か、直ぐ見失ってしまう愚かなものであります。武器や富を見よと指し示す、破局への道でなく、十字架の御子を「見よ」と呼び掛けることによって、平和の虹を呼び起こす教会を建てることが出来ますように。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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